~ 5 ~
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衝撃の一日から一夜が明けた。
正直、身も心も疲れ切っていたが、俺は学校近くにある公園へと出かけていた。昨夜ルーシーから電話があって、会って話がしたいと言われたのだ。
町を見下ろせる高台にある公園は、もともと訪れる人の少ない所で、土曜日の午前中と言う時間帯も相まってか、他に人はいなかった。待ち合わせの時間より早く着いたが、ルーシーは大きなクスノキに寄りかかって待っていた。
「‥‥おい、大丈夫か?」
挨拶もそこそこにこんな事言うのは、あまりにもルーシーが弱々しく見えたからだ。空元気を装っているが、顔色は優れない。もっとも、昨日あんなことがあったばっかりだ。元気があるはずもないか。俺の言葉に笑顔を返すが、無理してるのが見え見えだ。
「うん、大丈夫‥‥、ねぇ、森須こそ大丈夫なの?昨日美奈と揉みあってたでしょ」
「‥‥ああ、見ろよ、これ」
そう言って差し出した俺の手には、指の形に赤黒い痣がくっきりと残っている。昨日芳賀さんに掴まれた所が、内出血を起こして腫れあがったのだ。案の定、痛そうなものを見るような目でルーシーは顔をしかめる。
「ひっど、大丈夫なの、これ?」
「骨に異常はないようだが、ものすごく痛えよ」
「あんたって丈夫ね、私折られたことあるのよ」
「‥‥まじか」
「うん、二回」
絶句するとはまさにこのこと、返す言葉が見つからない。って言うか、よくそんな目に会って友達付き合いができるもんだな。こいつと芳賀さんの関係はますます不可解だ。
「それより、昨日はありがとね」
何のことかと言うと、事件の後始末のことである。あれから混乱を治めるのは本当に大変だったのだ。ルーシーは気絶した芳賀さんを病院へ連れて行くという名目でいち早く連れ出し、阿部さんは阿部さんで完全な恐慌状態。まともに話ができる状態ではなく、これまた救急車を呼ばれる始末。後に残された俺は文字通り先生方から質問攻めにあったのだ。
事実を話した所で、到底受け入れられるとは思えないし、仮に信じられたとしてもそれはそれで問題だ。だから俺は、阿部さんがウサギを刺したの一点張りで、後はよくわからないで押し通した。まぁ、本当に何が起きたのか今もってよくわかってないんだが、とにかく芳賀さんのことは隠し通そうとした。
その芳賀さんは、心因性のショックが酷くて療養が必要という名目で芳賀家に匿われることとなり、阿部さんは搬入された病院で、吸血鬼に襲われた、とうわごとのように繰り返しているらしい。幸いと言うか当然と言うか誰も信じる者はなく、教員からも、あの後呼ばれた警察からも、事件の首謀者と目されている。
後日譚になるが、結局この事件は阿部さんが起こした凶行と言うことで片付けられ、彼女には停学二週間の処分が下された。しかし俺達が学校で阿部さんを見たのは、この事件の日が最後となった。処分が明けても彼女は学校に現れず、夏休み中を療養施設で過ごしたらしい。そして二学期の頭に、彼女が転校したことを聞かされることになる。まぁ、確かに発端を作ったのは彼女だが、結果的にこの事件の一番の被害者は阿部さんだったと言えよう。
クスノキの高い所でセミが鳴き出し、ルーシーは眩しそうに梢を見上げる。手をかざして日の光を遮る横顔がいつもと違って見え、今更ながらにルーシーと学校外で会うのが初めてであることに気付く。Tシャツにショートジーンズと言うラフな格好だが、制服姿より可愛く見えるのは、いつもはポニーテールにしている髪が背に流されているからだろうか。こいつって、結構可愛かったんだな。
