(7)
それから、どれくらいの時が経ったのだろうか。
夜が明けきらぬうちに、周囲が俄かに騒がしくなった。訝しく思っていると、どん、と下階から突き上げられるような振動が響く。ついで慌しく誰かが廊下を駆けてきたと思えば、乱暴に扉を開け放ったのはイカルガだった。
「帝国軍の馬鹿が襲撃してきた。まったく、一個小隊も揃えずにね」
イカルガは裾の長い外套を翻し、ナイフで私の縄をざっくりと切った。
「馬鹿って。……もしかして」
「僕らのところに来たあの馬鹿だよ。あーもう、これだから皇帝直属軍って破天荒が多くて嫌いなんだ。ほら、ユリアナ。行くよ」
問答無用に腕を取られ、私たちは走り出した。
イカルガが言ったのは、きっとクラエスのことだろう。こうした今となっては、彼が訪れたということに複雑な胸中だ。
イカルガは逃げるのかと思えば、そのまま私を連れて廃屋の下階まで駆け下りた。黎明にもまだ時を少し残した頃合、あたりは青い闇に落ちている。そして視界に入ったのは、僅かな光に照らされた、床に転がる無数の瓦礫だった。
「やあ、お久しぶりですね。とは言っても、そんな日数は経っていないですが」
――響いた声は、甘やかな。
腰帯に吊り下げたカンテラで、その白金色の髪が淡い橙色に染め上がっている。――クラエスだ。彼は半月刀を片手に、無数の瓦礫と砂埃の中に佇んでいた。その光景とあの震動から推察するに、封鎖されていた廃屋の入り口を爆薬あたりで吹き飛ばしたようだった。
クラエスは私に一瞥をくれると、すぐに無機質な双眸で奥の一点を見やった。その視線の先にはハルがいる。彼は気難しげな表情で、腕組みをしながら佇んでいた。
「皇帝直属軍――相変わらずの気狂い揃いだな。とんだ礼儀知らずのようだが、帝国人なら訪問は夕方以降にしろってのは習わなかったのか?」
「それは失礼しました。私は英国出身でしてね。この国の慣習については、不勉強な面が多々あるのですよ」
「はっ、尻尾を振るばかりの皇帝の狗がよく言えたものだな」
ハルは忌々しげに言った。
二人が会話している間に、私は何とか混乱を鎮めることができた。つまりクラエスは、私を取り返すためにここに来たのだ、多分。
周囲をそっと窺うと、ここにはハルとクラエス、そして私とイカルガしかいない。他のカナンの民はどこかに行ってしまったようだった。ひっそりと静まり返る廃屋は夜の静寂に溶け込んでいたが、この場に満ちる空気は不穏そのものだ。
さて、どうしたものだろう。こんな状況だが、クラエスに助けを求めるのもおかしい気がする――私を帝都に連行して死刑にしようと目論むクラエスと、私を何らかの理由で利用しようとするハル。まったくもって嬉しくない板挟みだ。そしてよく考えるに、私にどちらかを選ぶ権利があるかどうかも不明だ。
「……ま、どうでもいいけどさ。皇帝直属軍、君は僕らとお喋りをするつもりでここに来たわけじゃないだろう? それも単独でさ」
「ああ、そうでした。忘れていました。そこの仏頂面のいけ好かない小娘を返却して頂きたいのですが」
「随分余裕だね? 君たちはこの子に死なれちゃ困るだろう?」
僕らはどちらでも良いんだけどね、とイカルガが笑む。
その瞬間ひやりとした冷たさが、私の首に触れる。ひゅう、と喉から口へと空気が抜けた。イカルガによって、私は刃物を喉元に突きつけられていた。
急激に差し迫った命の危機に、私は目に見えて狼狽してしまった。冷や汗がどっと背を流れる。指先まで、体の全神経が凍りついてしまったような心地だった。
「それは脅迫ですか?」
「それ以外の何だって言うの? いくら皇帝直属軍でもこの子を殺されたら困るでしょう。彼女のお家は、君たちの大事なスポンサーだもんね」
怯むことなく言うイカルガは、自分の優位を確信したようだった。同時に、その言葉に私は急速に平静を取り戻す。そうか、と妙に納得した。
彼女がここに私を連れてきたのはそういう目的だったらしい。とんでもない物扱いに、私自身よりもその付加価値のほうが重要視されていることを悟る。
「おや。正直、ファランドール家は我々にとってそう重要な物ではないのですよ。我々を拘束するのはあくまでも皇帝のみ。そして今、少なくともその利害のために私は動いている訳ではありません」
しかし、沈黙を裂いたクラエスの声は少し予想からは外れていた。
「私はあくまで、そこのユリアナに用があるのです。ファランドールの娘ではなく」
「ふうん? どちらにしろ、君にとってこの子が殺されて困るのに、変わりは無いんだよね?」
「そうですねえ……」
そこでクラエスは考え込んでしまった。実際に考えこんでしまったのか、それがクラエスの意地悪だったのかはわからない。次の瞬間には、膠着したかに思えたこの状況が変わってしまったからだった。
初めに反応したのはイカルガだった。私に突きつけていた刃先が一瞬大きく震えたかと思うと、あっという間に刃物は彼女の手を離れ地面に落ちてしまった。驚いて彼女を見やると、その視線は一点に固定されている。
ここにいる誰のものでもない、瓦礫を踏む足音が響く。同時に特徴的な、鎧が揺れたときの金属の擦り合う音。
「……どうして」
