第3話
朝は眠い。
冷たい水で顔を洗おうが、無理してコーヒーを飲んだって眠いものは眠い。まぶたが殺人的に重くて、布団が法律で規制されるのではないかと思うほど気持ちいい。僕の体が睡眠を猛烈に求めている。
そんな朝になぜか僕は起きなくてはいけない。
神様は残酷だと思う。僕にこんな取り柄のない詰まらない体を与えておきながら、奈緒のような完璧人間と同じように朝起きなければいけない。他の面で劣っているのだから、少しぐらいハンデをくれてもいいのに。
なんて神様に対して愚痴ったところでどうにもなるわけではなく、僕は布団を蹴り飛ばし、学校へ行くために起きるのであった。
寝起きでふらつく足で階段を降り、リビングへ行くと、
「おはよー」
一瞬、昨日のエプロン姿の奈緒が思い浮かびどきりとしてした。だがというか、勿論というかリビングにいたのはただの母親。僕はなんとも言えない気分で返事をする。
「おはよ」
なぜだか母さんはいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「奈緒ちゃんじゃなくてガッカリ?」
「……なんでさ」
「べつにぃー」
母さんの視線が気になりつつも僕は席に着く。
テーブルの上には、目玉焼きとハムとチーズをトーストで挟んだ目玉焼きサンドとお茶が乗っていた。お馴染みのメニューなのだが、昨日とはえらい違いだ。
「悪かったわね、奈緒ちゃんのよりも貧相で」
「なんにも言ってないんだけど」
「あらそう」
そう言って僕の向かいの席に腰を下ろす。すると、肘を付き、放課中のクラスの女子のような嬉しそうな表情で僕を見てくる。いやな予感がするな。
僕は上下のトーストをぎゅっと押さえ、中身が動かないようにして目玉焼きサンドを頬張る。
「ねぇ」
きた。どうせろくでもない話しを喋りだすのだろう。僕は無視してお茶を飲む。
「奈緒ちゃんとキスした?」
思わず飲んでいたお茶を吐き出す……なんてベタなリアクションはしない。これぐらいもう慣れっこだ。この母親、奈緒と遊びに行くと言うだびに「隙があったら押し倒せ」だの「強引に抱き寄せてキスしな」等々、親とは思えないような過激な発言を連発してくる。
諦めつつも、僕は一応否定をする。
「なんで僕が奈緒とキ――そ、そんなことするのさ」
「だって付き合ってるんでしょ?」
「無理だから」
母さんがはんっと鼻で笑った。本当にこういう話しをしているときの母さんは生き生きしている。普段の家事もこれくらい頑張ればいいのに。
「あんた、女心まったく分かってないわね」
僕は返事はせずに食事を続ける。母さんは一人でタバコを吸う真似をしながら、独自の恋愛観について語り始めた。
「女っていうのはね見た目で判断しないの。大事なのは行動よ。女は男が行動に出てくれるのを待ってるんだから。女は告白とか大事な部分は受け身なんだから」
「でも僕には無理――」
僕のか細い呟きが母さんのジェット機のエンジン音のような大きな声に掻き消される。
「なわけないでしょ。押し倒してみなさい。抵抗しないから。奈緒ちゃんがあんたと遊んだり朝ごはん作ってくれたりするのはね、押し倒してーってカマかけてるんだから。好きだって言って押し倒しなさい。強引に、情熱的にね」
押し倒せ、押し倒せ言われていい加減恥ずかしくなってきてしまった。母親のくせにあまり健全な男子を刺激するようなことは言わないで欲しい。奈緒を押し倒すなんて、そんなこと……。
「お、その気になってきた?」
「着替えて来ますっ」
お茶を一気に飲んで、僕は着替えに行った。
あんな母さん、もうヤダ。
卑猥な母親のいる家を出て、今日も奈緒との待ち合わせ場所へ行く。
「おはよう」
奈緒は僕が来たことを確認すると早めに歩き出す。僕は小走りで奈緒の隣に行った。
やっぱり奈緒は今日も変わらず輝いている。奈緒の金髪がどうこうという話ではなく、全体的に眩しいオーラが出ている。目の覚めるような美人とは言うが、まさに奈緒がそうだ。毎朝目覚めのときに奈緒が居ればいいのに。
なんて思って、すぐに首を振る。
母さんの言葉――「押し倒せ」が蘇ってきてしまったのだ。
「ど、どうしたの?」
僕の狂ったような行動に奈緒が引いてしまったようだ。僕は「あはは、なんでもない」と笑ってごまかそうとしたのだが、奈緒が気付いてしまったようだ。
「どうしたの?」
奈緒の視線が突き刺さる。正直奈緒に隠し事をできるとは思っていない。悪魔じみた鋭い勘に、神懸かった頭脳。どんな詐欺士でも奈緒に嘘をつき通すのは無理だろう。
僕は観念して話すことにした。
「母さんがね、その、あのね……」
奈緒が怪訝そうに首を傾げているのが分かった。
白状する、白状するつもりなのだが「母さんに、奈緒を押し倒せって言われたら意識しちゃってー、えへへ」みたいな変態発言できるわけがない。なのに――
「私に隠し事するのね。幼なじみなのに、朝ごはんも作ってあげたのに」
