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彼女と二人きりになるチャンスは、三限目前の休み時間に訪れた。何やら手違いがあったらしく、家庭科の調理実習で使う野菜を、食堂の調理場まで取りに行けと言う仕事が日直に押し付けられたのだ。普段なら面倒に思ったろうが、どんな雑用でも芳賀さんと一緒なら大歓迎だ。
問題の荷物はジャガイモや玉ねぎなど満載の段ボール箱二つ。こんなものを芳賀さんに持たせるわけにはいかねえ。二箱とも俺が引き受け、手ぶらでは逆に気を使わせると思いサヤインゲンの入った袋だけは持ってもらうことにした。廊下に出たところで気遣いの言葉をかけられ、ちょっと嬉しくなった。
「だーいじょうぶ、このくらい鍛えてるから全然平気さぁ」
安心させるために俺は、段ボール箱を軽々と持ち上げて見せる。重さは四キロ鉄アレイ二つ、三つ分ってところか。野菜四十人分は、ざっと十キロ前後とみた。
「まぁ、森須さんは本当に力持ちでいらっしゃいますのね」
柔らかな響きを持つ声と、微笑み返さずにはいられない笑みを向けられ舞い上がってしまう。彼女の笑顔が今は俺だけに向けられている。そう考えると、嬉しさが込み上げてくるではないか。HRの時の曇った表情は払拭され、今の芳賀さんは実に可愛らしい。
「へへっ、これでも中学時代には柔道の個人戦で県ベスト四まで行ったんだ。こんなニンジンやジャガイモなんて目じゃないさ」
浮かれた俺はいつもより饒舌になり、つい自慢がてらなことを言ってしまう。こういうところが女子にもてないところだとうるさい友達に指摘されたことがあるが、芳賀さんは嫌そうな顔をするどころか、本当に関心を寄せてくれる。
「凄いですのね。わたくし武道のことは存じ上げませんが、どのような習い事であれ上達には努力と修練が欠かせぬものです。森須さんは、柔道がお好きでいらっしゃいますのね」
‥‥うーわ、すっげえ嬉しい。大体こんなこと言うと、柔道バカだの他に取り柄がないだの言われるんだが、こんな風に言われたのは初めてだ。ちくしょう、次の大会ではぜひとも優勝したくなるじゃないか。
「あっ、でも、それなら芳賀さんの方がすごいか。華道では全国区で有名なんでしょ?」
「いえ、華道は表現の世界で、優劣を競うものではありません。それにわたくしはただ、華をあるべき姿に整えているに過ぎませんわ」
そう花の様な笑顔で返されると、今度は心臓がドキドキしてくる。やべえな、今顔赤くないだろうか。やっぱり芳賀さんは良いなぁ、ずっとこうやって二人きりで話していたいぜ。
ところが、そんな願いも虚しく、二階の廊下を歩いているところでお邪魔虫がやってきた。
「あ~、いたいた。美奈、trouble発生よ。今すぐ教室行ってあげて!」
ポニーテールを揺らして、慌ただしく走ってきたクラスメイトが、見事に俺の幸せタイムをぶち壊してくれる。
「何だよルーシー、今芳賀さんは俺と食材運びの仕事をだな‥」
「男子が赤味噌と白味噌のどっちが美味しいかで、くだらない論争を始めたのよ。仲裁に美奈以上の適役はないでしょ。それとも何、あんた美奈に重い物でも持たせたいの?」
そうと言われりゃ、はい、とも言えねえが、本当に下らねえ争いじゃねえか。放っておけよ、そんなの。ところが、俺が答えるより早く、ルーシーは有無を言わせぬ態度で詰め寄ってくる。
「荷物運びならあたしがやってあげるから、ほら、喧嘩になる前に行ってあげて」
