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「芳賀さん、さっきはごめんな、大丈夫だった?」
彼女と再び二人きりになったのは、放課後の教室。日直の仕事で、教室の掃除や当番日誌を書いている時だった。いつもなら適当に済ませる黒板の掃除に念入りな時間をかけながら、なんとなく気まずかったものの、日誌を書いている彼女に声をかけてみた。
「えぇ、お気遣いありがとうございます。それよりこちらこそ申し訳ありませんでした。怪我をされたのは森須さんですのに、わたくしったら取り乱してしまいまして‥」
よかった、ちゃんと返事してくれた。さっきのせいで避けられでもしたら、どうしようかと思っていたぜ。
あの後、保健室から戻ってきても芳賀さんとルーシーの姿はなく、二人が教室に帰ってきたのは五限目の授業が始まる直前だった。その時の芳賀さんはいつもと変わらないように見えたが、ルーシーは明らかに機嫌が悪い様子で、あいつと目があった時ものすごい目つきで睨まれ、慌てて目を逸らした覚えがある。
ガタン――
静まり返った教室に椅子の音が響く。日誌を書き終えたのか、芳賀さんは椅子から立ち上がると、無言のうちにこっちへ近づいてくる。いつもと違って、二人きりだとどうしても彼女の挙動を意識してしまうな。てっきり黒板消しを手伝ってくれるのかと思いきや、彼女は俺の前で俯いたまま立ち止まると、気遣わしげな言葉をかけてくる。
「‥‥あの、森須さんこそ大丈夫ですか。あんなに血が出ていましたのに」
「ああ、全然平気さ。ほら、俺って血の気が余ってるみたいだから、あれくらいどうってことないよ」
そう言って怪我した指を振って見せるが、包帯を巻いているせいで、あまり軽傷には見えない。実際傷はそれほど深くなかったんだが、包丁が斜めに入ったせいでなかなか血が止まらず、保険の先生が念入りに治療をしてくれたようだ。まぁ、傷口が塞がるまで部活に出るのは無理そうだが、大騒ぎする程の怪我でもない。
ところが、安心させるために言った言葉がどんな影響を与えたのか。怪我した手に彼女はそっと手を添えてくる。思わぬ行動に心臓が飛び出しそうなほど驚いたが、さすがに口から出てくることはなく、胸の内でドキドキと激しい鼓動を刻み出す。彼女の手は白くてたおやかで、触れられた感触は思ったより冷たい。俯いていた彼女が顔を上げると、いつもの穏やかな表情ではなく、どこかせつなくて、物欲しげな表情に見えたのは気のせいか。
「でも心配ですわ、わたくしあれからずっと気にしていましたのよ‥‥」
「芳賀さん‥‥」
おおぉ!もしかして、これが怪我の功名ってやつか。優しい彼女のことだ、怪我した俺を気遣ってるうちに、もしかして恋に結び付いちゃったとか?‥‥いやいや、さすがにそれはちょっと思いこみ過ぎか、想像力がたくましすぎるぞ。でも、俺のことを気にしてるって今言ったよな。って言うか、今俺達って二人きりだよな。やっべ、すっげ―抱きしめたい。もしかしてこれはチャンスなのか?‥‥待て待て、これが勘違いだったら間違いなく嫌われるぞ。
ガラガラガラ――
吹き荒れる嵐の様な葛藤は、教室の引き戸が開く音で打ち破られた。びっくりして目を向けると、鬼のような形相をしたルーシーがつかつかと詰め寄ってくるところだった。
「ちょっと美奈、何やってんのよ!」
