A Pale View of Hills
さらに数年後。
「ユ・リ・ウ・スっっ!」
背後からがばっと勢いよく抱きつかれ、ユリウスはあやうく手元の本を落としかけた。
椅子に座ったまま、首だけを動かして突然の襲撃者を確認する。――オズワルドだ。大学寮でも同室の青年は、そばかすの散らばる顔に、心底愉快そうな笑みを浮かべている。
「オズワルド、ここは図書館だよ。あまり大声を出すと司書さんに追い出されるじゃないか」
「ああ、ごめんごめん。研究室にこもりっきりのユリウス君を珍しく見かけたからさ、つい」
そそくさと自分から離れたオズワルドは、どかっとユリウスの隣の席に腰を降ろした。
まるで悪びれた様子のない彼に目を眇めつつも、ユリウスは小さな溜息をこぼして本を閉じた。革張りの表紙に目を留めたオズワルドが、珍しいもの読んでんじゃん、と一応は声量を落として囁きかけてくる。
「目についただけだよ。暇つぶしに読んでただけ」
「暇つぶしに拷問大全って、そりゃ悪趣味だな……」
「そういうオズワルドを図書館で見るのも珍しい。君は遊び呆けているとばかり」
ばら色の唇を尖らせ、ふん、とユリウスは鼻を鳴らした。ちらりと一瞥したオズワルドの黒いローブの下では、金釦の輝くベストが覗いていた。ごく僅かな、成績優秀者にだけ着用が許されるものだ。
もちろんユリウスも同じものを身に着けていたけれど、真面目に研究に没頭する彼とは対照的に、オズワルドは賭け事や女遊びに熱中している。みるからに素行不良な青年であるのに、それでいて政治学への造詣の深さは他の追随を許さず、その頭の回転の速さはユリウスですら舌を巻くほどだ。――不公平だな、とユリウスは劣等感を煽られずにはいられない。
「俺はレポートの資料探しだよ。現代歴史学のあのクソ教授、筆記試験だけじゃ単位をくれねーんだよ。まったく融通が利かねえ」
「ふうん。まあ君は少しくらい、不自由に拘束されたほうがいいよ」
「うるせー」
ここは王都唯一の最高学府にして、国内最高峰の研究機関だ――学生側とてある程度の知識は既に吸収しているので、講義のほとんどは討論形式で進行される。ゆえにあまり課題というのも課されないので、学生はのびのびと自分の研究に没頭していることが多い。
オズワルドは不満そうな顔つきのまま、樫の円卓に埋めこまれた電子端末に手を伸ばした。電子端末は学内の知を網羅する蜘蛛の巣に繋がっており、アクセス制限はつくものの、学生も比較的自由に利用できる。オズワルドは慣れた手つきで学籍番号を入力し、指紋認証を済ませると、今度はなにごとかを検索しはじめた。
「レポートの題目はなんなの? 現代歴史学なら国外情勢とか?」
「それだったら俺も苦労してねぇっつうの。今世紀に入ってからの重要人物について報告しろってさ。ま、もう当たりはつけてんだけど――」
オズワルドが検索項に入力したのは、『ユリアナ・ファランドール』。女好きのオズワルドらしい選択だな、と思うものの、ユリウスはさほどの興味を注がれない。
「ファランドール……ファランドール財団? 設立者の名前?」
「ばっか、財団もそうだけど、一昔前ならファランドールといえば武器商だろ。“帝国”の、な」
お前そんなことも知らないのかよ、とオズワルドがからかいの眼差しを向ける。
知らない――と、こればかりは素直にユリウスも頷いた。ファランドール財団は帝国を拠点とし、資金難に苦しむ子どもたちに学費や生活費の出資を行っている団体だ。その前身がファランドール一族なんだよ、とオズワルドは説明してくれる。