呆然とイカルガが囁いた。
暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がったのは人影だった。クラエスが派手に開けた大穴を通って、誰かが建物の中に入ってくる。
冴え冴えとした風が吹き抜けて、その人が身につけた外套が大きく煽られる――そして視界に映ったのは、その裏側に施された、翼竜の刺繍だった。
「こんにちは」
朗々と闇に通るのは、流暢なアラビア語の女の声。
そう、そこにいるのは女性だった。赤みがかった蜜色の髪を高く結い上げ、漆黒の軍服を身にまとい、瓦礫を踏んで佇んでいる。彼女は淡青色の瞳であたりを見回すと、嫣然と微笑んで見せた。
「随分無秩序な空間ですね。それにこの面子。……貴方達は、十年前の再演でもされるつもりですか?」
ここにいる全員の視線を一身に受け、女性は淡々と言った。
その言葉に最初に反応したのはハルだった。彼女のことを知っているらしく、忌々しげに彼はその女性をねめつける。
「珍しい顔を見たものだな。宿命の女がここまでおいでとは、一体全体、何の用だ?」
「嫌われたものですね。私たちは正規の軍隊ではありませんし、別に貴方がたを捕らえにきた訳ではありませんよ。ただ少し、この場を調停しようと思いまして」
そこでふと、女性は視線をずらした。その焦点が絞られたのは――――私、だった。
「私こと皇帝直属軍の当代頭目の権限で、そこのファランドールのお嬢さんを私の保護下に。カナン同胞団、それからそこの馬鹿クラエス。この決定に対する邪魔立ては命がないと思いなさい」
半月刀を抜いた女性は、周囲の視線を一身に受け、それでも臆することなく朗々と声を張った。
同時に、そこで初めてその背後にいた鎧姿の男達が存在感を露にした。槍の先端が一斉に地面へと打ち付けられる。極限まで張りつめた空気が、ぶるっと打ち震えた瞬間だった。
「ちっ、分が悪いな……。おいイカルガ、とっととずらかるぞ」
「……ああ、うん。そうだね」
ハルの言葉に我に返り、イカルガは答えた。しかしその声も、心そこにあらずという感じで覇気がない。この女性相手に私を脅迫材料に使うつもりはないらしく、イカルガはハルと共に、廃屋のどこかへと消えてしまった。
「地下水路を移動手段にしているのですよ。古代のものと合わせると、数が膨大で我々には把握し切れていませんから」
淡々とクラエスは言うと、重苦しい溜め息を吐いた。
彼は自分の後方に立っている女性を振り返ると、どこか気まずそうに肩を竦めた。そんな彼の挙動を見るのは初めてのことで、少し面を食らってしまう。
「クラエス。貴方の勝手気ままっぷりは私としてもよく知ったものですが」
「失礼。ヒュー、私は他にやることがありますので」
「今度は何を企んでいるのですか、クラエス……」
「命令には違反していませんよ。私はあくまでも“貴方側”ですから。ただ少し今回は、思うところがありまして」
クラエスの硬い声音に、ヒューと呼ばれた女性は呆れたように息衝いた。
そのまま彼女の横を通り過ぎ、クラエスは夜の闇の中へと姿を消してしまう。ヒューは特にそれを止めるわけでもなく、その後姿を見送っていた。やがてヒューは私へと向き直ると、長い髪を風に揺らしながら歩み寄ってくる。
「ユリアナ・ファランドールさんですね」
「……ええ」
「色々思うところがあると思いますが、今は私について来てくださると助かります。カイロには皇帝直属軍の拠点がありますから、まずはそこに向かいましょう。それから諸々の事情をお話いたします」
淡青色の瞳が、じっと私を見下ろしていた。
この女性が、皇帝直属軍の頭目だと言う。イカルガに手酷く裏切られたばかりだから、私の心にはヒューが本当に信頼に値する人間だということがわからなかった。疑念ばかりが胸の中で沸き起こる。
しかし、微かな誘惑が起こるのも確かだった。本当ならば、彼女は私が今まで知ることの無かった、私が渦中にいる理由を話してくれるのだろう。――しかし、それは本当に私の知りたいことなのだろうか。それを知ってしまったら、私は……。
「……私は、学院に帰れるの?」
「それは―――」
「嫌よ。私はこれ以上、こんなことに巻き込まれたくはないわ。どうせ家のことなのでしょう。家のことなんて、私には」
「……貴方がそう思うのも最もでしょうね。貴方はまだ子供です。本来ならば、何らかの庇護下にあるべき存在ですから。……けれども、ユリアナさん。貴方はもう一人で苦いものを飲み下さなければならぬ時がやってきてしまったのです。同世代のどんな少女よりも早く」
ヒューは私の手を取った。手袋に覆われた彼女の手には、人らしい温もりが宿っている。
「嫌よ。私には何も関係がない。子供のままでいいわ、私は普通でいたいのよ。家もカナンも関係ないわ。こんなことに巻き込まれたくなんてなかった!」
ファランドール家であることは、常に私に劣等感を植え付けた。この生家を、後ろめたくは思えども一体誰が誇れるのか。だからこそ私は自分を取り巻く環境に目を瞑り、真実から目を逸らし続けてきた。
「……落ち着いて。戻って、ゆっくりと話をいたしましょう。時はそれほど残されていませんが」