「まぁ麻里、どう致しましたの。そんなに怖い顔なさって?」
ルーシーは完全に俺の存在を無視して、乱暴に芳賀さんの腕を掴むや教室の隅へと連れて行く。そのまま小声で説教をくれてるようで、微かにその言葉が聞こえてくる。
「‥‥あんた‥‥ほど言ったでしょ。‥‥との約束が守れないの」
「誤解‥‥、わたくしは‥‥森須さん‥‥話を‥‥」
びっくりしたのとがっかりしたので呆然としていた俺だが、ようやくルーシーを止めなきゃならんと思い立った。ところが、声をかけようとする前に、二人目の予期せぬ人物が現れた。
「芳賀さん、いるかし‥‥ら?」
教室に入ってきたのは、同じ中学出身の阿部樹莉亜。親が県会議員の高飛車なお嬢様だが、そのゴージャスな名に恥じない美貌とナイスバディの持ち主で、ついでに言うと中学時代告白して振られたことのある相手だ。その阿部さんは、芳賀さんに突っかかるルーシーを見て意外そうな表情を浮かべるが、それも無理はなかろう。俺だって今この時点まで、あの二人が仲良くしてない姿は初めて見る。芳賀さんは阿部さんの登場をこれ幸いと言わんばかりに、ルーシーの隣をすり抜け用件を聞きに来る。途中、俺の顔を見て微笑んだのは気のせいじゃないよな。
「お待たせいたしました、何か御用でしょうか?」
「‥‥えっ、ああ、須藤先生が呼んでるから、ちょっと一緒に来てくれない?」
「まぁ、何かしら‥‥仕方ありませんわね。森須さん、たびたび申し訳ありませんが、行って参りますわ」
何だろう、今日は彼女と話していると邪魔ばかり入るな。本日二度目のお断りに返事をすると、二人は一緒に教室を出て行ってしまい、後には仏頂面を引っ提げたルーシーと俺が残された。
それから黒板の掃除や机の整頓と言った雑務を淡々とこなしている間、彼女は腕組して窓際に立っていた。昼前と違って手伝う素振りも見せず、ただ無言。言うまでもないが、非常に気まずい。沈黙に耐えかねて口を開いたのは俺の方だった。
「なぁ‥‥、おまえちょっと芳賀さんに過保護すぎるんじゃないか?」
「‥‥放っといてよ、あんたには関係ないでしょ」
「いや、そうかもしれんが、それにしたって程度ってもんがあるだろ」
「うっさいわね、人の気も知らない癖に勝手なこと言わないでよ」
ひでえな。無視よりましだが、これでは取り付くしまもない。まったく、こいつもこんなにつんけんしてなければ、もう少し可愛いと思うんだがなぁ。
「‥‥もしかして芳賀さんが俺と仲良くしてるから妬いてんのか?」
「ちょっと、言って良いjokeと悪いjokeがあるのよ、ふざけないで!」
少しでも場を和ませてたくて冗談のつもりで言ったんだが、どうやら火に油を注いでしまったようだ。とりあえず、こいつが俺に気があるってことだけはなさそうだ。ちなみに帰国子女である彼女は、例え日本語に混じったものであっても、実に流暢な英語の発音をする。こいつと話してると、いかに日本語が英語の影響を受けているかがわかるよ。
そうこうしてるうちに日直の仕事も終わり、後は職員室へ日誌を届けるだけとなった。芳賀さんはまだ帰ってこないが、須藤先生に呼ばれたんなら職員室で会うだろう。教室を出ようとするがルーシーが残ったままなので、最後に声をかけてみる。
「俺は日誌届けたら部活に顔出して帰るけど、お前どうすんだ?」
「美奈と一緒に帰るから、ここで待ってるわ」
「‥‥そっか、じゃあな」