「ファランドール家は、ひとくくりに言っちまうと技術屋集団だな。もちろん血縁を基礎とはしているが、それだけには留まらない。昔はたくさんの研究者を抱えて、遺構からの遺失技術のサルベージ、そしてその技術を兵器開発へと転用してたんだ。そりゃあ馬鹿みてえに儲けてたって話だ」
「ふうん。じゃあこの“ユリアナ”も、その関係者なんだ」
「関係者つーか、当事者だな。ユリアナ・ファランドールはファランドール家が武器商であった最後の代だ。ファランドールの版図を国外にまで広めた経営者としての面、そして優秀な技術屋としての面、ファランドールの歴代当主の中でも一際優秀だったらしい」
けれど――、とオズワルドは声を潜めた。
「“死の商人”としてこの女はよくもわるくも有名だった。魔女とか女狐とか、散々なあだ名がついてたらしいんだが――まあ、話はそれだけじゃない。こいつが“重要人物”なのは……」
帝国内の遺構機能を凍結させたからだよ、とオズワルドは続けた。
その簡潔な一言で、多少は優秀だと自負しているユリウスの頭は答えを理解した。ユリウスがこの世に生を受けた年に起こった、世界をゆるがす出来事。
“帝国”ことガザーラ・ハディージャ帝国連邦に存在する、ほとんどの産業遺構が機能を停止したのだ。同時に各地に残る遺失技術の情報のほとんどが破棄され、遺失技術にその繁栄を依拠していた帝国は大きな打撃を受けた。
帝国からは大陸ひとつと海を隔てた英国ではその憂き目に遭うことはなかったが、帝国は当時最大の国家だ。そしてその帝国を最大たらしめていたのが、軍事力――遺失技術の喪失によって、帝国の牙は根こそぎ奪われた。
それから二十年弱。帝国はみるからに衰退し、世界の勢力均衡は変わった。徹底的な侵略戦争を繰りかえす、狂血王ことアンヘル七世が治めるカスティージャ王国。そしてユリウスが住まう、女王ジュリアナが治めるイングランド。現在はこの二国が世界の覇権を握っている。
「ふうん……。そりゃ凄いね。たったひとりで、世界が変わっちゃうなんて」
ユリウスが感想を述べる横で、オズワルドは行き当たった情報ページを開いた。
ユリアナ・ファランドールの略歴がつらつらと並ぶなか、一枚の顔写真が載せられていた。遠くから隠し撮りでもされたのか、あまり鮮明ではない――しかし彼女の容貌を確かめるには、十分な写真。
「……っ、」
どこかでの会談の風景だろうか――その女性は、椅子から立ち上がろうとしている場面だった。
女性にしては短く切られた黒い髪、抜けるように白い真珠色の肌。世界を変えたにしては、あまりにも若く、華奢な体つき。そして挑戦的に撮影者を見やる深海色の瞳が視界にはいったとたん、ユリウスはすべての言葉を失った。
(なんだろう、これは……)
初めて見たはずなのに、まるでそうは感じられない。――鏡でも見ているような心地。
「へぇ、噂通りの美人だな。ちょっとユリウスに似てねぇか?」
軽い冗談として投げかけられたオズワルドの言葉に、首肯することもできない。
「……ユリウス?」
「なんでもない。ちょっとびっくりしただけ」
「え? マジ? そういやお前、確か養子だったしなぁ……。いやでも、ユリアナ・ファランドールの次代はいないはずだし……」
電子端末の滑らかな画面に映ったその女性の顔を、ユリウスは指でなぞった。
「……まさか。僕の産みの親はたしかに帝国人だけど、ユリアナ・ファランドールって名前じゃないよ。写真もみたけど、彼女とは似ても似つかない……」
そう説明しながら、ユリウスはふと自分の発言に違和感を覚えた。
――産みの親?