よよよと泣きまねをしている奈緒を見て、僕はぞくりと本能的に身の危険を感じた。
「……母さんが過激な発言したんです。それでなんか、つい」
できるだけオブラートに包んで言ったのだが、奈緒は頬を朱く染めた。奈緒は家の母さんをよく知っているので、どんなことを言ったのかピンときたのだろう。
「なるほどね、おばさんがね」
オブラートに包んだ中身が伝わったかと思うと、僕もすごく恥ずかしくなってきた。ほてる顔を上下に振って、なんとか冷まそうとする。
すると突然、腰を叩かれた。奈緒はふうと息を吐き、どこか冷めた目で僕を見る。
「言っとくけどね、私、あんたのことなんか嫌いよ」
「知ってるよ」
それぐらい心の底から理解している。なにせ僕と奈緒は、ビー玉とアンドロメダ星雲くらいの差がある。憧れはするけど、好きになるなんて無謀なことはしないから「嫌い」と言われてもダメージゼロだ。
僕に悪口を言っておきながら、なぜか奈緒が不機嫌そうな表情になっていた。
「なんかムカつくわね」
「え?」
「私に言われたんだから、もっと悲しむとか泣くとかしなさいよ」
また奈緒が理不尽なことを言っている。だけど僕としては――
「奈緒に言われたから、なんともないんだよ」
「なっ……」
しまった。奈緒の『美少女』のプライドに傷をつけてしまった。最近、立ち技最強のムエタイに凝り始めたようだし、膝とか肘で殴られたら死にかねない。僕はとっさに身構えた。
「……」
「いたたたたたた」
蹴りや拳はこないで、手の甲をつねられた。これはこれで痛い、しかも断続的に。
やっと離してくれたときには、つねられたところが真っ赤になっていた。
「痛いじゃん、奈緒」
「あらら。塩崎さんにでもなでなでしてもらえば」
「なんで塩崎さんが出てくるのさ」
「じゃあ、私の方がいい?」
激しい痛みに襲われといる手を、奈緒が優しく掴んだ。
「えっと、あ、その」
「まぁ、嫌いだからしてあげないけどね」
赤くなった部分を突いて乱暴に僕の手を投げ捨てた。今日は朝っぱらから運の悪いことばかりだな。自然と深い溜息が出た。
「じゃあ私がしてあげる」
「……」
聞き覚えのある悪魔の声が聞こえてきた。本当に今日はどんだけついてないんだろう。下手したらトラックにでも轢かれてしまいそうだ。
振り返ると、麗しの悪魔さま――塩崎さんが立っていた。家の方向違うのになのになんでここにいるんだろう。
塩崎さんは魅惑的な微笑みを浮かべ、僕に寄り添う。僕は美少女二人に挟まれる形になってしまった。ついてない……。
「私は好きだからね、キミのこと」
百パーセント嘘だろうが、初めて女性に『好き』と言われて、嫌な気分ではなかった。むしろこのままあの世に導かれてしまいそうな気分だ。
「手痛いんでしょ。私が学校に着くまで握っててあげる」
「はぁっ?」
声を上げたのは奈緒だった。僕はとりあえず、奈緒に伝言を頼む。せめて今日は伝言くらい拒否しないでほしい。僕は心の底からそう祈った。
祈りが通じたのか奈緒は頷き、塩崎さんに向かって言う。
「僕は奈緒にお願いするから別にいい。それよりもなんでいるの? だって」
前半全くの嘘じゃんと、塩崎さんが隣にいる緊張で声にならない叫びが僕の脳内にこだまする。
「あはは。奈緒ちゃんがいいだなんて勇気あるね。こんな美人さんはよほどカッコイイ人じゃないと手繋いでもらえないよー」
突然、ピリピリした空気になってきた。ピリピリした気を発しているのは二人の美女。間に挟まれた僕はそうとう居心地が悪い。両隣の様子を見てみると、二人共互いを見ることなく真っ直ぐ前を見ていた。
「別に、そうでもないわよ私は」
「またまたー。噂の初彼は相当のイケメンじゃない」
「なんのことよ、噂の初彼って」
「隠したって無駄よ、聞いたんだからね私。D組の夏木君、学校一のイケメンに告白されて付き合ってるんでしょ」
「噂よ、そんなもの。ていうかなんでここにいるのよ」
「ちょっと郵便局に用があったの」
「なるほどね」
「そんなことより夏木君と付き合ってないって言うなら、今、好きな人とか彼氏とかいるの?」
するすると流れるようなトゲトゲしい会話が止まる。そのとき僕は足を緩め、二人の会話をやや後方で眺めていた。
「……いないわよ、好きな人も彼氏も」
奈緒の怒ったような声が聞こえる。僕はもう少しゆっくり歩くことにした。
激しく言い合うわけではなく、普段の会話のように話しているのだがとても怖い。奈緒と塩崎さんってこんなに仲が悪かったんだ。というよりも、思い返せば奈緒と話す塩崎さんはいつも尖っていた気がする。塩崎さんも奈緒の美貌に嫉妬する口なのだろうか。そうは見えなかったのに。
「ちなみに私は好きな人いるけどね、すぐ近くに。さっきも告白しちゃったし」
「ふーん。相手も塩崎さんのこと好きみたいだからよかったじゃない」
「じゃあいつ押し倒されてもいいようにしておかないとね」
『押し倒す』……。
僕はうなだれながら、美少女達の後ろを歩いて学校へと行った。