「‥‥‥あっ、森須、ちょっと待って」
まだ何かあるのかと思い身構えてしまうが、返ってきた言葉は思っていたようなものではなかった。
「‥‥その、ちょっと言い過ぎたわ、ごめん。美奈の事でnervousになってて、八つ当たりしちゃったわね」
「‥‥気にすんな、別に怒っちゃいねえよ」
「うん、ありがと。別にあんたが悪いわけじゃないのに、ひどいこと言っちゃったからさ。ホントごめんね」
返事の代わりに、俺は片手を上げて教室を出る。まったく、本当に義理堅い奴だ。こう言うさばさばした所は、男同士で付き合ってるような気楽さがあり好きになれるんだがな。まぁ、女の子相手にこんな事言うと怒られそうな気もするが、自然と笑みがこぼれてしまう。
しかし、どうにも気にかかるのが先程の芳賀さんの態度だ。あれは一体何だったんだろう。俺だって全然鈍いわけじゃないから、女の子が俺に気があるかどうかぐらい少しはわかるつもりだ。昨日までの芳賀さんにとって、俺はクラスメイトの一人に過ぎなかっただろうが、今日の芳賀さんは明らかに興味を示していた。血が苦手なのに怪我した俺を気遣ってくれるのは、やはり好意があるからか?もっとも誰にでも優しい芳賀さんのことだ、俺の勘違いと言うことも考えられなくはない。やはりアタックするにしても、もう少し確かめてからにするべきか。
ところが、職員室に彼女の姿はなかった。須藤先生は自分のデスクで何やら書き物をしている最中で、日誌を渡すと、おう、御苦労と言って、中身を確認する。おかしいな、廊下ですれ違わなかったけど、芳賀さんはどこへ行ったのだろう。
「先生、芳賀さんに何の用事だったんすか」
「芳賀‥‥、芳賀がどうかしたのか?」
「あれ、さっき阿部さんが先生が呼んでるからって呼びに来てたっすよ」
「何の話だ、俺は知らんぞ?」
‥‥ますますおかしい。とぼけてる様子もなく、先生は本当に知らないようだ。となると嘘をついて呼び出したのは阿部さんってことになるが、どういうつもりだ?
なんだか嫌な予感がし始めたので、先生には曖昧な言葉で誤魔化して職員室から退出した。俺の知ってる阿部樹里亜は、プライドの高い女王様気質の女だ。クラスの人気が芳賀さんに集中してるのを、快く思ってないことは知っている。もっとも彼女は世間体も気にするタイプだから、クラスの人気者である芳賀さんをイジメに走るようなバカでもない。‥‥少なくとも表だってイジメる様なことはしないはずだ。だがよくよく考えてみると、さっき芳賀さんを呼びに来た時の阿部さんはどことなく様子がおかしかったような‥‥
杞憂なら良いんだが、万が一ってこともある。隠れて誰かをボコろうとするなら、どこだ?殴る蹴るのイジメをするような奴の考えることはどこでも似たようなもんだ。やるとすればトイレとか校舎裏とか体育館倉庫とかそういうところだろう。女子便所でやられたらお手上げだが、部活の始まってるこの時間帯に体育館の側はまずないな。だとすると校舎裏なんかが怪しいか。
二階にある職員室から一番近いのは自転車置き場の裏あたりだ。念のため見て回ろうと階段へ向かったが、その階段に行きつく前に、一階の教室にいる髪の長い女性の姿が目に入る。長髪の女子なんて珍しくもないが、腰まで伸ばしてる子はそうはいない。ここからでは顔が見えないが、もう一人女生徒が一緒にいるようだ。もしかしてあれか?