「それで‥‥、昨日のあれは何だったんだ?」
そんな考えを振り払うかのように、俺はここに来た本来の目的を果たすことにした。昨日の芳賀さんの狂態の理由を、ルーシーは知ってるはずだ。すると彼女は一つ大きなため息をついて、諦めたような口調で話し始めた。
「あの子ね、haematophiliaなのよ‥‥」
「‥‥ヘマ‥?何だって、何ヒリアだって?」
「あぁ、ごめん、えっと日本語でなんて言ったかな。血液‥し‥‥、あれ?‥‥ah‥wait a second,‥‥well‥‥」
時々忘れるんだが、こいつは帰国子女だったんだよなぁ。突然英語が混ざり始めてびっくりするも、ふと普段頭の中では何語で考えているんだろう、などと思ってしまう。
「So‥‥、そうそう、シ‥コウ症、血液嗜好症のことよ」
「‥‥すまん、まだよくわかんねえんだが」
「えっとね、血を見ることに快感を覚え、異常な執着を見せるって言う一種の精神病なのよ。まぁ、あの子の場合、血を飲むことを好む性癖があるの。あんたも見た通りね」
見た通りって、あれは病気だったのか。たしかに正気の人間のやることには思えなかったが、到底そんな一言で片づけられる事態ではない。それに、そうだとしても幾つかの疑問が残る。
「ちょっと待て、俺が手を切った時には、すっごい悲鳴上げてたじゃないか」
「悲鳴って言うか、あれは喜んでいたのよ。まったく、followするこっちは大変だったのよ」
「じゃあ、あの怪力はなんだったんだ。あれは病気なわけじゃないんだろ?」
「う~ん‥、血を求めてる時の美奈は、すごい力出すのよ。ほら、火事場の馬鹿力的な奴?」
「‥‥そういやお前、スタンガン持ってただろ。何であんな物持ってんだよ」
「あれは、美奈の両親から渡されたの。どうしようもない時は、これで娘を止めてくれって‥」
聞けば聞く程ろくでもない話に、俺は頭を抱えたくなった。酷いことに、この話にはまるで救いがない。何も知らずに芳賀さんのことを大和撫子だと信じていた日々が遠い出来事のように思える。
「まったく‥‥何でまたそんなもんに‥‥」
我知らず呟いた一言は、問題の核心に触れていたようだ。ルーシーは俺から視線を逸らすと、町の方に目を向ける。遠くに白い雲が漂っているが、空は晴れ渡っていた。
「あれね、私のせいかもしれないのよ」
意味がわからず言葉を返せないでいると、ルーシーは背中を向けたまま語り始める。
「私が帰国子女だって知ってるでしょ。日本に帰ってきたのは六歳の時で、当然友達なんかいなかったわけよ。で、親同士が知り合いと言うこともあって、小さい頃はよく美奈と遊んだの」
そうか、芳賀さんとルーシーの接点はそう言うところだったのか。
「でね、ある日私達誘拐されそうになってね‥‥」
「誘拐?」
「うん‥‥、まぁ、狙われたのが私だったのか美奈だったのかはいまだはっきりしないんだけど、それはどうでもいいわ。とにかく刃物を持った男が、私達を連れ去ろうとしたの」
さらりと恐ろしいことを言ってるが、その誘拐はどうなったんだよ、と突っ込みたくなる。まぁ、本人がこうしてピンシャンしてる以上無事だったんだろうけど、今更ながらに心配するじゃねえか。
「多分その時誘拐犯は私に動くなって言ったんだと思うけど、当時の私は日本語がわからなくてね。美奈を助けようともがいた時に、切りつけられたのよ。今でもはっきり覚えているのは、飛び散った私の血が美奈の顔にかかって‥‥。それからよ、あの子が血を好むようになったのは」