それじゃあ、まるで……。
「まあ、そうだよな。“稀代の悪女”が母親なんて、さすがにそんな偶然はねえだろ」
オズワルドにぎこちなく微笑み返しながらも、ユリウスの頭ではひとつの仮説が立とうとしていた――。
◇◇◇
その酒場にたどり着いたのは、待ち合わせの時刻を少し過ぎてからだった。
涼しくなった首もとに巻きつけたマフラーを解きながら、ユリウスは喧騒に包まれる店内を見回す。目的の人物は、すぐに見つかった――ほぼ中央の席で、テーブルに積みあがった貨幣を丁寧に数えている。また賭け事してたの、と呆れ半分感心半分の声をかけながら、ユリウスは彼に歩み寄った。
「ああ、ユリウス……」
淡青色の視線が、札束から上にずらされ――そして自分に焦点を絞ったとたん、クラエスは虚を突かれたような表情をした。
「……髪を切ったんですね」
一瞬だけ、父の表情が苦渋に歪む。ユリウスはそうだよ、と素っ気なく答えながら、クラエスの向かいに腰を降ろした。ウエイターを捕まえて注文を済ませると、改まって父に向き直る。
「父さん、今度は何の仕事を始めたの? またカフェの給仕とか言い出さないでよ」
あかぎれの目立つ父の手を見やってそう発言すれば、クラエスはようやく表情を動かした。
「煙突掃除の仕事をしようとして、断られて」
そりゃそうだろう、とユリウスは思う。父は成人男性のなかでは比較的華奢だが、煙突掃除はそもそも子どものやる仕事だ。
「今度は皿洗いです。ほら、駅の近くに酒場があるでしょう。そこの裏方ですよ」
「ふうん。父さん、相変わらず懲りないね」
数ヶ国語を操り国際情勢に精通しながらも、父は幼年学校すら出ていない。就職口に困るのはいつものことだったが、ようやくありつけた仕事が長続きしないものまたいつものことで――以前カフェの給仕をしたときは、意外に喧嘩早い彼はすぐさま客と揉め事を起こし、すぐにクビになった。
仕事なんてしなくても家には十分な蓄えがあるのだが、父は何かをしていないと落ち着かないらしい。いい歳なんだから、という言葉を呑み込んで、ユリウスは運ばれてきたビールに口をつけた。
「それで? わざわざこの私を王都にまで呼び寄せたんですから、それなりの事情はあるんでしょう」
「わざわざ呼び寄せなくても、父さんしょっちゅう王都に出てくるくせに」
「かわいい一人息子が心配なもので」
そう言って肘を突いて笑ったクラエスに、ユリウスも毒気を抜かれる。
柔らかい眼差しが恥ずかしくて、ユリウスはすっかり涼しくなった首元に触れた。つい最近まで父と同じように伸ばしていたのだが、思い切ってそれを切り落としたのが今日のこと。鋏を持ったオズワルドにどんな心境の変化かと聞かれたが、返事はしなかった。
「質問があるんだ」
本題を切り出そうとするユリウスに、クラエスは黙って目を細める。――きっと、察しているのだろう。
年老いてなお、精悍さを失わない父。鍛え抜かれた男の手は、やはり皿を洗うには不似合いだと思われた。
「僕は試験管ベビーでしょう?」
唐突に飛び出した用語に、クラエスはしかしあまり驚きを得たようではなかった。
試験管ベビー――体外受精の一種だ。試験管のなかで受精させ、受精卵を処理を施した母体に入れる。ユリウスの生きる時代には既に失われて久しい技術だが、生まれる前ならば――彼女が生きていた頃ならば、実在していたはずの技術だ。
「……おそらくは」
「おそらくは?」
歯切れの悪い父の答えに、ユリウスは聞き返していた。
暗に肯定されたことにさほどのショックを受けなかったのは、既に心の準備をしていたからだ――あのときに立った仮設は、考えれば考えるほど、それが真実に思えてならなかったのだから。
父の不自然な“産みの母親”という言い回し、帝国を離れてひとり育てられた自分。事情があることは察していたが、クラエスはそれについて一度も口にしたことはなかった。