ますます強くなる嫌な予感は焦りに変わり、俺は一階の生物室向けて駆けだした。
◇
授業の時と違って、誰もいない生物室はいつもより寂しい感じがする。電気のついてない教室は薄暗く、ドアを閉める音が大きく響く。もっともこれからやることを思えば、相応しい舞台とも言えるんだけど。
「阿部さん、本当にここで須藤先生がお呼びなのですか?」
私の嘘を真に受けた芳賀は、不思議そうに辺りを見渡している。ちょっと考えれば、国語の須藤先生が生物室に呼び出すわけないことくらい気付きそうなものなのに、何の疑いもなくのこのこついて来るなんて、この子本当にバカなのかしら。内心嘲りながら、私は入口を背にする。
朝方、ウサギ事件で警察の捜査が入ったため、今日一日生物室は立ち入り禁止となっている。ひと気がないにはもってこいの場所だし、ここに来るまで誰にも見られなかったから、もう猫かぶる必要もないわね。
「あの、先生がご不在の様でしたら、また後でお伺い‥‥」
「私さ~‥‥、あんたのそう言うところ大嫌いなのよね」
きつい口調に、彼女はきょとんとした表情を浮かべる。いきなり話を遮られて、何が起きたかわからないって感じだけど、ホントおめでたい子ね。
「どうされたのですか、何か怒ってらっしゃるようですけど‥‥」
「あんた、マジでバカなの?」
あまりの鈍さにイラっとくる。他の人の目には純粋とか無垢に映るんだろうけど、私には馬鹿正直にしか思えない。こう言うのが自分の気付かないところで人を傷つけたりするのに、この子全然わかってない。
「そう言う無神経な所がいちいち気に触んのよ、あんたわかってんの?」
「まぁ、わたくし何か失礼なことを致しましたでしょうか。ご迷惑をおかけしたのであれば、お詫びしますわ」
すぐに謝る低姿勢にますますイライラが募り、感情的になるのを押さえられなくなる。こういう自分が何怒られてるかわかってないのに、すぐ謝って誤魔化そうとする奴って大嫌いなのよね。顔にビンタでも食らわせて、目を覚まさせてやろうかしら。
人目につかないってことで、日頃押さえていたストレスをぶつけてやりたくなるけど、そこはぐっと我慢する。こんな奴殴っても、理不尽な暴力にさらされた被害者をきどられるだけでこっちが損だし、何よりあの澄まし顔が気に入らない。もっと精神的に痛めつけてやらなきゃ。腹の虫がおさまらないわ。
「ふんっ、‥‥あんたウサギが好きだったわよね」
憎々しげに芳賀を睨みながら教壇へと近づき、ここへ呼び出す前に準備しておいた小動物用のキャリーボックスを取り出す。本来はウサギ小屋を清掃する間、一時的にウサギを入れておくために使用するもので、中には先程捕まえておいた白茶のウサギが入っている。首根っこをつかんで引っ張りだすと、ウサギは暴れる風もなく大人しくしてる。でも、それを見た芳賀の表情は不安げなものに変わる。口元が綻ぶのを覚え、私はポケットからカッターナイフを取り出すと、ウサギの前でちらつかせて見せた。
「‥‥な、何をなさるおつもりですか、阿部さん、危ないからお止め下さい!」
「へ~、初めて聞いたわ、あんたのそんな怯える声」
ようやく精神的優位に立てたことで、一気に気分が良くなる。どうやら私の考えは間違ってなかったようね。血を見るのが怖いのか、ウサギが傷つくのが怖いのか。いずれにせよ芳賀は強張った表情を浮かべている。チキチキと、音を立ててカッターの刃を引き上げると、見る見る顔が青ざめて行く。
「お願いですからそのようなことはおやめ下さい、で、でないとわたくし‥‥、耐えられなくなってしまいますわ」
震える声に嗜虐的な喜びを噛みしめながら、私は胸の内でほくそ笑んでいた。そうよ、そうやって泣き叫ぶ姿が見たかったのよ。ああ、いい気味だわ。もっと醜態をさらしなさい。
さぁ、これからどうしてやろうかしら。もちろんウサギを殺したりなんかしないけど、カッターで切って血を出させたら、あの子の顔に押し付けてやるわ。そうして泣き叫ぶ姿を写真に撮って、二度と男に色目を使わないよう約束させて、後はそうね‥‥、私に逆らわないよう土下座させるのもいいわね。まぁ、あんまりやりすぎると登校拒否になっちゃうかもしれないけど、そうなったらそうなったで構うもんですか。
