(5)
とろとろと微睡みに沈みかけていた頃、私はイカルガに叩き起こされた。
重い瞼を押し開き、見やった窓の向こうには白茶けた夜明けの空。異変に気づいたのはその一瞬後だった。外に面した扉が強く叩かれている。イカルガは無言で私にクローゼットの中に隠れるように指し示した。困惑に私は目を瞬き、数拍遅れて現状に気づく。――クラエスかヨルガが来たのだ。
私が後方のクローゼットに隠れるのを確認し、イカルガは適当な返事をしながら扉を開けた。私はその光景をクローゼットの隙間から覗く。
果たして、扉の向こうにいたのはクラエスだった。彼の白金色の髪が朝焼けの光にきらきらと耀いている。
「こんな朝早くからお出でなんで、少し非常識じゃないかな? ……帝国軍人さん」
「ああ、すみません。急用でしたので、あまり時間を気にする余裕がなかったのですよ」
イカルガの言葉に、クラエスはやんわりと笑んだ。
「それで? 何の用かな。僕、帝国軍人さんが来るほどはっちゃけた事をした記憶は無いんだけど。人頭税だってきっちり納めているし、見ての通りの品行方正の学生だよ」
「それは失礼。しかし、昨晩……貴方が少女を連れていたという話をここらの浮浪者から聞いたのですよ」
「何の話かな? まったく心当たりのない言いがかりだよ」
イカルガは飄々とした態度で、クラエスの言葉を流していた。対するクラエスも動じる様子は無く、二人を遠目に見る私だけがひどく緊張しているようだった。ぎゅっと握った手には汗が滲んで、心臓は先ほどからうるさく拍動を打つ。できるだけ息を殺しながら、私は彼らの会話の行く末を見守った。
「黒髪で、青い目の少女です。ご存知ないですか? 貴方が匿っていると思うのですが」
「そんな容姿、このカイロにはごろごろといるよ。それに僕みたいな地位の低い移民が、わざわざ厄介事を抱え込む訳無いじゃないか」
「……そうですね。どうやら、私の勘違いだったようです」
クラエスは瞳を伏せて、何事かを思案している。しかしそれも一瞬で、次の瞬間彼はあっさりとそう言ってのけたのだった。先日のような強硬手段に出ることもなく、クラエスは本当にそのまま身を引いて去ってしまった。
「まったくあいつらの情報は早いね」
私がクローゼットの中から出ると、イカルガは吐き捨てるようにそう言った。
昨日の今日だ。ここまで早く居場所を突き止めるとはイカルガも思っていなかったらしい。彼女は腕を伸ばしながら、ふわ、と大きな欠伸をこぼした。
それから彼女は私がいたクローゼットの中をごそごそと漁り始めた。ぽいぽいと手に掴んだものを外に放り出しては、それらを物色する。
「はい。そのまま外に出るのも心もとないからね。僕と君は体格も身長も似ているし、着れなくは無いと思う」
「つまり、変装?」
「そういうこと」
手渡されたのはイカルガの衣服と布地だった。木綿製の長衣に、髪を隠すための白い麻布。長衣はゆったりした形の衣服だから、私でも問題なく着られそうだ。
「時間がない。人通りが多いうちに目的地に向かうよ。だから早く着替えて」
「目的地って」
「昨日言ってた移民ブローカーのところだよ。ああ、心配しないで。ちゃんと合法的なところだから」
そう言ったイカルガに頷きを返す。クラエスが何を考えているかはわからないが、居場所を突き止められたからには悠長に構えている時間はないだろう。言われた通りに衣服に着替え、私はイカルガと共にカイロの街中へと飛び出した。
◇
カイロの街並みは整然としているようで、一度路地に入ると迷い込みやすい。大昔都市計画に沿って都市が整備された後に、市民が日射を避けるために複雑に折れ曲がった道を作ったからだそうだ。特にこのあたりの地域はそれが顕著で、もと来た道を戻れといわれても私には不可能なくらいには迷路と化している――周囲の澱んだ空気を感じながら、私はそんなことを考えた。先導するイカルガの足取りに迷いはなく、その上かなり早足だ。
「ねえ、イカルガ」
その小さな背を必死で追いかけながら、私はふと浮かんだ疑問を口にした。
「どうして貴方は私を助けようとしてくれるの?」
「言ったじゃないか。僕は帝国軍が心底嫌いなんだ。だからあいつらの思惑は出し抜いてやりたいし、君のような境遇は助けてあげたいだけさ」
「……そう」
その言葉はきっと本当なのだろう。そうでなければ、私のような厄介な境遇を助けようとは思わない。
その巡り会わせに素直に私は感謝する。そして言葉を続けようと口を開いた瞬間、ふと、前方のイカルガが足を止めた。
