ニーベルンゲンの指輪物語 その七
午後の講義室へと佳苗は入った。単純に佳苗が担当する有機化学の講義があるからである。ニーベルンゲンの指輪を隠すように右手を白衣へと入れているのは、学生の不快なかんぐりを避けるためである。
三年生の一学部一学科の四分の一なので人数はそこまで多くは無い。彼等を前にした佳苗は時間になると教科書を開き講義を始めた。内容は非常に簡単で基本的な有機化学である。その内容を佳苗は自分のやりやすいように話す。指輪により学生の大体が理解し易い内容に変えることもできたがそうするわけではない。彼らは学びに来ているのだから、別に学ばせる側が合わせる必要なんてまったく無いからである。
幾らかの学生が講義についていけないのは確かだった。だが講義を聞かない学生に佳苗が不快感を覚えないわけではない。結局テストを作っても内容は教科書と同じものにしなければならないというルールがある。どんな講義をしようと、不真面目な学生だろうと結局は皆通ってしまうのだ。
くだらない講義の間に歪な惑星の光景や大体の症例で完治させることのできる風邪薬の合剤の製作法などを佳苗は指輪で見る。
このような散漫なことをしても全能の指輪は自然な佳苗のイメージする講義を忠実に演じさせるのである。
講義を早めに切り上げると、途端に講義室は雑多な音に包まれた。その音に呆れながらも講義室を出る準備を進める。学生の大半は歴史を変えるような有機合成よりも、友人の噂の方が何倍も重要なのだ。
「二村先生、質問いいでしょうか」
予言の通り一人の学生が佳苗に声をかけた。少しだけ露骨にため息を吐くと、佳苗は彼に言葉を返す。
「どうした?」
「先週の問題を考えて来ました。それで話を伺いたくて」
先週、『正確な解答を提示出来たら単位をやる』と佳苗が講義で出した問題があった。この男子学生はそれを解いたのだ。
「聞こうじゃないか。それで、書いたものはどこにある?」
「幾らかルートが考えられたので枚数が多くなったんですけど、いいですか?」
「問題は無いが、自分で考えたのか?」
「はい」
「見せてみろ」
学生から渡されたそれを佳苗は眺める。10ページほどある回答をさっと眺めると、佳苗は一度ため息を吐いた。
「どうでしょうか」
「正攻法だ。確かにどのルートも可能性的にはありえるし、我々でも最初はこう考えるだろう」
「正解ですか?」
「いや。全て最初の一歩から違う」
「そうですか……それじゃ、回答ってあるんですか」
「まあ、お前で締め切りだからいいだろう」
そう言うと予定されていた通り、佳苗は教科書に挟んでいた問題の回答を彼に見せた。
「……これって、分かるんですか」
「大学院向けの教科書を見てもダメだろうな。そもそも最初の反応が最近発見され、しかもあまり有名ではない新規の反応なのだから」
「けど、それって考えて解けないじゃないですか」
「そうだ。考えて解くことは出来ないし、インパクトの小さな論文を読まないといけないだろう」
「応用利かないじゃないですか。なのに単位って、おかしくないですか」
これ以上の会話は面倒だなと思い、佳苗はまた小さくため息を吐いた。
「そもそもこの問題の趣旨は実験の理不尽さと論文を読むことの重要さに起因している。自分の思った通りに反応は行かないものだし、まったく想定もしていないものがうまく行くことがある。知識は成功の可能性をあげるものだ。その結果が論文に載っている。そこが根本なのだよ」
「ですが、ならこのルートもうまく行くか分からないってことですよね。なら間違いだと証明できないのでは?」
「間違いだ。同じ論文で失敗した旨が全部書いてある。いずれにしても、この回答で単位をやることはできない。趣旨も違うのだから加点も無しだ」
「……わかりました」
彼は一度お辞儀をすると、少し落ち込んだ様子で自分の机へと戻り、荷物を片付け始めた。
一連の行動に興味を失くした佳苗は、講義用の教科書を左手に持ち、武神テュールのように白衣のポケットに右手を入れて歩き出した。そしてさっきの男子学生の愚かさが頭を過ぎり、更に腹立だしくなった。
このまま行けば彼は『総合有機合成化学研究室』の配属となる。そして佳苗の下に彼がつく。彼は指輪で与えられた佳苗の知識や知性に惹かれて強い恋心を佳苗に抱き、最後には刃物を持って佳苗へと言い寄り、佳苗を刺殺する。
今回は訪れるべき黄昏の前兆に過ぎないことを、佳苗は知っていた。