「ずっと気に入らなかったのよ、あんたのその人をバカにした愛想笑いとかさ。男に媚び売って調子に乗ってんじゃないわよ!」
日頃の鬱憤を吐きだすように、胸の内を吐露する。気が昂ぶった私は今なら何を言っても許される様な気がしていた。
「誤解です、わたくしは何もそのような‥‥」
「ふんっ、そうやって偽善ぶってなさいよ。あんたの大好きなウサギちゃんが血塗れになっても、そんなこと言ってられる?」
ごくりと生唾を飲む音が聞こえてくる。芳賀はがたがた震える身体を両手で抱きしめ、喘息患者の様に息を荒げている。そこに日頃の澄ました様子はなく、明らかに血を見るのに怯えてる様子だった。
「お願いですからやめてください、そんなことしては取り返しのつかないことになりますよ」
「うっさい、あんたなんかがいるせいで、こんな惨めな思いをしてるんだからね!」
芳賀の哀願を一蹴して、いよいよウサギを傷つけようとカッターを振り上げる。思わぬ邪魔者は、ちょうどその時現れた。
叩きつけるような勢いで生物室のドアが開いたかと思うと、大柄な男が飛び込んできて私を心底驚かしめた。最悪のタイミングで現れた大男、森須は、いきなり怒鳴りつけてきた。
「おい、何をやってるんだ!」
野太い大声に、冷水を浴びせられたような気分になる。興奮が一気に冷め、自分の置かれた状況が極めてまずいものだとわかる。彼はカッターを振り上げた私と苦悶の表情を浮かべる芳賀を見て、事態を把握しかねてる感じだった。
「阿部‥‥さん?あんた一体何やってんだ、とにかくその危ないもの下ろせよ、‥‥なっ」
「ちょ‥‥、ち、近寄らないでよ、それ以上こっちに来たらブスっと刺すわよ!」
刺すという言葉に反応して、芳賀がびくんと身を震わせる。なんだか人質を取った犯人のような心境で、焦りが込み上げてきた。心臓の脈打つ音がやけにはっきり聞こえ、最悪なまでに居心地が悪い。そう言えばこいつ、芳賀と一緒の日直だったから、きっと探しに来たのね。でもまずいわ、森須が来るのは完全に想定外よ。芳賀だけならともかく、こいつに何やってたかをちくられでもしたら、停学ものの事態だわ。
「おい‥‥、まさかウサギ小屋を襲ったのもあんたじゃないだろうな」
「バカ、そんなことするわけないでしょ!」
と言いつつも、我ながら説得力がないと思う。この状況だけ見れば、どう見たって私が怪しいわよね。そんなこと考えてもみなかったわ。
「‥‥な、何よあんた、私に告白してきたくせに、その女の肩を持つ気?」
もはや言ってる事が支離滅裂なのはわかってるけど、引っ込みがつかなくなった私はヒステリックに叫んでしまう。
「おいおい、今そんなこと言ってる場合か?この状況じゃ止めるのが当たり前だろ。なっ、今ならまだ穏便に済ませれるから、バカなことは止めろよ」
と言いつつ、森須がこっちにすり足で近づいてくるのに気付き、慌てて後ろに下がる。
「近づかないでって言ってるでしょ、ウサギがどうなっても知らないわよ!」
しかしカッターを持つ手はブルブルと震え、今にも取り落としてしまいそう。どうしよう、あいつの言う通り、本当に刃物を捨てちゃおうか。そんな弱気な考えが頭をよぎった時、今までおとなしかったウサギが、突然ゴッと唸って暴れ出した。慌てた私は反射的に力を込めてしまい、ウサギの身体にカッターを突き刺してしまう。気持ち悪い感触と共に白い毛に血が滲み出し、ウサギはますます暴れ出す。
「いやああああぁっ!」
耐えかねたような悲鳴を上げて、芳賀はいやいやをするように激しく頭を振る。でも本当に悲鳴を上げたいのはこっちの方だった。森須は今にも飛びかかってきそうで、追い詰められた私はパニックを起こす寸前まで来ていた。ところが、飛びかかってきたのは森須の方ではなかった。
「‥‥わ、わたくし、もうっ!」
感極まったような声を上げて芳賀が掴みかかってくるのを、私は驚いたまま見つめていた。そして、これからの一生についてまわる悪夢のような出来事は、この時から始まったのだ。