肝心な部分がいまいちはっきりしないが、ルーシーは思い出すのもおぞましいと言わんばかりにかぶりを振る。
「多分shockで気を失ったんだと思うけど、その後のことはよく覚えてないのよ。でも失神から覚めた私が目にしたのは、大怪我を負って救急車に乗せられる犯人と、心配そうに覗きこんでくる美奈の顔だったわ。口の周りが赤く染まったね‥‥」
それはさぞかし怖かったろうな。生物室でウサギの死骸から顔を上げた芳賀さんを思い出し、怖気を振るう。何しろお淑やかだと思っていた子が、突然悪鬼になるのを目の当たりにすれば、十六歳の俺だってこのざまだ、六歳だったルーシーにとっては、さぞや悲惨な体験だったろう。
「美奈のdadもmumも違うって言ってくれてるけど、あの子がああなったのは私のせいかもしれないのよ。だから、今度は私があの子を守らなくちゃいけないの」
そう言って振り向いたルーシーは、寂しげな笑みを浮かべていた。それは、昨日芳賀さんにスタンガンを向ける前に見せた表情を思い返させ、胸の中で何かが疼くのを覚える。
夏の訪れを思わせる暑い風が吹き抜け、クスノキの葉をざわつかせる。足元の木漏れ日が揺らめきながら形を変え、今の俺の心の様に、落ちつかなげに揺れ動く。男尊女卑なんて思われたくないが、俺は女の子は守ってやるべきもんだと思っている。ところが昨日の出来事は、間違いなく人生の最悪な出来事ワースト三に入る大失態だ。あんなか細い女の子に力負けしただけでも十分恥ずかしいのに、ルーシーに助けられた挙句、庇われまでしたんだ。まったく、これが侍だったら切腹もんの恥話だぜ。
もっとも俺は侍じゃないから腹を切る気はないが、柔道家として十年間頑張ってきて、それなりに強いと自負していたプライドはズタズタだ。しかも俺が弱かったせいで、彼女にこんな寂しげな顔をさせているのかと思うと、居ても立ってもいられない気分になる。
「それでね‥‥、言いにくいんだけど、あんたさ、美奈に目をつけられてるのよ」
「俺が?そりゃどういう意味だ」
「なんかあの子、あんたの血に執着してるみたいでさ、しきりに会いたがってるのよ。ねぇ、森須ってAB型?」
「‥‥いや、B型だけど」
「変ねぇ‥‥、B型なんてあの子の好みじゃないはずなのに‥‥」
まるで血液型の相性の様な話をしてるが、血を飲む際には何型かが関係するのだろうか。などと血を飲んだことなどない俺には分かりようもないが、ルーシーの言葉には一つ思い当たる節があった。
「ああ、あのな、俺Rh-なんだ」
「そうなの?」
「そうなのって言われても、医者から言われた以上のことは知らんが、なんか珍しい血液らしいな」
あんまり覚えちゃいないが、風邪か何かで小さい頃病院へ行った時、一緒に血液型検査をやってもらって、その時に知ったことだ。当時は何か自分が特別になった気分で嬉しかったような覚えがあるが、よくよく考えると、大怪我とかした時輸血で困るんだから、あまりありがたいものでもない。もちろんそんな怪我なんて今までしてこなかったから、当の俺ですら忘れそうになってたことだが、よもやこんな形で思いだすとは思わなかったぜ。
「そっか、それで美奈が興味を持ったのね‥‥」
そんな風に納得されても、あんまり嬉しくない興味の持たれ方だ。だがルーシーは何やら思案顔で考えこむと、俯いたまま傍までやってくる。
「森須、あんたさ‥‥、気にいらないかもしれないけど、しばらく私と付き合ってる事にしなさい」
「‥‥は?」
思いもよらぬ言葉に、俺は面喰ってしまった。今の話の流れで、どうしたらそんな話が出てくるんだ?
