第1話
「人間は誰にでも怖いものがあるじゃん」
僕が顔をマグマのように熱くしながらこんなことを言うはめになった原因は彼女にある。
名前は近藤奈緒。造形美ともいえるほど整った顔立ちに、夜空に煌めく星のような金色の髪、無駄のないスリムな体型、ようするに容姿端麗。それでいて常に全教科満点しか取らないような天才的な頭脳を持つ。しかも運動神経も抜群。天に二物も、三物も与えられた羨ましい人だ。
そんな彼女となぜか幼馴染で家が隣り合わせな僕は、小さな頃から虐げられてきた。
ついさっきも苛められたから、あんなことを吠えていたのだ。
「男のくせに?」
そう言うと、奈緒の可愛らしい口元が僅かに綻ぶ。
男として、こういう時には怒りの感情一つでも覚えなくてはいけないのだろうが、憤慨するよりも先に彼女に見とれてしまう。十四年間ずっと一緒にいるのだが、未だに慣れない。
だからこういう時は、思いっきり首を振って意識を逸らす。その後、視界に彼女が入らないように少し俯いた。
「……だってさ」
「なに?」
「ゴキブリだよ?」
その名を口にしただけでも全身にムカデが這ったような悪寒が走る。
あの妙に光沢のある茶色い羽、長い触角、やたら機敏に走る姿、何かがわしゃわしゃと動めく口。全てが気持ち悪い。この世の中で一番苦手だ。
彼女はそんな悍ましい生き物の――
「ほら」
「きゃあっ!」
奈緒が腹を抱えながら笑い転げた。体が熔鉱炉の中にほうり込まれたように熱くなる。
「たかが玩具ごときで女の子みたいな声出しちゃって。しかも二回目なのに」
それだけ言うと奈緒はうっすらと目に涙を浮かべ、再び大きな笑い声を上げる。
玩具とは思えないほど精巧に造られたゴキブリのフィギア。そんなの、二回目だろうが三回目だろうが普通に驚くだろう。
「奈緒だって、苦手なものぐらいあるでしょっ」
笑い声が止まる。すると奈緒は涙を拭き、はぁはぁと肩で息をしながら言う。
「ないわよ、そんなの」
確かに彼女は完全無欠の超人だけど、苦手なものの一つくらいあるはず。
「ヘビは?」
「大好きよ。ずっと首に巻いていたいくらい」
「虫とかは?」
「虫も好きよ。私が虫の標本集めてるの知ってるでしょ」
「じゃあ、犬とか猫は?」
「私がジョンとミケ飼ってるの忘れたの」
「じゃあ、ピーマン」
「私好き嫌いはしないわ」
奈緒が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。完全に僕の負け。しかし、彼女の完璧ぶりがなんだか悔しくて、再び尋ねた。
「本当に、本当に苦手なものないの?」
すると突然、さっきまでの威勢の良さが無くなり、しおらしくなった。透けるように白い肌が、ほんのりと赤みを帯びていく。
「どうしたの?」
彼女の豹変ぶりに堪らず僕がそう言うと、彼女は恥ずかしそうに視線を逸らす。
「じ、実はね私」
「うん」
「遊園地が怖いの」
衝撃の発言に、思わず耳を疑った。
「……人込みが苦手だったっけ?」
「違うの。遊園地自体が嫌いなの」
奈緒は本当に恥ずかしがっているようだし、嘘を付いてるようには見えなかった。しかし遊園地が苦手だなんて、俄かには信じがたい。頭がこんがらがった。
「えっと、なんで?」
奈緒は瞳に涙を浮かべ、形のいい唇をきゅっと噛み締める。
「だって怖いじゃない。遊園地ってなんか怖いじゃない」
長年付き合ってきて初めて知った彼女の意外な弱点。少し可哀相だけど、これを利用しない手はない。
奈緒の虐めに耐え続けて十四年。やっと、長年の怨みを晴らす時が来たのだ。
しかも運の良いことに、この辺りには割と名の知れたテーマパークがある。そこに連れて行けば絶対に怖がるはず。
復讐の鬼となった僕は、その次の日には二人分のチケットを取った。お小遣では足りなかったので貯金まで下ろしたが、奈緒の怖がる顔が見れると考えたら安いものだ。
そして翌日。
学校へ向かう僕の隣には、制服に身を包んだ奈緒が、朝日を受けて眩むような黄金の髪を揺らし歩いている。
何の変哲もない、何時もの登校風景。だが、今日は少し違う。今日、僕はがちがちに緊張していた。
奈緒みたいな可愛い女子と一緒に学校へ行くので、毎日少なからず緊張はしているが、今日はその度合いが違った。緊張のメーターが完全に振り切っている。そのせいか、大して歩いたわけでも、気温が高いわけないのに汗がだらだらと垂れてくる。
このままでは不審に思われると思い、僕は早々に話しを切り出した。
「あのさ、奈緒」
「なに?」
奈緒は眠そうな声で返事をする。怪しんでいる様子はない。僕は小さく深呼吸をして、適当に思い浮かんだ言葉を口にした。
「親が遊園地のチケット貰ってきたんだけど、よかったら明日一緒に行かない?」
