(8)
夜明け頃、ヒューに連れられてやって来たのはカイロの中心部にある建物だった。
沙漠地帯ではよく見られる岩石を材料として作られた建物には、壁面のいたるところに蔓草などを象った透かし彫りと螺鈿細工が施されている。一見富豪の持ち家だが、どうやらここがヒューの言う皇帝直属軍の拠点らしかった。
「横領していた官僚の持ち家を皇帝直属軍が接収したんです。中の家具はほとんど売り払ってしまったのですが」
ヒューは私の腕を掴みながらそう言った。その指先に然程の力は篭もっていないが、どこか抗えない雰囲気だ。
ヒューは建物の中に入ると、私を奥の一室に通した。言われた通り、そこには家具という家具はない。赤を基調とした分厚い染織を床一面に敷き、絹製のクッションが数個その上に置かれているだけだった。
入って正面の壁には、皇帝直属軍が身に着ける外套と同じ竜を刺繍した旗が掲げられていた。それを背に、ヒューはクッションの山に埋もれる様に行儀悪く胡坐を掻く。
「女性なのに大雑把ね……」
「ここは男だらけの世界ですから。私自身、実家が男ばかりでその影響を受けて育ったのもありますが――女らしさは、仇となる事も多いですからね」
ヒューは薄っすら笑う。私は居心地の悪さを感じつつ、壁に背を預けて腰を下ろした。
「さて、こうして来て頂けたということは、少しは事情を聞くつもりがあると解釈しますが」
「……それ以外の選択肢が思いつかなかっただけよ」
ここなら命の保障もされそうだし、と付け加えるとヒューは声を立てて笑った。本当は気が気ではない私を、彼女は見抜いたのだろうか。
確かに、真実を知りたいとは思う。しかしそれ以上に、知ってしまう事に対する恐ろしさがあった。何故なら真実を知ることで、私は実家の業を、更にはその責任を認めなくてはいけなくなる。私がファランドール家であること――私が今こうして生きていることが、無数の犠牲から成り立つことを。
スカートを握り締めて沈黙に耐えていると、不意に誰かが扉を叩く音が響いた。
ヒューが応じると、部下らしき軍人が入室した。どうやら込み入った話のようで、話に応じる彼女の横顔は厳しい。やがてヒューはここにいるようにとだけ私に言いつけ、青年と共に外に出てしまった。
一人部屋に取り残されたところで、安堵から私は知らず詰めていた息を吐き出す。緊張の糸が弛むと、蓄積した疲労がどっと体に染み渡った。足は震えているし、心臓は喧しく脈打っている。今の私に、真実を受け止める体勢が出来ていないことは明白だった。
◇
外は明るかった。
遺失文明と現代の建物が混在するカイロの中心部は、変わらず華やかな活気に包まれていた。ぎらぎらと耀く太陽が、雑踏の巻きおこす砂埃を照らす。とめどない人の流れを掻き分けるようにして、私は走っていた。気を抜いたらすぐにでも足を取られそうな人混みに、私の走る姿はまるで泥沼をもがくようだ。
私が今走っているその最も根本的で単純な理由は、あそこにいたくなかったからだ。真実を知る勇気が出ない。同時に、私は人混みに視線を走らせる自分にも気がついていた。
――ヨクトシア。あの夜、壁一枚を隔てて彼は私の隣に存在した。結局彼の姿を見ることは叶わなかったが、もしかしたらまだカイロに潜伏しているかもしれない。そんな淡い期待が、焦燥と共に私を駆り立てていた。
「……っ、」
不意に、前方から腕を掴まれた。
驚きと恐怖に身を強張らせる。そして視界に映ったのは、黒い兜だった。――黒い鎧兜に、黒い甲冑。雑踏の中、その出で立ちは酷く浮いていた。男に心当たりがなかった私は、すぐに彼が誰かを思い出した。ヨルガだ。クラエスと行動を共にしていた、あの喋らない甲冑姿の男。
彼は無言で私を人混みの外まで引きずっていった。そこで興味は失せたとばかりに腕を掴む手が離れる。
「ここにいたのですね」
それとほぼ同時に、背後から声をかかる。振り返った先には、仁王立ちをするヒューの姿があった。
勝手に脱け出したことを怒っているのかと思ったが、意外にも彼女は穏やかだった。しかし有無を言わせぬ態度で私の手を取り、そのまま皇帝直属軍の拠点の方角へ歩き出す。私は慌ててヨルガのいた場所を省みたが、彼の姿は忽然と消えてしまっていた。
「外に出て、何を考えていたのですか? カイロにも悪人は多いですから、気をつけてくださいね」
「……ヨクトシアがいないか、探していたのよ」
「ヨクトシア? ……ああ」
「知っているの?」
その問いに、ヒューは何故か口篭る。私は彼女が口を開くまでの間、その背中で揺れる、不思議な色合いの髪をじっと見つめていた。赤みがかった蜜色は光に透き通り、琥珀色に煌いている。
「ヨクトシアは私もよく知っています。クラエスの部下でしたから」
「……クラエスの? それってつまり、」
――そこから行き着く結論はひとつだ。
「私の記憶が確かなら、彼はアズハル高等学院在籍中に皇帝直属軍に引き抜かれました」
「彼は帝国官僚になったはずじゃ、」
「皇帝直属軍に所属していることは、原則口外してはなりません。その代わり表向きには官僚として扱われます」
ここにきて初めて知った事実だ。
嘘ではないかと疑ったが、ヒューがこんな嘘をつくメリットがある訳でもない。同時に、彼が皇帝直属軍であったことが事実として私の胸に圧し掛かってくる。――結局、実家で彼が見せた姿すらも偽りだったのだ。