「わかりましたわ、そういう次第ですので、森須さん。申し訳ございませんが、後はお願いしてもよろしいでしょうか?」
芳賀さんにお願いされては断れるはずもない。応諾の返事をすると、彼女は野菜の袋をルーシーに預け、パタパタと駆けだし行ってしまう。走る後ろ姿も可愛らしいが、その姿が廊下の角の向こうに消えてしまうと、がっくり肩を落ちる。おぉ、マイ・スイート、カムバック‥‥
「何やってんのよ。ほら、さっさと行くわよ」
俺の落胆など意に介した風もなく、幸せを踏みにじった元凶は背中をバンと叩いてくる。てっきり芳賀さんと一緒に行くかと思いきや、どうやら本当に手伝うようだ。
「ねぇ、その箱一つ貸しなさいよ、私も持ってあげるから」
「いいよ、これくらい大したことねぇ」
恨みがましく思いながらも、やはり女の子に力仕事をさせるつもりはない。荷物を持って先に歩くと、ルーシーも後からついてくる。まったく、こいつは妙に義理堅いところがあるから憎み切れないんだよな。
ルーシーこと、上杉麻里・ルーシーは、いわゆる帰国子女と言う奴だ。と言っても、こいつは純然たる日本人で、海外の血は一滴たりとも入っちゃいない。なんでも彼女の両親は貿易会社ウェステンラ・コーポレーションに勤めており、結婚直後にいきなりイギリスへ転勤。そこで生まれたルーシーは幼少期をブリストルで過ごし、その後両親ともども日本に戻ってきたらしい。セカンドネームが付いているのはそのせいで、それが彼女の呼び名として定着している。
だがそんなことより重要なのは、こいつが芳賀さんの親友だと言うことだ。小学校時代を日本人学校で過ごしたルーシーと、芳賀さんの間にどういう接点があったのかは知らないが、中学校に上がった頃には既に仲が良かったと聞いている。わからないのはそれだけでなく、性格に似通った所のない二人がどうしてうまくやっているのかも不思議でしょうがない。何しろルーシーは気が強くて、男相手でもガンガン文句を言ってくるタイプ。清楚可憐な芳賀さんとはまるで共通点が見つからない。まぁ、可愛らしい顔立ちをしてるから、こいつもそれなりに男子の間では人気があるんだが、しょせん芳賀さんと比べれば月とすっぽん。俺には引き立て役にしか見えん。その引き立て役が、思わぬ不意打ちをかましてきた。
「森須、あんたさ~、美奈のこと好きなんでしょ」
三階への階段に足をかけたところで突然こんな事を言われたもんだから、驚き余って足を踏み外しそうになった。こんなにびっくりしたのは、試合開始早々、巴投げでぶん投げられそうになった時以来だ。
「な、何言ってやがる、別に俺はそんなこと‥‥」
そんなことは大いにあるんだが、当人ならともかく、他の女子に言うのははばかれる。しらを切ろうとしてはみたが、これはさすがにバレバレだろうな。案の定ルーシーは心ないことを言ってくる。
「言っとくけど、あんたなんかに美奈は無理よ。悪いこと言わないから諦めなさい」
‥ぐっ、そりゃ釣り合わないことくらい百も承知だが、こうもはっきり言われるとムカつくなぁ。
「うるせーな、お前にそんなこと言われる筋合いはねえぞ」
「あのねぇ‥、あたしはあんたの為に親切で言ってやってんのよ。とにかく、美奈は駄目よ、いいわね」
余計なお世話もいい所だ、放っとけよ。しかし、ルーシーの不自然なまでの厳しい口調に俺は違和感を覚えていた。よもやあの噂は本当なのではあるまいな?
