~ 4 ~
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追い詰められた阿部さんがウサギを刺した時、俺は迷わず飛びかかるべきだったんだ。躊躇したのは、やはり刃物を持っていたから。例え相手が女の子で、こっちが柔道の黒帯だとしても危ないものは危ない。それにヒステリーを起こしかけていた彼女が、誰かを傷つけるのが怖かった。いくら相手が俺でも、同級生に怪我をさせたとなればいい思い出にはならないだろうし、下手をすれば矛先が芳賀さんに向くかもしれない。そう考えて慎重になりすぎたのが、出足を鈍らせたんだ。
だから、悲鳴じみた声を上げて芳賀さんが阿部さんに掴みかかった時には、青ざめる思いをした。しかし虚をつかれた阿部さんは棒立ちのままで、やすやすとカッターをもぎ取られてしまう。
やった!
そう思った次の瞬間、銀の閃光が空を薙いだ。
一瞬、俺は目を疑った。なぜならカッターを奪い取った芳賀さんが、ウサギに切りかかった様に見えたからだ。
‥‥いや、まさかそんなはずはない。今のはカッターを奪おうとしたはずみで、そう見えただけだよな。
だが、びゅっと空を切る音と共に、ウサギの首から勢いよく赤い飛沫が噴き出し、宙に舞い散った。その時どんな時間の魔法がかかったのか、俺にはそれがスローモーションのように見て取れた。まるで一瞬の絵画のように美しく、鮮やかに、赤い血潮が煌めく雨の様に白い壁や教壇、そして二人の顔に降り注いだのだ。
きょとんとしていた阿部さんは、自分の顔に飛び散ったものに手を触れ、それが何であるかに気付くや、ひきつった様な悲鳴を上げる。慌てた彼女は何かにつまづいてその場にへたりこんでしまうが、そんなことより俺は芳賀さんから目が離せなくなっていた。いつの間にかウサギは芳賀さんの手に奪われており、彼女はそれを掲げるように持っていた。必死でもがくウサギが暴れるたびに、吹き出る血潮が彼女のブラウスや美しい顔を赤く染めていく。
‥‥なんだ、なんで彼女がウサギを持ってるんだ?いや、そもそも彼女は何をしてるんだ?
事態が把握できず、俺は硬直したように動けずにいた。何が起きているのかわからず、どうしていいかわからなくなったのだ。ただ、家庭科の時間には血を見ただけで悲鳴を上げてた芳賀さんが、ウサギの血を浴びながら佇んでいる。おそろしく悪い予感が、心に忍びよってきた。
「‥‥あ‥はぁ‥‥」
ゾクッとする様な官能の呻きは、血塗れの唇からこぼれていた。芳賀さんは吹き出る血潮を避けようともせず、空いている手で顔についた血を拭おうと‥‥、いや塗りたくってるようだった。
「‥‥熱い、‥‥あぁ、血‥‥、熱い生命の血潮、命の脈動‥‥ああぁ‥‥」
興奮して上ずった声が妖しく響く。それはいつもの彼女の声ではなかった。日頃聞く芳賀さんの声は耳に心地よく、優しさや思いやりを感じ取ることができたが、今はどこか抑え込んだ欲望を解き放つような、低く、浅ましい響きがこもっている
。
‥‥一体、俺の天使はどうしてしまったんだ?ウサギの血を見ておかしくなってしまったのか?
ウサギの動きは次第に緩慢なものとなり、力なく足をひくつかせるようになると、吹き出る血の勢いも衰えてくる。すると彼女は何を考えてか、ウサギの身体を教壇の上に叩きつけた。
ダンッ!
乱暴な音が響き、へたりこんでいた阿部さんがヒッと短い悲鳴をこぼす。そんな様子には目もくれず、芳賀さんはカッターを振り上げるや、流れるような一挙動で振り下ろす。身体に食い込んだ刃を引き抜くくぐもった音と共に、再びウサギの身体から噴水のように鮮血が噴き上がる。彼女は屈みこむ様にウサギを見下ろすと、そのまま徐々に顔を近づけて行く。長い髪がかかって表情は見えないが、興奮した息づかいが聞こえてくる。
ドクドクと心臓が高鳴り、何か恐ろしく不吉なものに触れている様な感覚が、背筋に冷たい戦慄を走らせる。恐ろしい考えにとらわれ、息が苦しくなる。一体彼女は‥何をしようとしてるんだ、まさか‥‥
‥‥ジュルル
そのまさかは現実のものとなった。行儀悪くスープを啜るような音がウサギの腹から聞こえてくるが、彼女が啜りあげてるものはスープでもなければ水でもなかった。
‥‥ジュル‥‥ズズ‥ジュルル‥‥、‥‥チュル‥‥チュプチュプ‥‥
耳を覆いたくなるような音は止まらなかった。俺は彼女の蛮行が現実として受け止められず、目の前が真っ暗になる思いだった。あの春の陽だまりを思わせる、穏やかで明るい笑みをこぼす芳賀さんが‥‥、俺の天使は一体ウサギの腹に顔を埋めて、何をしてるんだ?
