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A temporary stop

 昇降口で靴を突っ掛け、そのまま外に出てからかかとを整える。そうして屈んだその時、一樹の手の震えているのが目に入った。それは耐え難い何かに対する苦悶を必死に表に出さんとばかりに、制服のスラックスをぎゅっと皺が残るほど強く掴み、なおも痙攣している。

 私は眉を寄せ、立ち上がって一樹の顔を見たのだが、やや顔色が悪いかと思われる程度で目立った異変は見られなかった。手は既に力が抜いて垂らされ、思わず目の錯覚だったかと思案してしまう。それを否定するのは、ただ、アイロンがかけられてぴんと伸びたスラックスの生地の、先程まで彼の手があっただろう場所にだけ寄った不自然な皺。

 漠然とした恐怖が沸き起こる。それは不安などと表現するには甘すぎた。見逃してはならない事態が起こっているような気がした。私は勢い込んでそれを追及しようとし――そして強張った一樹の表情に制止された。彼は唇をわずかに噛み、崖を目の前にしたかのように青ざめて、ただ足を前に進めるだけのものと化していた。

 私は一樹の頼りない手にこの右手を伸ばしかけ、そしてやめた。ふと怖くなったのだ。ぎゅっと握ってやりたかったが、それは赦されない禁忌のように思えた。触れれば儚く碎けてしまう硝子の向こうの天使の手。穢れた私が触れたならば、瞬時に溶け消えてしまう。

 二人の距離は縮まりも広がりもしなかった。いかにも私が望んだ通り。

 私は黙りこくって一樹が口を開くのを待った。気休めでもいいから、大丈夫だと言って欲しかった。

 しかし彼はそんな事実などなかったかのように振る舞った。

「それでは、僕はここで」

 学校の敷地を出たところで、一樹はこう言った。何気ない一言のはずが、辺りの環境音を全て吸い取る静けさを湛えていて、妙に耳に残る。

「何か用事?」

「ええ、まあ」

 私の問いにも歯切れ悪く答えた一樹は、その後の会話を許さないと言うように、足音をひとつ固く響かせて背を向けた。喉元まで出かかった冷やかしの言葉は、呼吸ごと断ち切られた。

 ……一樹!

 名前を呼んだ、と思った。何の応えもなかったということは、きっと唇を離れなかったのだろう。それとも、彼のもとまで届かなかったのか。たった10歩の距離で?

 遠ざかっていた車の排気音が甲高いクラクションと共に真横をすり抜け、顔をしかめる。無限のように感じられた一分間。その間、不安にかられながら彼の背中を見送っていた。得体の知れない恐れが、雪よりも冷たく背筋を湿らす。そして彼は私の方を一度も振り返ることなく角を曲がり――見送るなどという気持ちの悪いことを私がするはずないと考えているだろうから、当然のことではあるのだが――見えなくなった。

 何処へ行くんだろう?

 別れ際のぎこちなさ。浮かれていたのか、昇降口に着くまでついぞ気付かなかった。

 誰かと会うのかな。

 まさか恋人と?初な一樹であれば、会う前にあんな風に固くなるのも理解できなくはないが……形容できない微細な違和感が自己主張して、釈然としない絡まった思考の玉だけが残される。

「……帰ろう」

 詮索は禁止だ。知らない方がいいこともある。疑問が首をもたげるこの瞬間、それはきっと私にとって薬ではないのだろうが、そうする他になかった。追いかけたところで、一体何て声をかけられただろう?

 踵を返し、鞄を肩にかけ直して帰路についた。足が前に進みたがらないのは、心の隙間を埋め尽くした鉛のせいか、背中にかかる教材の重みのせいかも分からなかった。


 そんな私の気も知らず、翌朝は平然と一樹を連れてきた。

「おはようございます、飛鳥」

「おはよ」

 教室で顔を会わせた私たちは、いつも通りに挨拶を交わし、いつも通りに一日を過ごした。放課後、くっつけた机の上でペンを執るその瞬間まで。

「……妙に静かですね」

 何て口火を切ったものかと悩んでいた私に、一樹が仄かに微笑みかける。金色の夕焼けに照らされた彼の横顔は、普段と変わらずに綺麗だ。

「……気のせいよ」

 昨日そうしたように、私は知らない振りをして追及を放棄した。今日の一樹はいつにも増して透明な表情をしている。まるで死に際の病人のような安らかな色が時たま過るだけ。笑っているのにそれらしくなく、悩んだ風でもそれらしく見えない。彼の瞳は私を通り越してどこか違う次元を覗いているようだった。

「そうですか。じゃあ今日は、導入から手をつけませんか?」

「……そうね」

 ほら、味気ない。

 執筆を始めれば、普段通り集中の海に深く深く沈んでいけるかと思っていた。事実、始まった途端に思考は最短距離を経由してアイデアを生み出し始めた。だが――「始め方と言ってもいろいろあるわ。主人公の少年は近所のお姉さんと一緒にお祭りに行くわけだけど、序盤で二人の関係性や祭りについてを明らかにしてもいいわよね」「……ええ、そうですね」「あとは回想の起点を持ってくるのもありだと思う。縁日の中を歩く場面を持ってくるとか、過去に二人の間に起こったこととか。私はどちらかというと、最初を意味深な文にして後から伏線を回収してくることが多いんだけど……」「まあ、隠し事は無くていいんじゃないですか……」「そうね、日常ものだし。……一樹はどんなのが思い付いた?」「僕ですか? ……ええと……特には、何も……」――言葉を交わしあえばわかる。今の彼の作品への姿勢はまるで魂が入っていない張りぼてだということが。そして、触れたところから私のそれも虚構へと変わっていくことが。

 前日に意識しなかった一時間の経過が、とてつもなく長く感じられた。

 そして私は、彼が頬杖をつく正面にペンをいきなり突き立てて言い捨てた。

「……今日は駄目ね。やめましょ、ろくに書けっこないわ」

 えっ、と息を漏らす彼の表情は、驚愕だと表現するのにわずかな躊躇いを覚えるような、薄っぺらなものだった。

「帰りましょ」

 私がそう言うと、一樹は「いや、僕は……」とか「でもまだ、……」とかもごもごと口のなかで何か呟き、形の上だけでも抗おうとしていた。しかし、私は彼の目に過った安堵を見過ごさなかった。私は言い含めるように繰り返した。

「帰りましょ。夕焼けの中を歩きたい気分なの」

 しばらくして、一樹がペンを筆箱にしまう。それが合図だった。一樹はなおも釈然としないような表情を浮かべていたが、それ以上逆らってきたりはしなかった。私たちは机上を手早く片付けると、日の沈みかけた赤い空の下を、ゆっくりと歩き始めた。

一時的な更新停滞をお詫びします。

今後も多忙によりこのようなことが起きるかもしれませんが、その時はTwitterにて進捗状況をお知らせさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします!


Twitter:@Sinon0615

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