ニーベルンゲンの指輪物語 その五
六時を回ると、学生は段々と帰り始める。残るのは実験がうまく進んでいない学生と、更に実験を進めようとする学生である。ただし今大学に残っている学生に後者は居ない。八時を越せば残るのは佳苗だけが研究室に残ることになる。
同時に幾つもの実験を平行に行うことが佳苗の日常だ。化学反応とは案外何日もかかるものが存在する。そのような時間の掛かるものの間に幾らも実験をすることができるのだ。
佳苗はその長い反応時間のフラスコと、自分の考えた短時間のフラスコをつまらなそうに眺める。指輪がある以上、結果は分かりきっているのである。だがそんなことを他人に説明することもできない。だから、仕方ないので続けないといけない。短い方だけが成功すると分かっていても続けないと実験をさぼっていると他の研究機関の研究者に不名誉なレッテルを貼られるのである。だが、その先に待っているのは、自分が殺される未来である。
「お疲れ様、二村君」
するとスーツ姿の亀下教授が実験室へ姿を現した。
「お疲れ様です。亀下先生、会議はどうでしたか」
「まあ、少しカルキュラムが変わるかもしれないということだよ。この実験の方はどうかね」
「まあ、順調ですよ。先生のルートと共に別のルートも試しています。明日には結果が出ますのですぐお伝えしますよ」
「いつでもいいからメールで伝えてくれたまえ。会議中は電話にも出られないからね……では戸締りを頼むよ」
「わかりました」
亀下は一度微笑むとそのまま研究室から出ていってしまった。
後に残った佳苗は、同時に時間のかかる反応をもう一つ準備をして始め、実験ノートをさっと書き終えると、助教授室へ戻りパソコンを叩いた。
論文の内容は平行宇宙が存在することの物理学的証明であり、同時に地球からでも簡単に他の宇宙へと移動できる方法についてである。だが実現するには更に他の論理が必要になるだろう。それでも全て実現可能なレベルまで書き終わるのには一ヶ月程度でできるだろう。
カチカチとパソコンを叩きながら、佳苗は考える。
この内容も佳苗の名で世に出ることは決してない。二日後には消され、内容が違うことにされるからである。正しいと証明するには現在の物理学では20年近く掛かるだろう。いや、有機化学者の物理学論文が危険だと判断されるものなのか。
カチカチとキーボードを叩くと、嫌でもそのようなことが頭を過ぎった。しかし指輪の全能効果によりまったくもタイプミスはしないし速度も速筆作家並の速度だろう。
ならば、何故叩いているのだろうかと佳苗は思った。そんなもの、脳内で自分だけ分かってればいいことだというのに……
一通り切りのいいところまでタイプが終わると、彼女はコーヒーを飲んだ。それから研究室へと戻り、自分の考えた反応がうまくいったのを確認すると、反応液を保存処理してまた助教授室へと戻った。
戻るとまたパソコンの前に座り、それから呆然と画面を眺め、コーヒーを飲み、ため息をついた。




