Goodbye, Mr.Half Writer.
ピッ、ピッ、ピッ、…ピッ…、……ピ――――。
緑の波が止んだ。
風に煽られる蝋燭のような死だった。
電池の切れかけた時計の長針のように、最後に一つぎこちなく震れたのが鼓動の断末魔だった。それは長く長く引き伸ばされ、一瞬前まで潮騒の如く一定の動を示していた電子音が、途端に耳障りな永遠の静を鳴り響かせ始める。
「一月十八日、午後三時三十八分――ご臨終です」
平べったい声が意識を掠めるより先に、私は白いベッドに横たわる彼の傍に跪くと、その薄い頬に両手を添えていた。徐々に遠ざかる温もりは私の体温の陰に隠れてしまう。
「……ありがとう、一樹」
そっと口づけをした。
接いだ肌を伝った涙が、頬の曲線に従って流れると彼の瞳を浸す。それはもう開かれることのない眼瞼だ。それが瞬く下には円く人懐こい栗色の瞳があることを、わたしはよく知っていた。
夢幻泡影なこの世界で、それでも神様が死に逝く人間に最後に遺してくれるのは聴覚だという。もしも脳機能が先に潰えてしまったのなら、この声はきっと言葉ではなく雑音としか捉えられないのだろうけど、それでも言わずにはいられなかった。出逢った日から一度も告げなかった、単純で在り来たりな感謝を。
夢のような現実を、彼の死と共になかったことにしないために。
「……好きだった。大切だったの、君のことが。ずっと、ずっと……ずっと――」
――いつかは、失われるものだと解っていたけれど。
どうして言えなかったのだろう。隣に居た幾星霜、心の隅にはその感情の置き場があったことに気づいていながら、自分のちっぽけな強がりがそれを明らかにすることを拒んでいた。いや、その正体は果たして強がりか。傍に居続けたいと、このまま距離を縮めることも離すこともしたくないと願った、私自身の弱さ故だったかもしれない。
感情は淡彩で染められ、憂いも悲しみも喪失感も、果ては追憶の中の喜びも笑顔も多幸感さえ全て涙の中に沈んでいく。世界は曖昧に揺れていた。やがてシーツの白が視界を奪うと意識の裏で閃光が弾け、白濁した思考を純粋な事実が占有する。
彼は、死んだ。
それから一週間が経ち、その日も私は筆を執っていた。
『――それが全てだったのではない。最も死に近い眠りに至っただけのことだ。解毒の術も奇跡も無くした、白雪姫の毒林檎を喰らった者の運命というものは、何故こうも儚いか。掛け替えのない幻想は決して陳腐ではなかった。抗いようのない不条理こそが運命なのだ。彼はそれを知っていながら、私から奪っていった――』
もうすぐ、彼の代わりのアシスタントが配属されることになる。
私はこの新鮮で残酷な感覚を忘失する前に、彼が遺した存在の証と、その消失までの過程を綴ることにした。もちろん結論も忘れない。彼は確かに生きて死んだ。人間というのは不必要に丈夫に出来ているから、きっと薄情な私の中からいつかその失亡は消え去ってしまうだろう。それが起こり得ないことを切に願いながら、一抹の可能性のために、文字の中に彼を刻み付けるのだ。
しかし、筆の進みは芳しくなかった。
記憶の中の彼はいつだって無邪気に笑い、子供のように不貞腐れ、悪戯心のままに私をからかう。それを愛おしいと感じる度に、経験が声高に叫び、もう失われて二度と取り戻すことは叶わないと事実を叩き付けるからだった。そしてそれが連鎖的に、彼の身体から力が抜ける瞬間を想起させ、鋭い痛みを呼び覚ます。
私は情けなく嗚咽を漏らして泣き出した。声を押し殺すことも、体裁を取り繕うことも忘れて泣くことにも、慣れ始めていた。彼が居た頃はこんな風に大泣きするのが恥ずかしくてたまらなくて、寝静まった夜に布団を被ってやっと泣いたというのに、彼が亡くなった日から幾度となく涙を流している。
一人の“如月いつか”はこんなに寂しいものだったと、私はその時になって初めて気づいた。私は彼と二人でようやく“如月いつか”だったのだ。二人だった頃の如月いつかが抱いていた世界は、もはや私のものではない。あの空想を描き足してこの先も綴り続けることは不可能だ。私がこの先も作家で居続けるには、彼と培った想像を放棄するほかないかもしれない。だがそれは、これまでの六年間を委棄することと等しい。
涙が涸れて少し落ち着いた私は、苦いコーヒーを一口含むと、ふと何気なく引き出しに手をかけた。空っぽになった胸を埋める単行本か何か、入ってないかと思ったのだ。
探った指先がかさりと乾いた紙の感触にあたる。訝しく思い取り出してみれば、それは青い封筒だった。
「……こんなの、しまったっけ。誰からもらったんだろう」
裏返してみれば、封筒は小さな四つ葉のシールで留められていて、開封した痕跡は見られなかった。そしてそこに、私は信じられない文字を見つける。
『市原飛鳥さんへ』
その筆跡に私は見覚えがあった。
何度見たのか、数えるほどのことだとも思わなかった。私の傍で何かある度にメモ帳へ走らされたペン先は、このような丁寧で細い線を書いていただろう。
「――一樹、から?」
私はもらった手紙を読まずにしまうような性格をしていない。好奇心は自然に指を伸ばしていた。
始めに目に飛び込んできたのは、こんな一文だった。
『何か、お悩みでも?』