第2話
その日の夜。布団の中で、空っぽになった預金通帳を見ていると自然と枕が湿った。
これからは一ヶ月、親から貰える二千円で生活していかなければならない。それだけでは、友達とゲームセンターも、カラオケも、映画も行けない。缶ジュースを買うのもきつくなってしまう。ゲームを買おうと思ったら、三ヶ月はお小遣いを全額貯めなければいけない。
元はといえば、くだらない復讐なんて考えた僕が悪いのだが、先のことを思うと気持ちが沈んだ。
自分が悪いんだし、暗いことばかり考えていてもしょうがない。明日になればなんとかなる。そう自分に言い聞かせながら、預金通帳を枕元に置いて僕は目を閉じた。
まぶたの裏には怖がる奈緒の姿が焼き付いていて、なんとなく幼稚園のことを思い出した。
今とは立場が逆だった幼稚園時代。
昔から可愛くて、頭が良くて、運動ができる万能人間だったのは変わらない。だけど、いつも僕の後ろにいて、か弱い妹のような存在だった。
知らない人が来たから、犬が恐いから、虫が恐いから、そう言っては僕の後ろに来た。僕もそれが嫌ではなかったし、そんな奈緒を守ってあげたいと思ってた。
今のような性格になる、あの事件までは。
幼稚園の年長の時に起きたパンツ事件から、彼女は変わったのだ。
体中の水分が蒸発するのではないかというぐらい暑い夏の日。僕と奈緒は母親に連れられて、近くの市民プールに遊びに行った。
幼い二人はすぐに水着に着替えて、子供用プールでがむしゃらに遊びまくった。
競争したり、水鉄砲や小さなウォータースライダーで遊んだりしていると、いつの間にか時間が過ぎていて、僕らは帰ることになった。
僕は一人で男子更衣室へ行き、体を拭き、服を着る。その時間、僅か三分ほど。しかし、女性達はまだ着替え終わっていないようで、出口に奈緒達の姿は無く、僕は一人寂しく待っていた。
せっかくプールで冷やした体が再びほてり、汗が滲んできた時、母親とやたらもじもじと歩く奈緒が見えた。なぜだか様子のおかしい奈緒が気になって、どうしたのか尋ねてみると、奈緒の顔が灼熱の光線を放つ太陽よりも真っ赤に染まる。
そのまま黙り込んでしまった奈緒に代わって、母親が説明してくれた。「奈緒ちゃんのパンツが無くなった」と。
幼稚園児だった僕はそれを聞いても大して驚かなかった。むしろ下が涼しくなっていいじゃん、と言って奈緒と母親に殴られた。
奈緒はあの当時から「人前で裸になるのは嫌だ」というませた子供だったので、パンツが無いのが相当嫌だったのだろう。ついにはその場で、大泣きし始めてしまった。
ちょうど僕は替えのパンツを持って来ていて、貸してあげようと思いリュックを開いた。
ぐちゃぐちゃに丸めたバスタオル、その下から顔を覗かす青い海パン。そして、着替えのパンツが入っている袋の中には僕の戦隊ヒーローが印刷されたパンツの他に、ピンク色のふりふりの付いた可愛いパンツがあった。
思わず声が漏れた。
明らかに僕のものではない女の子用のパンツ。
勿論、盗った覚えなんかない。確かに奈緒は可愛いけど、パンツを欲しいなんて思ったこはない。しかし、僕の体中からは冷汗が止めどなく溢れ出ていた。
断じて盗っていない。神様と仏様、キリスト様に誓っても盗っていないのだが、なぜか体の震えが止まらなかった。
そんな僕を不審に思ったのか母親が声をかけて来た。僕は慌ててリュックを隠す。
必死にリュックを隠す姿を見て母親の中で何かが繋がったのか、僕に疑いの目を向けてきた。繋がったのはたたぶん、僕の行動と無くなった奈緒のパンツだろう。母親は顎に手を当て、名探偵風に「はは〜ん」と呟く。後ろで大泣きしていた奈緒が、一瞬笑ったように見えた。
その後は、竹を割るような勢いで僕が犯人に近づいて行った。僕も必死で抵抗してみたものの、全くの無駄だった。
奈緒は今まで泣いていたことを感じさせないほどの満点の笑みを浮かべて、僕に言った。
「奈緒に指輪買くれる?」
母親も大きくうなづいていた。
結局、無実なのに僕は、言うことを聞いた。あの当時の僕に、母親達の言葉責めを耐え切れるほどの精神力なんてなかったのだ。
それからというもの、僕と奈緒の立場は少しづつ代わっていった。今では毎日振り回され放題だ。
まぁ、基本的にそんなに酷いことはされないのだが、いくつかトラウマになっていることだってある。そののせいで僕は、奈緒以外の女子とろくに話が出来なかったりもする。
いろいろと考えていたら、途方もない悲しさが込み上げてきた。枕をビチョビチョにする前に考えるのを止め、今度こそ本当に眠りについた。
月曜日と思って早く起きたら、今日は日曜日だった。
少し得したような損したような、なんともいえない気分で僕は布団から出た。