あまりにも二人がべったりしているせいで、まことしやかに囁かれている噂。すなわち、ルーシーと芳賀さんはレズで、二人は付き合っているのではないかと言う噂‥‥
もちろん最初聞いた時は芳賀さんへのやっかみに、どこかのバカが流した噂だろうと思っていたが、今の様子ではあながち誤解とも思えない。
‥‥いやいや、待て待て。ルーシーはどうだか知らんが、芳賀さんに限ってそんなことあるはずがない。彼女の様な大和撫子が同姓なんかを好きになるはずがない。
‥‥と理性で理解していても、なんとなく釈然としないものがある。すっかり不機嫌になった俺は、それっきりルーシーとは口を利かず、黙々と野菜運びに勤しむことにした。
◇
「うぉー、芳賀さん、すっげー早え!」
作業で賑わう家庭科室に、一際大きい森須の声が響く。何事かとつられた子達が集まる中、ジャガイモを剥く芳賀の手元で、紐でも解くかのように皮がわだかまって行く。
「すっげーな、まるでプロの料理人みたいだ」
まったく、感心の仕方がいちいちわざとらしいのよね。たかがジャガイモくらいで何はしゃいでんのよ。下心が見え見えだってわかんないのかしら。うるさい森須に辟易しつつも、私は自分の割り当て作業をこなし、まな板の上のニンジンを切って行く。あんなのは無視、あんなのは無視‥‥
「大袈裟ですわ、森須さん。家では包丁を使うこともありますので、このくらいは‥」
‥‥何それ、謙遜のつもり?気にしまいと思ってもイラッときてしまう。調子に乗られても困るけど、ああいう謙虚なふりのほうがよっぽどやらしいわ。ちょっと料理ができるからって、あんな厭味ったらしいこと言うなんて‥。あーあ、何でこんな奴らと一緒な班なんだろ。
今日の三、四限目の家庭科は調理実習。出来上がった料理がそのまま昼御飯になるから、毎回この授業は人気が高い。ちなみにメニューは、肉じゃが、味噌汁、野菜サラダ。サラダにかけるマヨネーズも手作りの予定で、卵にびっくりするほどたくさんのサラダ油を混ぜ合わせて行くのが面白いらしく、マヨネーズ作りの方も盛り上がっている。
それにしても、何だって学校の授業で料理なんかしなくちゃならないのかしら。別に料理なんかしなくったって今の世の中、お店に行けば何でも食べられるじゃない。それに、わざわざ料理なんかしなくても御飯だっておかずだって、レンジでチンするだけで何でも食べれるのよ。こんなこと覚えたって、将来たいした役に立つとは思えないわ。
「よぉし、それじゃ肉切んのは俺に任せてよ」
相変わらずの大声で、森須はトレイに入った牛肉をまな板の上にべちょっと広げる。そして明らかに料理なんかやったことない手つきで肉を押し広げ、力任せに刃を立てて行くのは素人目に見ても怖い。しかも、芳賀にいい所を見せようとでもしてるのか。必要以上に肉を細かく切り刻んでいる。
「ちょっと、あんた何やってんのよ。そんなに刻んで何作るつもり?」
見かねて口を出したのは、外人もどきの上杉だ。班が違うのに出しゃばってくるのは、私達の班に芳賀がいるからか。余計なことしないで、自分の班だけ見てればいいのよ‥‥と言いたいところだけど、あのまま放っていたらお肉がミンチになっちゃいそうだわ。
「えっ、おかしいのか?レシピには肉を切るって書いてあるじゃねえか」
「一口大に切るって書いてあんのよ。大体あんた、肉がそんな細かい肉じゃが見たことある?」
「‥‥‥ねーな」
「‥‥まったく、少しは考えて作業しなさいよ。それに、そんな包丁の使い方してたら危ないじゃない。こんな所で手、切らないでよ」
上杉より頭一つ大きい大男が言い負かされてる姿は、なかなかいい気味。森須は言い返す言葉が見つからず、そうでなくても怖い顔をますますしかめている。もしもこの二人が付き合いでもしたら、森須は尻に敷かれそうね。なんて考えていたら、芳賀が助け船を出してくる。
「麻里、そんなに責めては可哀そうですわ。森須さんは一生懸命やってくれているのですから‥‥」