気がつけば、路地の少し開けた場所に出ていた。イカルガが私を振り返る――その翡翠色の瞳が、悪戯っぽく耀いていた。その視線が絡んだ瞬間、私に芽生えたのは僅かな疑念。
「そうだね、ユリアナ。……君はとても純粋で良い子だ。だから僕も助けてあげたいと思うよ。思うけどね」
イカルガの声は淡々としていた。
ふと、背後で複数の足音が聞こえる。咄嗟に振り返ると、いつのまにか、私たちは屈強な男達の集団に囲まれていた。彼らは先日隊商宿近くで見かけた青年のように、原色を多用した独特の紋様の装飾品を身につけている。違う点を上げるならば、各々が片手に得物を持っていること、だろうか。
――どうして、と声もなく私は囁いた。イカルガが応えるように、微かに笑う。
「残念ながら、僕はとても悪い人間だったんだ」
思考が弾けて真っ白になる――それから、ああ騙されたのか、と私の頭はひどく冷静に現状を分析した。
「さあてユリアナ、君はカナン同胞団の存在は知っているかな?」
イカルガは周囲の男達に臆するでもなく、世間話をするように私に言った。彼女は端から私の答えは期待していないらしく、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「帝国史のおさらいだ。今はロストコーナーと呼ばれる大昔の彼らの故郷に、帝国の建国乙女ハディージャが侵攻し、彼らから土地を奪った。そこから彼らの迫害と弾圧の歴史は始まるんだ。流浪を強いられる中、それでも彼らは帝国に抗い続けた。カナン同胞団はその最たるもので、ロストコーナーの奪取を目的としている。――ま、端的に言うと彼らはテロリスト……それも過激なね。あっ、そんな怖い目で見ないでよ」
イカルガはおどけたように周囲の男達に言う。
その様子に私は違和感を抱く。これでは、まるで私たちを取り囲むこの男達がカナン同胞団そのもののようだ。イカルガは私の考えを見透かしたように、悪戯っぽく目を細めた。
「うん。彼らがカナン同胞団だよ。……一応言うけど、嘘は言っていない。彼らは移民ブローカーでもあるからね。あっ、でも、違法だからやっぱり嘘になっちゃうね。彼らは同胞団の活動資金をこうした闇の生業から得ているんだよ」
「随分、詳しいのね」
もう何を言ったらよいかわからなくて、私は乾いた声で言った。
こうして取り囲まれている限り、私に逃げ出すことはできない。その気力すら、私にはもうあまり残っていなかった――イカルガに裏切られたことが、自分にも意外なくらいにショックだったらしい。それとも、あまりにも日常からかけ離れたことが起き過ぎたせいだろうか。
「……じゃ、行こうか。僕らのアジトに」
溌剌とした笑みを浮かべ、イカルガはあっけらかんと言った。
「かくいう僕も、一応カナン同胞団の一員なんだ。ま、契約社員みたいなもんだけど」
男達に両脇からがっちりと拘束され、口も布で塞がれてしまう。こんな真っ昼間から堂々とよくやると思ったが、周囲に私達以外の人影なんてそもそも無かったのだ。
イカルガが先導してたどり着いたのは、荒廃した街並みの中にあるひとつの建物だった。一見何の変哲もない、砂の吹き付けられた廃屋。周辺民にも忘れ去られているようなこれこそが、カナン同胞団のアジトらしい。もっとこそこそしていそうなものだが、イカルガ達は堂々とその建物の中に入った。
「さて、我らが頭領は起きているかな」
ずるずると引きずられるように、廃屋の奥へと連れて行かれる。奥にはカナンの民が老若男女、ひしめき合うように大勢座っていた。あっという間に不躾な視線に晒され、私は顔を歪める。
その視線から逃れるように前を向く。視界に入ったのは、無骨な壁に垂れかけた大きな織物だった。蔓草模様を中心として、綿密な刺繍を施したタペストリーだ。目を引くのはやはりその独特な色使いで、様々な原色が入り乱れている。
そのタペストリーの前に、一人の男がいた。総白髪と褐色の皮膚に刻まれた皺は年を窺わせたが、顔つきは精悍で、鍛え上げられた肉体は衰えを感じさせない。紫色の双眸は生気に満ち、こちらを値踏みするようにねめつけていた。
「連れて来たのか、イカルガ」
「うん。長お待ちかねのね」
イカルガは私の一歩前に立っていた。そのくだけた言葉を窘めるよう、若いカナンの民の一人がイカルガを睨みつける。
「でもちょっとやばいことに、帝国軍に突き止められたかも。このアジトがばれるのも時間の問題だと思う」
「……かまわない。ここは破棄する予定だったからな」
男は眉ひとつ動かさない。
この男が、カナン同胞団の頂点なのだろうか。その言葉の一つ一つが、周囲に打ち震えるような緊張感を与えていた。やがて男はこの国では珍しい紫の双眸を、ゆっくりと私に向けた。
