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第2話つづき

 『あなたのために朝ごはん作ったんだけど』――そんなこと言われたらもう、頷くしかないじゃないか。

 あなたのためにという言葉に喜んでいるわけじゃなく……ただ単に奈緒が恐いから。断ったら後でなにされるか分からないし。僕は急いで寝間着を着替え、家を出た。

 意志の弱い自分に悲しみながら、奈緒の後ろに着いて学校へ向かって歩いていく。奈緒の宝石のように煌めく金の後ろ髪を見ながら歩くのにはもう馴れた。……僕には亭主関白は難しいかもしれない。

「はぁ」

 と、思わずため息が出た。

 前を歩いていた奈緒が、突然振り返る。

「なんでそんなに嫌やそうなのよ」

「……ちょっと自分が嫌やになってね」

 奈緒が呆れたように「はぁ?」と首を傾げる。奈緒は自己嫌悪なんかすることないんだろうな。欠陥だらけの僕とは違って完璧人間だし。

「いいよねぇ。奈緒は悩みなんかないでしょ」

 卑屈っぽいが、心の底から出た言葉だ。

「僕なんかとは住む世界が違う、完璧人間だもん」

 言いながら、怒られるなぁと後悔する。すると思った通りに、強く頭を叩かれた。ぱあんっと乾いた音が響く。

「なによ、私だって悩んでるのよっ! ……あ、あんたが、そんなんだから――」

 尻つぼみに声が小さくなって、もごもごと何を言っているか分からない。怒っているはずなのに、なぜか恥ずかしそうに頬を赤く染めている。気弱な奈緒も可愛いなとか僕は見とれてしまうのだが……どうしたんだろ?

 なんで奈緒が恥ずかしがっているんだろと考えていたら、ふと奈緒と目が合う。

 するとまた、殴られた。

「いたいよ! なんで殴るのさ」

「私みたいな美少女に殴られるんだから、光栄に思いなさいよっ」

 めちゃくちゃなことを言って、早足で歩き始めた。僕は慌てて後ろをついて行く。

 やっぱり女子は不思議な生き物だ。繊細かつ複雑に絡み合った女心は、僕なんかでは一生解読することが出来ないだろうな。特に奈緒の場合は、十七回生まれ変わっても無理そうだ――なんて、もてない男子がぼやいてみた。

 

 学校までは徒歩で二十分程度。

 会話はあれ以降一切なかった。気まずい空気漂う中、僕はずっと奈緒のぴんと伸びた背中を見ながら歩いている。

 未だ慣れることのない美人と一緒に歩いているという緊張感と重い雰囲気に押しつぶされそうになっていたとき、ようやく目的地の学校が見える。僕は思わず小さくガッツポースをした。

 校門を過ぎると、サッカー部や野球部の男子たちの視線が奈緒に集まり始める。いつもながら凄いお出迎えだ。たちまちに僕は居心地が悪くなり、少し距離をとる。

「そういえばさ、何忘れたの?」

 奈緒は振り返ることなく、

「なんでもいいでしょ。早く行くわよ」

 と、怒ったように言う。

「行くってどこに? 教室?」

「部室よ」

 部室……。はたしてその呼び方は正しいのだろうか。

 一応、奈緒と僕は同じ部活に入っている。名前はアマチュア無線部。部員は五人。そのうち三人が入部以来ずっと幽霊部員だ。

 だから、実質的に部員は奈緒と僕だけ。二人ともアマチュア無線に興味があるわけではなく、放課後に二人でのんびりするのが主な活動内容だ。

 そんな僕らが活動している場所が、東館一階の左隅にこっそりとある美術室跡地。ここは正式な部室ではなく、無許可で使わせてもらっている。なので部屋の中には以前使っていたと思われる教材でごった返しており、結構狭かったりもする。

「ほら、早く着いてきなさい。置いていくわよ」

 奈緒はさっさと歩いていってしまっていた。僕は「ごめんね」と謝りながら、小走りで奈緒について行く。こうやって、謝ってばかりいるから虐められるんだろうなぁ……。また、亭主関白が遠ざかった気がする。