途端、森須の顔がぱっと輝き、不気味なニタニタ笑いを浮かべる。まったく呆れるほど単純な男ね、ある意味羨ましいわ。上杉も呆れたように肩をすくめ、自分の作業へ戻って行く。ちょうど私もニンジンを切り終えたので、ボウルに移して次の作業を確認する為レシピに目を向けたのだが、そのほんのわずかの間に問題は起きた。
「‥‥あっつ、いってぇー!」
悲鳴じみた声に振り返ると、森須が包丁をとり落として手を押さえていた。指先から赤い血がポタポタと垂れ落ち、調理台の上にこぼれる。
あーあ、やっちゃったか。手つきが怪しいから危ないなと思っていたけど、案の定だわ。クラス中の視線が森須に集められ、先生がやれやれと言った顔で近づいてくる。ところが、本当に驚いたのはこの後だった。
「‥‥ひっ‥‥きゃああぁぁっ~!」
耳をつんざくような悲鳴に、思わずびくついてしまう。見れば口元を手で押さえた芳賀が、森須の怪我を見て目を見開いている。両手がわなわなと震えており、ショックを受けているのは明らかだ。
「美奈!」
間髪いれず上杉が覆いかぶさるように芳賀を抱きしめる。突然の悲鳴に教室がざわめきだし、クラス中に注目される中、上杉は必死で芳賀を慰めにかかっていた。
「美奈、美奈、落ち着いて。ねっ、お願い‥」
不自然なまでの上杉の過保護ぶりは、大袈裟を通り越してやり過ぎの感がある。そう言えばこの二人、百合だって噂があったけど、もしかして本当なのかしら。などと思っていると、心配そうな口ぶりから一転、森須に対してヒステリックに怒鳴りつける。
「ちょっと、このバカ、何やってんのよ!」
「ひでえな、こっちだって好きで切ったわけじゃないぞ」
と答えつつも、芳賀の動揺ぶりに森須もなんだか落ち着かない様子。誰かが差し出したティッシュで指先を押さえているが、みるみる赤く染まって行く。
「もうっ、早く保健室行きなさいよ。美奈、血は駄目なんだから、近くにいないでよ」
「別にこれくらい大した事ねえよ、それより芳賀さんが‥‥」
「いいから早く行って!」
切迫した金切り声が森須に叩きつけられる。あまりの大声に、一瞬教室が静まり返ったほどだった。その剣幕に気圧されてか、なんだか意気消沈した森須は先生にも勧められ、保健委員に付き添われて教室を後にする。怪我人がいなくなっても芳賀は動揺から立ち直れないようで、上杉の陰で震え続けていた。
「先生、この子気分が悪いみたいなんで、ちょっと休ませてきます」
芳賀の様子を見かねてか、上杉は一方的に宣言するや先生の返事も待たず、連れ立って教室を出て行ってしまう。あっという間の退出劇に、クラスで心配そうな声が囁かれる。やがて先生の号令で各自作業に戻って行き、私も次の材料を切りにかかる。でも、心の中では今の出来事を反芻していた。
‥‥ふ~ん、あの子血が駄目なんだ。
表情に出ないよう努めながらも、内心笑いが込み上げてくるのを押さえられない。
‥‥そっか、あいつ血が駄目なんだ。
危険な考えが膨れ上がるのを覚え、嗜虐的な喜びと、それに伴う不安が湧きあがってくる。今思いついたことを実行すれば、あいつを酷い目に合わせることができる。でも、それは他の人にばれたらまずいことになりかねない。ただ、やるとしたら早い方がいいわね。
次第に作戦を実行する方へと考えが傾いて行き、その誘惑に抗えなくなっていた。そうよ、あんな周りからちやほやされた奴、一度ひどい目にあえばいいんだわ。それにあいつが酷い目に会うのを望んでいるのは、私の他にもいるはずよ。ちょっと血を見た位であんな悲鳴上げるんだから、もっとひどい目にあわせてやったら、どんな反応するか楽しみだわ。
口元が歪むのを覚えたけど、もう抑えることはできなかった。心に灯った暗い炎は静かに、そして激しく勢いを増し燃え始めた。フフフ、放課後が楽しみだわ。
‥‥それはそうと、肉じゃがは誰が作るのかしら。