「ユリアナ・ファランドール」
男が私の名を呼んだことに、困惑が胸を満たす。この雰囲気から考えるに、人身売買だとか、そういった次元の話ではなさそうだ。
「私はカナン同胞団のリーダーであり、カナンの族長でもあるハルだ。今日はこんな手荒い真似をしたが、ここから先の話はできるだけ穏便にしたい、というのが私の気持ちだ。……率直に言おう。君には、私たちの活動を手伝ってもらいたい」
私は状況を呑みこめないまま、目を瞬いた。
活動を手伝うとはつまり、私に彼らのテロリストのような行いをしろということだろうか。それでは本当に犯罪者になってしまう――その瞬間、私が思ったのはそんなことだった。
口を塞いでいた布が外され、床に落ちる。腕は拘束されたままだが、それは確かに私に意思表示が許された瞬間だった。私はハルの紫色の双眸を凝視し、何を言うべきかを考える。
「……どういう意味なの」
ようやく搾り出せたのは、そんな一言だけだった。ハルが微かに笑う。
「言葉の通りだ。我々はロストコーナーの奪還を目指している。そのために必要なことがある。それを君に手伝って欲しいということだ」
「どうしてそんなものにっ、私が協力しなくてはいけないのよ!」
「君がファランドール家の後継だからだ」
私は息を呑んだ。彼の申し出自体が理解不能のものだったのに、それがあまりにも予想の範疇を越えた言葉だったからだ。
ハル自身は己の言葉に何の疑いも持っていないようだった。私は何かを言おうとしたが、口からは空気が抜けるばかりだ。それでも散逸した思考を必死にまとめると、私はなんとかハルに対して言葉で噛みつく。
「ファランドール家の後継は私の兄よ。立派な嫡男の、イェルド・ファランドール! 私は家には関係がないわ。どうしてこんなこと……っ」
「知らないのか? ファランドール家の跡継ぎは長兄が死亡した後に、ユリアナ・ファランドールに指定されている。この界隈では有名な話だ」
「嘘よ。そんな話、聞いたことがないわ!」
私の兄は妾腹でもないし、れっきとしたファランドール家の跡継ぎだ。そのはずなのに、ハルはただ意地の悪そうな笑みを浮かべるだけだった。
カナンの民の言うことなど、信じるべきではない。そう思うはずなのに、どうしてか私の中には疑念が沸き起こり始めた。本来の跡継ぎである兄が死んだ時の記憶はない。しかしそれ以降、昔は優しかったもう一人の兄が――イェルドが、私に冷たく当たるようになったのはどうしてなのだろう。よくある不和だと思っていた。しかしもしハルが言ったことが本当ならば、その真相は――?
私は首を振ると、その思考を打ち消した。私が本当に跡継ぎならば、それ相応の教育をされているはずだ。だからハルの言っていることは嘘だ。
「信じようと信じまいと、我々には関係がない。ただ君の協力が我々には不可欠だ」
「私を使って何をしようとしているの? 仮に私が跡継ぎであったとしても、貴方たちの空想ごときを手伝うような力も意思も何もないわ」
その言葉に、ハルは目を眇めた。
周囲の緊張感が張りつめる。私に向けられる視線が急速に棘を帯び、帝国人風情が、と誰かが唾と共に吐き捨てた。
「空想か。そう捉えられても仕方ないほどに、我々と帝国の歴史も古くなった。しかしロストコーナーが我々の誇りであることは今も変わっていない。神が我々に与えたもうた最大の恵みの地」
「……それがどこにあるかもわからないのに、よく言うわね」
ロストコーナー。忘れ去られた大地。
随分昔に、気になって教師に問いかけたことがあったのだ。ロストコーナーはどこにあるのかと。教師は首を振って、それは誰も分からないと言った。数ある文献にも地図にも記されぬ、忘れ去られた大地。そんなものを追い求めるのは、やはり幻想ではないのか。
「まあ、今ロストコーナーについてぐだぐだ話しても意味は無いんじゃない? 君は帝国人で彼らはカナンの民、どうやっても埋められない溝はある。相互理解なんて不可能さ。……だからね、ユリアナ。僕らが聞きたいのはただ一つだ。僕らに協力するかしないか」
イカルガは、軽い調子で口を挟んだ。しかしその内容は移民という立場だからこそ、正確に私たちの関係を捉えているようだった。
「……しないわ。したくなんてない」
「あっそう。残念ながら、どちらを答えても結果は一つなんだ。待遇は変わるんだけどね」
どうせそんなものだと思っていた――それでも抗ったのは、ちっぽけなプライド故だった。カナンの民などに協力して、本当の意味で罪人にはなりたくなかったのだ。その返答が、たとえ自分自身を窮地に追い詰めても。