 再び自虐的になっていたとき、奈緒のものではない穏やかで優しい感じのする声が耳に入った。

「こんにちは」

 聞き覚えのある声に僕は思わず立ち止まる。声の主が誰かはすぐに分かり、緊張の津波が押し寄せてきた。足が小刻みに震え始め、顔が熱くなる。

「あれ、塩崎さんじゃない」

 奈緒も気付き、その場に止まり振り返る。

 僕もゆっくりと、声の方を向いた。

「こ、こここ、こんにちは」

 柔らかそうな唇がにこっと笑う。彼女は塩崎 愛美さん。

 艶やかな黒髪を後ろで結わい、揉み上げは桃色の頬を伝って肩へとこぼれおちる。ぱっちり開いた大きな目と幼さの残る顔立ちからは、穏やかな雰囲気が感じられる。学校の制服に身を包み、肩からは大きめのエナメルバックがかけられている。

 彼女は僕と同じクラスで席も近くて、僕が女子(奈緒以外の)とまともに話せないのも知っている。見た目どうりとても優しい、誰からも好かれるいい人なんだけど……僕だけには少し意地悪だ。

「今日は部活?」

 奈緒なんかには目もくれず、僕の方をがっつり見ている。僕は即座に顔を逸らした。

「あの、奈緒が忘れ物とりに……」

「へー。私は今部活が終わったとこだよ」

 僕は奈緒の方を向き、必死にSOSの視線を送る。僕が女子と喋るときはだいたい奈緒が通訳になってくれるのだ。

 しかし今日は僕のSOS信号を受け取ってくれない。それどころかそっぽを向いて、全く僕の方を見ようとはしなかった。

「……女の子の話を無視するのかな?」

「あっ! いやっ! そういうわけじゃあ!」

 僕は慌てて首を振る。すると、塩崎さんはぷぅと頬を膨らませ、

「ふーん。いいわよもう。私なんか眼中になしだもんね」

 とこちらもそっぽを向いてしまう。

「え、あの、眼中にないっ? いや、僕は塩崎さんがあれだよ、入ってます、目にっ!」

 頭が茹で上がり、おろおろと意味の分からないにならない言葉を発する僕。奈緒からの支援もなく、僕はひたすらに地獄を見続けている。

 僕を苦しませる地獄の女神は詰め寄ると、そっと呟くように言った。

「……私のこと嫌い?」

 うっすらと涙を浮かべた、子犬のような弱々しい甘えた瞳が僕を見つめていた。

 息が詰まる。こんなことされたら僕じゃなくても、世の中の男性の八割は呼吸することさえ忘れて見入ってしまうだろう。思わず、ぎゅっと抱きしめたくなった。

 そんなとき、現実の世界に無理矢理引き戻こまれる。腕が強く掴まれたのだ。

「行くわよっ!」

「な、奈緒っ?」

 腕を掴んだのは奈緒。そのまま投げ飛ばされるのではないかというぐらい、強く引っ張られた。

「私たち急いでるから、じゃあね塩崎さんっ!」

 吐き捨てるよいに言い、早足でその場を離れる。後ろでは「あとでメールするから、答え聞かせてね」と塩崎さんがいじめっ子の笑みを浮かべて言っていた。

 遠ざかっていく塩崎さんを見て、僕はほっと安堵の息を吐き出す。奈緒が止めてくれなかったら、抱きしめる――変態扱いされる――クラスのみんなにばらされる――みんなからも変態扱いされる――登校拒否、という悪魔のコンボが決まるところだった。いつもながら、卑劣な罠を仕掛けてくるな塩崎さんは。

「あの、奈緒。ありが――」

 奈緒の声が僕の言葉を遮った。

「ごめんなさいね。せっかく、私と違って可愛い塩崎さんといい雰囲気になれたのに」

「えっ」

 依然掴まれたままの腕を引かれて、さらに歩調が速くなる。奈緒は変わることなく前を向き表情を窺い知ることはできないが、怒っているわけではないようだ。なんとなくだが、そう感じた。

 再び二人の間に沈黙が流れる。

 長い付き合いなのに今奈緒がどんな気持ちなのかも、どんな言葉を待っているのかも、どうして欲しいのかも分からない。女心は複雑とともに繊細だから下手に声をかけたって、さらに不機嫌になるだけ。