「確証がない。私が見たときにはもう、あなたは産まれていました」
「……そう。じゃあ、次の質問。僕の母親は?」
「あなたの想像の通りだと思いますよ。ああ、ちなみに父親は分かりません」
そう言いながら、クラエスは首にかけていたペンダントを外した。それを手渡され、ユリウスは真鍮の蓋を指先で弾く。
現れたのは、ほどけないように三つ編みにされた毛髪。酒場のぎらついた光に照らされ、黒い色素に光沢が走った。
しばらくの間、ユリウスは黙ってそれを見つめた。誰の髪であるかなど、考えずとも分かる。ユリアナ・ファランドール――血の繋がった、彼の母親。
「……私は軍人だった」
ふと、薄い唇から呼気とともに吐き出された言葉。
ユリウスは顔を上げ、白金色の睫を伏せた父を見据える。
「そのとき彼女は女学生だった。まだ十四歳の、未来を望まれた子どもでした。世間も知らない、無垢な少女だった」
「……父さん?」
「あなたにそっくりですよ、ユリウス。髪を切ると……まるで生き写しだ」
そう言って懐かしそうに目を細めたクラエスに、ユリウスは持ち上げかけたグラスを下ろす。
「……あの子どもの人生を、私が変えた。同時に彼女は、ひどく強引に、私の人生を変えた。未来もなく途絶えるはずだった私の人生に、光が射した」
ユリウスを通して、クラエスは過去を懐かしんでいるのだろう。
父の声を中心に、周囲の喧騒が遠ざかってゆく。淡青色の瞳に、遠い山並みの光を映したように、こがね色が煌く。
「彼女が死ぬときは、私の生も終わるときだと思っていました。……けれども、その目論見は見事にひっくり返されました」
クラエスはユリウスをじっと見つめると、口の端にほのかな笑みを浮かべた。
「彼女は孤高を貫いたすえに、ひとりで世界を変えた。私を置き去りにして、けれども最後の最後で、彼女は私を振り返って……ユリアナは、あなたを残した。私に死ぬなとでも言うように、ちっぽけな赤子を残した」
あなたの命はひどく軽かった、とクラエスは囁く。
「あなたが私の生きる意義になった」
水面に落とされたちいさな雫のような言葉。それはユリウスの心に小さな波紋を広げ、静かに浸透していった。
――文句のひとつでも、言ってやろうと思ったのに。
ユリウスは小さな唇を尖らせながら、うん、と掠れた声を返した。幼子をあやすように、項垂れたユリウスの頭をクラエスが撫でる。軍人だったとは思えぬほど優しい手つきに、目尻に涙が浮かぶのが分かった。
「悪女が自分の母親だなんて、知ったらショックを受けると思ったんです。だから言わなかった。あなたが気づいたときに言えばいいと思っていたんですよ」
「……父さんは、意地悪だ」
「そうですね。……でも、あなたは答えに辿り着いた。それで十分でしょう」
ぼやけた視界のなかで、父が笑んだ。
晴れやかな青空のように、爽やかな微笑だった。
◇◇◇
真夜中の帰路をたどりながら、ユリウスは王都の夜空を見上げた。
真珠色の月が浮かんでいる。その清かな影を浴びながら、ユリウスは父の表情を思い起こした。
(“ユリアナ・ファランドール”は……)
自分の母だと言われて、特別実感がわいたわけではない。けれども同時に、離れがたい絆を得たように思う。
母との絆ではなく――父と自分を、つなぎとめる存在として、彼女はユリウスの心に芽吹いた。
(あの父さんを手懐けたんだから凄いな)
“小父”から若い頃の散々な父の話を聞かされていたものだから、そう思ってしまうのもいたしかない。しかし同時に、ぽっと心に小さな灯火が輝いた。
幼い頃――ぎこちなく自分の手を握った父が、恥ずかしそうに笑ったのを思い出す。
後世では悪女と評されながらも、彼女は今でも父の心を救っているのだ。歴史なんてものは不確かなものだけれども――ユリウスが今日触れたのは、些細でありながらも温かな真実だった。