顔を洗って歯を磨いて、朝ご飯を食べに居間に行く。たぶん母親は起きていないので、朝ご飯は好きなものが食べれる。なので、久しぶりにシーチキンでも食べようかななどと考えていると、居間に着いた。
窓から黄金の朝日が差し込み、いつも見ている居間がなんとなく違って見える。学校のある日は時間がなくてゆっくりできないので、のんびりとした朝はとても優雅で、いい気分になれた。
いい気分の中、さっそくシーチキンを頂こうとキッチンへ向かう。
そこには見慣れているけど、見慣れない姿があった。
「あ、おばさん? おはようございます」
可愛いピンク色のエプロンを宙に舞わせ、勢いよく振り返る金髪の美しい少女――奈緒が僕の家のキッチンにいた。
思わず言葉を失った。奈緒も、顔を赤く染めて固まっている。
しばらく二人共微動だにせず、落ち着いた僕がようやく口を開いた。
「どうしたの?」
僕の声で、ようやく奈緒も動き出す。
「朝ごはん余分に作っちゃったんだけど、食べる?」
奈緒が余分に作ってくれた朝ごはんが食卓に並んだ。ごはんと味噌汁、焼き魚に玉子焼き、シーチキンサラダ――。
「あーっ!」
「なに、どうしたの?」
思わず大声を出してしまい、奈緒が体をのけ反らせて驚いた。
「だって――」
シーチキンをご飯にかけて食べようと思ってたのに、と言おうと思ったけど止めた。理由はよく分からないけどせっかく奈緒が作ってくれた朝ごはんにケチをつけるのは野暮なことだ。
出かかっていた言葉をぐっと飲み込み、席に付く。
「なんでもない、食べよ」
奈緒も腑に落ちないような表情で、僕と向い合わせの席に付いた。
二人でご飯を手べるのは珍しくないのだが、居間で二人っきりでご飯を食べると、なんだか新婚さんみたいな感じがしてとてもぎくしゃくしてしまう。恥ずかしくて、思わず顔が下がってしまう。一方の奈緒はといえば、全然普通に食べている。まぁ、奈緒みたいな美人が僕なんかでは緊張するはずがないのだが。
「なに、おいしくないの?」
「いや、おいしいいよ! たぶん」
万能超人が作る朝ごはんは間違いなくおいしいはずだけれど、緊張で味がよく分からない。それで思わず゛たぶん゛を付けてしまった。
どうやらそれが奈緒のプライドを傷付けてしまったようだ。奈緒の鋭い眼光が僕に突き刺さると同時に、手が動くのが見えた。殴られると感じ、僕がとっさに目をつむる。
しかし、いつまでたっても殴られない。恐る恐る目を開けると、シーチキンサラダを掴んだ箸が見えた。
「じゃあ、これも食べてみなさいよ」
「えっ?」
奈緒の箸が掴んだシーチキンサラダが目の前にある。そして、食べろと言っている。僕に取り皿はない。
……このまま食べろと?
もしかして”あーん”をしてくれているのかっ!?
でも付き合ってるわけでもないのに、まさかそんなことがあるわけ……。でもこれは、そうと考えられなくもないような……。考えていたらだんだんと、体が熱くなってくる。
「ほら、早く食べてよ。腕が疲れるじゃない」
シーチキンサラダがさらに僕に近づく。思い切って、口を開けた。
「い、いただきます」
目の前のターゲットをロックオン。そして、すぐさま目標を頂きにかかる。
――だが、手応えはなく、上下の歯がぶつかり合うだけだった。
その時ターゲットは、すでに奈緒が美味しく頂いていた。
「私の料理なんて不味くて食べられないのね。もういいわよ。あんたなんかにご飯作ってあげないんだから」
もしゃもしゃとサラダを食べながら、不機嫌そうにそっぽを向いてしまう。
「違うよ。凄く美味しいんだけど、緊張して味が分からなくて……」
僕がそう言うと、相変わらずぶすっとしたまま口を開く。
「なんで幼なじみの私で緊張するのよっ」
「だって……」
だって、奈緒は凄く美人で、僕なんかが一緒にご飯を食べれるような人じゃないから。と思ったけど、美人とか恥ずかしくて言えないし、やたら卑屈ぽいことを言うと奈緒に怒られるので、再びぐっと飲み込んだ。
「ていうか、なんで奈緒が僕の家にいるのさ?」
「……部室に忘れ物しちゃって。でも一人で行くと友達がいないみたいで嫌やだから、あんたに着いて来てもらおうと思って」
奈緒が玉子焼きに箸を伸ばす。綺麗に巻かれた長方形の玉子焼きは、売り物に全く負けていない。勉強や運動だけでなく料理までもできるなんて、神様に贔屓しすぎだと文句をつけてやりたくなる。
そして普通に考えると、そんな美人で天才な奈緒が平凡な僕を誘うわけがない。つまりは、この誘いは昨日の遊園地の時みたいに罠である。そう、奈緒が僕を虐めて楽しむために誘っているのだ。
「あの、僕はこれから――」
突然、ばんっと机が強く叩かれる。思わず身がすくんだ。
「私、あなたのために朝ごはん作ったんだけど」