力なく首をのけぞらせていたウサギが、最後に大きく身体を震わすと、それっきりピクリとも動かなくなった。
‥‥あぁ、あの可哀そうなウサギは死んだんだ。
静かな生物室に訪れた死は、あまりにも無情で受け入れがたいものだった。それでもなお、芳賀さんは死骸を凌辱するかのように血を啜り続けている。その姿は、まるで倒した獲物に食らいつく肉食獣を連想させた。
時間が凍りついた様な感覚の中、遠くから聞こえてくる運動部の掛け声が、かろうじて学校にいることを思い出させてくれる。ようやくウサギの死骸から顔を離した芳賀さんは、どことなく淫わいな目つきで蕩ける様な笑みを浮かべており、まるで別人のような面持ちだった。
身を起こした彼女は、血に染まった夏服に手をなすりつける。ふくよかなバストが大きくたわむが、そんなものに関心を示す余裕はない。彼女は手についた血をピチャピチャと舐め始めたのだ。まさに悪い夢でも見てるようだった。
足元で大きな音がして、びくつきながら視線を落とすと、阿部さんが目を見開いたまま震えていた。口は悲鳴の形に開いているのだが、声は出ていない。それは恐ろしさのあまり声が出なくなったのか、それとも声を上げるのが危険だと言う本能のなせる業か。
やがて手についた血を舐めきった芳賀さんは、思い出したかのようにこちらを向く。ブラウスには赤い血痕が飛び散っており、顔もウサギの血で真っ赤なのに、満足げな笑みを浮かべ、目は危険なほど生き生きと輝いている。
「あら、どうされたのですか、森須さん。お顔の色が真っ青ですわよ?」
恐ろしいことに、彼女の口調は平静と変わらなかった。しかし声は芳賀さんのものだが、決して彼女ではない何かに話しかけられたような気がしてならない。そのあまりの異様さに、思わず一歩後ずさる。
「まぁ、いけません。指から血が滲んでらっしゃいますわ」
ぎょっとして指を見ると、どこかでぶつけたのか、包帯に赤い血が滲んでいた。彼女の粘つくような視線が示すものは言わずもがな。本能が危険を訴え、頭から血の気が引いて行く。
「もったいな‥‥、‥いえ、化膿しては大変です。わたくしが‥‥舐めて差し上げますわ」
赤い唇を割って蛭のような舌が唇を舐めるのを、背筋が凍りつくような恐怖のもとで眺めていた。にんまりと笑う彼女の笑みは肉食獣のそれで、獲物は間違いなく俺であった。
ドクンドクンドクン‥‥
心臓が暴走したかのように鼓動を早める。張りつめた空気に緊張が混じり、珠のような汗が額を伝う。試合でも喧嘩でも、誰かと対峙して、こんな恐怖を感じるのは初めてだ。冷たい汗が顎の先から滴り落ちたその瞬間、沈黙は破られた。
「ひぃやあああぁ~!」
嬌声を上げ、芳賀さんが猛然と躍りかかってきた。
「ひぃやあああぁ~!」
恐怖の悲鳴を上げて、俺は全力で後ずさった。
怖え、マジ怖え!恥も外聞もなく、俺は逃げることしか頭になかった。だが、黒い疾風と化した芳賀さんは、易々と間近に迫ってくる。そのあまりの早さに心の中は驚きでいっぱいだった。今まで柔道で組み手争いは嫌と言うほどやってきたつもりだが、彼女の動きはそんな相手とは根本的に違う。さながら野生動物が飛びかかってくるような勢いで懐に飛び込まれるや、問答無用で両腕を掴まれてしまう。
「ぐぅあっ!」
‥‥な、何だこれは!
恐ろしい力が腕に食い込み、堪らず苦鳴を上げる。まるで万力で締め付けられるような容赦のない握力。まさかという思いで手を掴んでいる細腕を見る。バカな、ありえん!
こう見えて、握力には自信があるほうだ。特に右は強く、リンゴを片手で握りつぶすこともできる程だ。それと言うのも、柔道において握力は重要だと幼い頃師範に教えられ、以来欠かさずトレーニングを繰り返してきたからだ。その俺がまるっきり子供扱いで、こんなたおやかな腕の女に力で負けるだと!