「ねえ、それじゃあ。……ヨクトシアが、謀反を起こしたというのは」
「酷なことを言うようですが、事実です。彼は帝国に刃向かい、宿敵であるカナン同胞団に与した。……まあ、彼はカナンの民ですから――そもそもの信用度も低かったのですがね。それでも、クラエスは大分ショックだったようで。それを気負って、あの子は……」
そこではっと我に返ったようにヒューは言葉を切る。しかし、既にそんな部分は私の耳には入っていなかった。
誰もがヨクトシアは謀反を起こしたという。ならば、やはりそれが真実なのだろうか――少なくとも、否定する材料は無い。しかし同時に、彼の口から真実を聞かない限りはそう信じ切れない自分がいた。
「私が知らなければいけないことは、ヨクトシアにも関係があるの?」
「そうですね。実際、彼はそのことのかなり中枢にまで食い込んでいます。……知りたいですか? 彼が何をしでかしたか。貴方とどう関係するのか」
「知ったら、私はもう一度ヨクトシアに会えるの?」
ヒューは驚いたように私を振り返った。そして彼女は薄く笑う。それは貴方次第ですよ、と囁きながら。
ヒューに連れられ、私は再びあの部屋に戻った。古びた紙の地図を眼前に広げて見せられ、私は目を見張る。地図は大陸北岸を拡大した物で、それ自体は別段珍しくない。驚くべきはその精巧さ――正確な地図は市場には出回らず、国の上層部や一部の富豪が所有する物なのだ。
「遺失文明の情報をサルベージして作ったものです。大分古いものですが、まあ一般には流通していないレベルの精巧さです。カイロの位置はわかりますね?」
「ええ。ここでしょう?」
地中海に面した黒い点はアレクサンドリアだろう。そこを頼りにカイロの位置を指差すと、ヒューは頷いた。彼女は地図を壁に広げると、カイロの位置にピンを刺し、腕組みをして私を振り返く。その姿は軍人と言うよりはまるで教師だ。
「カイロ一帯は、かつてカナンの民の居住地であったと言われます。これが現在で言うロストコーナーであったかは定かではありませ。しかし実際、彼らの多くは今でもカイロ周辺に散在して留まっている。この理由がわかりますか?」
「ナイル川の存在?」
「そうですね。過酷な沙漠の中で、ナイルの定期的な氾濫は比類なき恩恵を大地に与えます。しかし根本的理由はそうではない。……ここにはね、彼らの神がいるのですよ」
私をまっすぐに見抜く眸は理知に富み、嘘を言っているようには思えない。
「……神?」
「彼らは神に名前をつけて、ドヴッジャイラ、と呼び習わしています」
聞き覚えのある単語に、慌てて記憶を手繰りよせる。そしてそれは、ヒューを目の前にしてすぐに蘇った。
『ドヴッジャイラという沙漠の魔物をご存知ですか』
――そうだ、クラエスの夜旅の物語りだ。
沙漠の魔物。クラエスのくだらない作り話が、何故今ヒューの口から出てくるのか。私の反応が意外だったらしく、ヒュー首を傾げた。
「ご存知でしたか?」
「以前にクラエスが喋っていたわ。沙漠の魔物って」
「ああ……。あの子が言いそうなことです。沙漠の魔物。あながち、その表現は間違いではありませんね。カナンの民にとってドヴッジャイラは神ですが、我々にとっては災厄の主でしかない」
見上げたヒューの表情は硬かった。
彼女は指に持ったピンを弄び、おもむろにそれを地図の一点に刺す。そこはカイロから少し離れた、何の変哲も無い砂漠だ。しかし何か意味があるらしく、ヒューはじっとその場所を見つめている。
「歴史学の復習をしましょう。カイロ郊外で起きた事件といえば、何がありますか?」
「十年前の、遺構爆発事件?」
「そうですね。正確にはファランドール家所有の遺構第二〇二で起きた遺失技術暴走事故。その場にいた軍部およびファランドール家の研究員・技術者二十四名が全員死亡した痛ましい事故です」
「っ、……私の家が所有していたものだったのね」
「ええ。今でもそうですよ」
「でも、そうだとしても。それがカナンの民にどう関係するの?」
私の声は自覚できるほどに震えていた。
胸が痛いほどに脈動を打ち、私はヒューの顔から目を逸らすことができなかった。何故ここでファランドール家が出てくるのか――少しずつ姿を見せ始めた物事の本質が、私を容赦なく動揺に誘う。
「ドヴッジャイラは、本来とある遺失技術の産物なのです。そしてかの遺構には、その技術を保存する施設と」
――ドヴッジャイラそのものが安置されている。
カナンの民はそれを復興の象徴として、ドヴッジャイラを再び手中に収めようとしている。そう、ヒューは言葉を続けた。
私はその間、何も言うことができなかった。彼女の話す内容が、あまりにも現実からかけ離れているのもある。同時に、ファランドール家がここに来て関わり始めた事に対する驚きも大きかった。
「……それじゃあ、私は」
「ユリアナさん? 大丈夫ですか。顔色が……」
ヒューの手が私の額に添えられる。冷たい体温に、私は目を細めた。少し体調が悪いようにも思えたが、そんなことを気にかけている場合でもなく私は首を振った。しかしヒューはそれを許さず、嗜めるように私の額を指で弾いた。
「時間が無いって言っていたじゃない」
「無いからこそですよ。無理をしては後に響きますから」
そう言ったヒューの笑みは、見間違えるほどにクラエスに似ていた。