すると奈緒は、バラを散らしたように頬を赤く染め、横を向いた。そして、絞り出したような声で言う。
「……二人だけで行くの?」
「えっ、うん」
ちらっとこちらを見た彼女は、頬だけでなく耳まで茹でも上がっていた。
遊園地という言葉を聞いただけでここまで拒否反応を起こすなんて、遊園地に行ったらどうなるんだろう。そう思うと少し不安になった。
「っていうか、私が遊園地怖いって知ってるくせに、なんで私を誘うのよっ」
そう言うと奈緒は僕の頭を叩いた。彼女は結構力が強いので、頭が痛い。そして良心も痛かった。やっぱり僕には、復讐なんて似合わないようだ。
「ごめんね。違う人を誘うよ」
別にチケットが使えなくなったわけではないし、クラスの友達とでも――
「別に行かないなんて言ってないでしょ」
「えっ?」
驚いて思わず立ち止まると、奈緒も同じように止まる。彼女はもじもじしながら俯き、顔を真っ赤にして僕を怒鳴り付ける。
「ここで断ったら、私があんたに負けたみたいじゃない。私、負けるの嫌いなの。だから、一緒に行ってあげようと思ってたのっ!」
呆然としている僕を他所に彼女は続ける。
「どこに行くのよ?」
「えっと、ネズミーランド……」
「じゃあ、明日八時にバス停ねっ」
それだけ言うと奈緒は、凄い勢いで走り去ってしまった。
結局この後、奈緒には一度も話して貰えず、気まずいまま一日を過ごした。
当日。
待ち合わせ場所のバス停までは歩いて十五分程度。家を七時半に出れば十分間に合う。
歯を磨いて、顔を洗って、寝癖を直してなど、もろもろの準備を終えたときには出発の時間を過ぎていて、僕は慌てて家を出た。
でも、よく考えれば家が近いんだし、待ち合わせする必要がないよんじゃあ。などと考えながら小走りでバス停へと向かう。
休日ということもあって、ネズミーランド行が止まるバス停の前には沢山の列を作っていた。
「遅いわよ」
黄金よりも美しく輝く髪を持つ少女が、普段見たこともないオシャレな服に身を包み列に並んでいた。その姿は、まさに息を飲むような美しさで、思わず見とれてしまう。
「なによ、なんか可笑しい?」
僕の視線に気づいたのか、奈緒が少し照れたように言う。
可笑しいどころか似合いすぎてて、そのままミスユニバースにでも成れるんじゃないかないかと思うほどだったが、上手く言葉が出てこず、僕は必死で首を横に振った。そんな僕を見た彼女は、腕を組み自慢げに胸を張る。
「まぁ元がいいから、どんな服でも可笑しいってことはないけどね」
その通りだと思った。やっぱり、元がいい人は得だ。
しかも気付いてみれば、バス停に並ぶ男の人の視線はほとんど奈緒に集中している。中には奈緒を見すぎて、自分の彼女に怒られている人までいる。そして奈緒と話す僕には、男性からの殺気が混じった嫉妬の目が向けられていた。やっぱり、奈緒は美人なんだ。
「ほら、ぼけっとしてないで。バスが来たわよ」
そんなことに気づいてないのか、慣れているのか、彼女は気にする様子もなくバスへと乗り込む。その後ろを、僕は少々の身の危険を感じながら付いていった。
バスに乗ること三十分。
体中に穴があくほど鋭い視線になんとか耐え、目的地のネズミーランドに着いた。
バスを降りると見えるのは沢山の人込みに、華やかなゲート。そしてゲートの上にはジェットコースターや観覧車、フリーホールなどが顔を覗かせている。改めて遊園地に着たんだなと実感した。
「早く行くわよ」
声が聞こえた途端、僕の手が柔らかく温かい物に包まれた。何かと思い見てみると、奈緒の手が僕の手を握っていた。
「……」
頭が真っ白になった。だけど、握られた手は真っ赤に染まった。
「こ、怖いんだからしょうがないでしょ」
そう言うと、奈緒は僕を引っ張って遊園地へと入る。
手を握られていることで頭は骨抜きになってしまい、僕は彼女のなすがままにとなっしまった。
「あー、遊園地って怖いわぁ」
遊園地が怖いはずの彼女は、とても楽しそうにネズミーランドを満喫している。今も四回目のジェットコースターを終えたところだ。
「……本当は遊園地なんて怖くないんでしょ」
奈緒に悪びれる様子はない。
「当たり前よ。遊園地が怖いわけないじゃない」
どうやら、復讐なんて初めから出来なかったようだ。単純な僕は、上手く彼女に乗せられていたのだ。
そう気付いた時、僕は自然と彼女に尋ねていた。
「奈緒って、本当は何が怖いの?」
すると、奈緒は小悪魔的な笑顔を浮かべて言う。
「そうね……。あそこのカフェでお茶するのが怖いわ」
それでも、遊園地が怖いからと言って握られた手は離されることがなかった。
連載始めました。よろしくお願いします。