必死で手を振りほどこうとするが。これが恐ろしいことにびくともしない。それどころか肉が血管ごと押しつぶされ、骨まで痛みが響く。あまりの容赦ない痛みに頭の中がくらくらして来て、力が入らなくなる。
当の芳賀さんはと言うと、力を込めてるどころか、どこかうっとりしたような表情で血の滲む包帯に魅入っている。顔を近づけ匂いを嗅ぐと、今度は口で包帯を解きにかかり、瞬く間に傷口を露出させる。
「‥‥う‥ふぅ‥‥」
エロチックな呻きがこぼれ、生温かい息が指に当たる。今まさに、俺の指にしゃぶりつこうとする美女。見ようによってはエッチなことを考えてしまいそうだが、口の中がざらつく様な血の臭いと、猛烈な痛みがそんなことを考えさせる余裕を生まない。ライオンに食われそうになる草食動物ってのは、こんな気分なんだろうか。抵抗できないまま、指が彼女の口に吸い込まれていくのを見つめるしかなかった。
「んっ‥‥」
甘い呻きと共に、指がくすぐったいような生温かい感触に包まれる。舌が指の上を這いまわり、血を舐めているのが分かる。ゾクゾクくるような快感は、急に痛みに変わった。彼女の牙が‥‥、いや、歯が傷口をえぐるや、猛烈な勢いで血を吸い始めたのだ。俺の中の生存本能が危険を訴えかけてきた。まるで命を吸い取られそうな感じに恐慌に陥り、彼女の手を振りほどこうと必死の力を振り絞るも、悪魔の万力はびくとも動かない。次第に昂ぶってきた彼女は興奮を募らせ、ついに口を大きく開ける。
く、喰われる!
半ば観念しかけたその時、救世主が現れた。
「美奈っ!」
風前の灯火だった俺の指は、その大声で救われた。おそらく俺と同様の理由で探しに来たのだろう。開けっ放しの入口に現われたルーシーは、生物室の惨状を見てとるや、絶望的に表情を歪める。
それが決死の表情にとって代わるや、彼女はこちらめがけて猛然と駆け寄り、こともあろうに芳賀さんめがけて強烈なショルダーチャージをかましてきた。
余程思いっきりやったのだろう。二人はもつれあいながら倒れ込み、巻き込まれた俺も無様に倒れてしまう。だが腰をぶつけて痛かったことより、あれほど強烈だった束縛から逃れられたことに驚いた。そうか、いくら握力が尋常でないとはいえ、体重まで変わるわけはない。床に転がったルーシーはすぐさま身を起こし、俺の前まで飛び退ると、芳賀さんに向かって怒鳴りつける。
「美奈っ、あれほど人間を襲っちゃ駄目って言ったでしょ。学校で何考えてるのよ!」
‥‥‥‥なんだと、そりゃ一体どういう意味だ?
言葉の意味を計りかね、俺は戸惑いを隠せなかった。今こいつ何て言った?
「そうは言いましても、阿部さんがいけませんのよ。あのようなことをされてはわたくし‥‥」
まるで痛そうな素振りも見せず、身を起こした芳賀さんは、もったいなげに唇の周りについた血を指で拭って舐めとる。ルーシーはじりじりと芳賀さんから距離を取りながら、肘でドンと小突いてきて、何があったの、と事情の説明を求めてくる。
「‥‥よくわかんねえけど、あいつが芳賀さんの前でウサギを刺したんだよ」
小声で答え、教室の片隅で震えている阿部さんに目を向ける。今や顔面蒼白の彼女は、恐怖に目を見開いてがくがく震えている。なんてバカなことを、とルーシーは毒づくが、彼女の肩も震えている事に気が付いた。そう言えばこいつ、俺と芳賀さんの間に立ち塞がる様にしてるが、もしや俺を庇おうとしてるのか?
「‥‥それにわたくし、もう冷たい血では満足できませんの」
指先を舐めながら妖しく微笑む芳賀さんから、ルーシーはさらに一歩後ずさる。荒い呼吸が彼女の緊張を伝えてくる。そうか、こいつも怖いんだ。
「だったらせめて鳥にしなよ。人間の生き血は癖になるから駄目って‥‥」
「麻里、せめて哺乳類じゃないと我慢できませんの。お母様に屠殺を止められてから、もう気が変になりそうで‥‥」
‥‥生き血?屠殺?本当に何の話をしてるんだ?