「美奈にあんたを襲わせるわけにはいかないの、それはあの子の為にもあんたの為にもならないでしょ。でもずっと一緒にいると不自然に思われるから、学校では付き合ってる事にすれば大丈夫でしょ」
ああ、そうか、こいつは芳賀さんから俺を守るつもりで言ってるんだ。きっと今までにも、こうやって陰ながら芳賀さんや、周りの人を守ってきたんだろうな。
「そりゃ、私は美奈みたいな美人じゃないから、あんたは気に入らないかもしれないけどさ。緊急事態だから仕方ないものと割り切ってよ。後から別れたことにすればいいから、とりあえずしばらくは‥‥」
「‥‥なぁ」
俺はルーシーの言葉を遮るように口を挟んだ。いつもながらこういう時には勇気がいるんだが、今はためらう時じゃない。
「‥‥何?」
「いっそ俺達、本当に付き合わねえか?」
驚いたように顔を上げたルーシーは、言葉の意味をゆっくり噛みしめると、見る見る顔を赤らめ慌て始める。
「‥‥なな、何言ってるのよあんた、別に本当に付き合わなくても振りだけでいいんだってば!」
しかし俺はルーシーに詰め寄り、真顔で顔を覗き込む。可愛そうなくらいおろおろした彼女は、目を逸らして一歩後ずさる。
「大体私と一緒にいると危ないのよ。今回みたいにあの子のたがが外れた時、私だって襲われかねないんだから」
「だったら問題ねえよ、俺はもう狙われてるんだろ?」
「それはそうだけど‥‥、駄目駄目、やっぱ駄目。第一あんた、美奈のこと好きじゃなかったの?」
「あのなぁ‥‥、あんなことの後まで同じ気持ちでいられるわけねえだろ。お前の言った通り、俺にあの子は無理だ。」
「だからって‥‥」
「お前さぁ、‥‥何でも一人で背負いこむなよ」
えっ、と呟いて彼女は俺に目を向ける。怯えた猫の様な瞳が見つめていた。
「ずっと彼女の事で罪悪感感じてたんだろ?それで誰にも相談できなくて、一人で芳賀さんを守ろうとしてたんだろ。だったら俺がその重荷を半分背負ってやるよ。だから、もうあんな顔で苦しむな」
胸の内にあるものを吐き出すように、俺はルーシーに思いの丈を打ち明けていた。強気な奴だとばかり思っていた彼女が、こんな闇を抱えて苦しんでいたなんて思いもよらないことだった。きっと今までにたくさん傷ついて、一人で抱え込んできたのだろう。そして、それを知ってしまった今、俺は心から思った。こいつを守ってやりたいと。
ますます顔を赤らめたルーシーは、急に身をひるがえして逃げだそうとするが、手を掴んで引き寄せる。今このチャンスを逃したら、二度とこんな話は出来やしねえ。
「別に恥じゃねえだろ、困った時には人を頼れよ。少なくとも俺を頼ってもいいんだよ」
「で、でも‥‥」
どう伝えればいいのかわからず、俺は思いを込めて真剣な眼差しを向けた。強面の俺がこんなことすれば、普通は怯えられるんだが、ほとんど泣きそうな顔をしながらも、彼女はしっかりと見つめ返してきた。そして必死の思いが通じたのか、ついに抵抗をやめたルーシーは、力なく俺の胸に頭を預けてくる。
「‥‥バカ、本当にどうなっても知らないよ」
「バカかもしれんが、後悔はしねえよ」
「‥‥バカ」
彼女はもう一度そう言ってから、ぎゅっと抱きついてきた。俺はありったけの愛情を込めて、強くルーシーを抱きしめ返した。夏の匂いの香る風が、再びクスノキをざわめかせる。今度はそれが、俺達を祝福する囁き声に聞こえた。
こうして血と汗と涙の末、俺には彼女ができた。本来なら未来は薔薇色だと言いたいところだが、どういうわけだか俺達の未来には血の色が待ち受けている。だが、たとえどんな未来が待ち受けていようとも、あんな寂しげな表情は二度とさせない。芳賀さんのヘマトフィリアとも向き合って必ずルーシーを幸せにしてみせる!
読んで頂いた読者様にはお分かり頂けたと思いますが、この話は一応恋愛小説ではあるものの、ヘマトフィリア芳賀美奈による、なんちゃってホラーな物語です。
普通の生活をしている人は、おそらくヘマトフィリアなんて言葉は聞いたことがないでしょうし、死ぬまで聞くことがないかもしれません。だから、タイトルで使っちゃっても血液嗜好症の事とは気付かれないだろう、とたかをくくってみたものの、ゲーム友達に聞いてみたら、あっさり知ってる人がいたのでびっくり。
しかし、吸血鬼ドラキュラのファンの方が、登場人物の名を見てピンと来てくれたなら、作者としては嬉しい限り。「ドラキュラ」のヒロイン、ミナ・ハーカー。その友人のルーシー・ウェステンラ。ルーシーの求婚者の一人であるキンシー・モリス。多少当て字に無理はありますが、知ってる人が見たら血の臭いがぷんぷんしてきますねぇ。
nameless権兵衛 権藤直紀