 僕は口を開くことなく、奈緒に引っ張られていた。


 下駄箱でスリッパに履き変え、そのまま旧美術室――部室へと連れて行かれる。

 文化系の部活の人達が校内にはいて、出会う男子達は奈緒に見とれ、その奥から女子達が奈緒に嫉妬に満ちた目を向けていた。こういう光景を見ると、奈緒の凄さを思い知る。

 これは僕の勝手な考えだが、女子達は自分よりも下または中の下の女性を「可愛い〜」と言う。しかし奈緒みたいに整い過ぎていると、逆に嫉まれる。しかも、文武両道なら尚更だ。

 現に奈緒に可愛いとか言っているのは男子のみで、女子達は「遊んでそう」とか「整形っぽくない」とか悪口しか言わない。僕が女子と話すとき緊張するのも、こういう腹黒さを奈緒に教えてもらったからでもある。

 僕は嫉妬されるのはあまり好きではないので、本当に普通でよかったと思う。まぁ、奈緒の傍にいることで男子達からは嫉妬されているが……。

「奈緒も大変だなぁ……」

「んっ?」

 僕が思わずぼそっと言った呟きを、奈緒は聞き逃さなかったようだ。訝しそうな表情で僕を見る。

「なんか言った?」

「いや」

「なんか言ったっ?」

「……奈緒さんも大変そうだなと思ったんです」

 強くなってきた奈緒の口調に僕の心はすぐ折れた。

「ふーん。よくわかんないけど、心配してくれるてるんなら――」

 理解できないような様子だったが、なにを思ったかさっきの塩崎さんのように僕の懐に入る。

「な、奈緒っ?」

 塩崎さんのときよりももっと体を寄せてくるので僕は身を引くが、奈緒が僕の腰に手を回すので逃げられない。心臓がF1のエンジンのように激しくうなりを上げた。

 妖艶な甘い香がする。スリムで引き締まっているけど、女の子の柔らかさをもつ奈緒の体の感触が伝わってくる。血が流れすぎて頭がぼーっとした。もう倒れてしまいそうだ。

 僕の顔も真っ赤だろうけど、見上げる端正な顔立ちにも赤みが差している。

 魅惑的な唇が僅かに開いた。

「……ありがと」

 可愛い。もう、それしか考えられなかった。下手な言葉で形容したところでこの愛おしさは伝わらない。本当に、可愛すぎだよ奈緒。

 なんとなく信じられなくなる。こんな可愛い女の子が僕を相手にしてくれているなんて。僕みたいな平平凡凡に、世界中のどんな人だって敵わない表情を見せてくれるなんて。……あぁ、きっと夢なんだ。朝起きてガッカリするタイプの夢なんだ。

 腰に回されていた手が離れる。僕が後ろによろめき、抱き着いていた奈緒との間に距離ができた。

「どう、塩崎さんのより破壊力あったでしょ?」

 ふふんと鼻で笑い、してやったりというように奈緒が言う。

 僕はもう何も考えられず、呆然と立ち尽くしていた。

「なによ、答えなさいよ……」

 奈緒の頬にも大分赤みが残っている。それを見るとよけいギクシャクしてしまう。

 もう、ただ頷くことしかできなかった。

「私はね、あんな腹黒い女より――」

「はやく部室行こうっ」

 よく分からなくなった僕が発した声が、奈緒の話しに被る。奈緒が喋るのを止めてしまった。

「え、なに奈緒?」

 しばしの沈黙ののち、

「なんでもないわよっ。もういい、帰るんだから」

 普段の奈緒に戻った。

「え。でも、忘れ物は?」

「そんなの最初からないからいいの」

 悪びれることもなく、さらりと衝撃の発言をした。

「……じゃあ、なんで学校まで来たのさ」

 奈緒が再び近付く。

「ま、またさっきのやれば許してくれる?」

「ええっ?」

 もう一度されたらとても嬉しいけど、体が持たないよ。次は自分の熱に耐え切れず、熔けてしまいそうだ。

「冗談よ。……でも」奈緒が悪戯っぽい笑顔を浮かべる。「あんたがやって欲しいって言うなら、いつでもしてあげるからね」

 歩き出す奈緒は相変わらず速く、やっぱり僕は揺らめく後ろ髪を見ながら家路についた。

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