「だからって、昨日ウサギを襲ったばかりでしょ、お願いだから少しは自制してよ!」
「そのつもりだったのですが、森須さんの血はなんだか興味をそそられ‥‥」
「‥‥ちょ、ちょっと待て」
さすがの聞き捨てがたい言葉に、俺は口を挟んだ。余計なこと言わないでよ、と言わんばかりにルーシーは再び小突いてくるが、聞かないわけにはいかねえだろ。
「‥‥つまりナニか?その‥‥昨日のウサギ事件は‥‥、芳賀さんがやったのか?」
「まぁ大変、森須さんにばれてしまいましたわ。もう、麻里、貴方のせいですよ」
‥‥貴方のせいとかいう問題じゃないだろ。あっさり認めた芳賀さんだが、少し悪びれた様に目を伏せる。
「お断りしておきますが、決してわざとではないのですよ。いつもは血管に触れるだけで我慢していましたのに、昨日はどうしても我慢できなくて、つい‥‥」
つい、じゃねえよ。そっちのほうがよっぽど怖いわ!と、大声で突っ込みたくなったが、今の彼女を刺激するのは賢くない。口調こそ落ち着いているものの、興奮に息を荒げた芳賀さんは、少しづつこちらへにじり寄ってくる。ほんの少し前までならそれを嬉しく思ったろうが、今はこれっぽっちもありがたいとは思わねえ。
「‥‥ば‥‥化け物」
怯えきった声が、俺達三人の注意をひいた。見れば、腰でも抜かしたように後ずさりする阿部さんが、震える指をこちらに向けていた。
「‥な、何なのよぉ、あんたら一体‥、どうして学校に吸血鬼がいるのよぉ‥‥」
まずいな、パニックを起こす寸前だ。この一触即発の空気でそれはやばい。さっきはカッターを持った阿部さんが芳賀さんを襲うのを恐れていたが、今は全く逆の心配をせねばならん。
「阿部、あんたちょっと黙ってて。これ以上話をややこしくしないで」
いらついた声でルーシーがたしなめるも、ついに我慢の限界を迎えたのだろう。ほとんど泣き笑いのような声で、阿部さんは悲鳴を上げ始めた。ますますやばい、これでは悲鳴を聞きつけた誰かがここへ来るのは時間の問題だ。
「美奈、お願いだからやめて!」
「ああ麻里、もう自分を抑えられませんの。わたくし、どうしても森須さんが欲しくて欲しくて、我慢できませんの‥‥」
‥‥これが恋の告白だったら、死んでもよかったろうなぁ。昨日までの俺なら間違いなくそう思っていただろうし、それこそ大和撫子だった芳賀さんになら殺されたって本望だったかもしれん。だが、今は命が惜しい。阿部さんは吸血鬼と言ったが、あながち誇張でもない。あんなわけのわからん化け物と化した彼女に襲われるのは御免こうむる。
その時、ルーシーが振り向いて俺の顔を見た。心細さに耐えかねた、すがるような目で見つめられ、ドキッとしてしまう。何かを言いたげに唇が開くが、彼女はそれをぐっとこらえ、儚げな笑みを浮かべ振り返る。
「美奈‥‥、それでも私、あんたのこと大好きだからね‥‥」
泣きそうな声でルーシーが呟くや、ついに芳賀さんが襲いかかってきた。ルーシーは身を守るかのように手を突きだすが、そんなものなどお構いなしに、血塗れの獣は一瞬にして距離を詰めてくる。
危ない、そう思った瞬間、バチバチバチと言う音と共に目の前で青白い光が弾けた。びっくりしたのは、俺より芳賀さんの方だったであろう。獣じみた悲鳴を上げて大きくよろめくと、そんな彼女を抱きとめるかのように、すかさずルーシーが手を差し伸べる。
「美奈、ごめんね、許して!」
再びバチバチと言う音が響き、肉の焦げるような異臭が漂う。ようやく俺はルーシーが、青白い火花を散らすスタンガンを握っていることに気がついた。一体どれほどの電流が流れたのか、堪らず崩れ落ちる芳賀さんを抱え、ルーシーは彼女の名前を呼びながら泣いていた。
慌ただしい足音と共に、騒ぎを聞きつけた先生達がやってきたのはその時だった。先頭に立っていたのは須藤先生で、壁に飛び散った血と、教壇に放置されたウサギの死骸を目にして驚きの声を上げる。それから芳賀さんを抱きかかえて泣き崩れるルーシーと、悲鳴を上げ続ける阿部さん。そして呆けたように突っ立ってる俺を順に見た後、おい、一体何があったんだ、と聞いてきた。
さて、驚き冷めやらぬ俺はどう答えたものか。この場を取り繕う最善の手は何だ?日頃使わねえ頭を必死で振り絞り、なんとかこの場をうまく切り抜ける答えを求めた。
「‥‥えーと、阿部さんがウサギを刺したんで、こうなりました‥‥」
怪訝に顔をしかめる先生の反応も無理はない。これからどう言い繕うにしても大変なことになりそうだなと思いつつも、心の中ではこう呟いていた。
まぁ、嘘は言ってないよな。ぎりぎりだけど‥‥