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Lost Corner  作者: 八束
カイロ逃亡
4/42

(4)

 ガザーラ=ハディージャ帝国連邦は東西に広い領土を持つ国だ。

 そのため各地に地方政府が散在し、中央政府がそれらを一括して統治するという形を取っている。このカイロはその地方政府を中心に据えた地方都市として繁栄し、中でも教育機関が充実していることで有名だ。帝国一の最高学府と謳われるアズハル高等学院もこのカイロにある。

 夜中にカイロに到着した私達は、大通りに面した宿を取った。クラエスはヨルガを残して外出してしまい、そのまま一晩戻ってくることはなかった。

 翌朝は外に連れ出された。久方ぶりに感じられる日差しは眩しく、太陽の灼熱はじりじりと大地を焼く。乾燥した空気は、しかし沙漠で感じたものよりは胸にわだかまるような澱みがあった。


「取引場に行きます。貴方を連れ出す必要はないのですが、まあ監視下においておいた方がよいですからね」


 市場(スーク)の開かれる大通りは人でごった返していた。

 雑踏の中、朗々としたアラビア語で街頭職人が声を張り上げる。交易の主要拠点ともなっているためか、褐色肌の踊り子から皮膚の白い行商人(ファッラグナー)まで、様々な人種が道を行き交っていた。異国語も頻繁に飛び交い、アレクサンドリアともどこか異なる空気が醸し出されている。私はその中でも際立つクラエスの金髪を何とか追うので精一杯だ。律儀に追う必要もないし、雑踏で迷ったことにして逃げ出そうかと考え始めた矢先、私は背後からぐいっと腕を掴まれた。……忘れていた。ヨルガもいたのだ。彼はこの人混み、この気温の中でもやはり変わらず厳つい甲冑姿だった。


「……おや」


 雑踏を抜け、取引場として隣接する行商宿(キャラバンサライ)に差し掛かったところで、不意にクラエスが足を留めた。

 慌ててそれに続く。クラエスの視線は道端に向けられていた――どうやら何か揉めごとが起きているらしい。それを止めるのかと思いきや、クラエスは底意地の悪そうな微笑を浮かべて私を振り返った。


「見たところ、カナンの民みたいですね」


 私の視線の先では商人風の男が数人、一人の男を囲んでいた。複数人に取り囲まれた男は、褐色の肌に黒い髪と瞳をしている。それだけなら典型的な帝国人だが、彼の身につける独特の紋様を象った装飾品はカナン特有の品だ。

 商い品でも盗んだのかもしれない。カナンの民はこの帝国において、もっとも最下層に位置する部族だ。多くは差別偏見の目に晒されながら、定住を好まず流浪の旅を送っていると言われる。


「先に進まないの? 取引場に行くんでしょう」

「カナンの民に興味はありませんか。件のヨクトシアはカナンの民だったと思いますが」

「面倒ごとは避けたいのよ。カナンの民なんて、結局は国に同化できないだけの一族じゃない。幻想だけを追い求める」

「……ロストコーナーですか。カナンの民は古来国を持っていましたが、やがて侵略と迫害によりその土地を失った。それ以降彼らは」


 永遠に沙漠(バーディヤ)をさ迷っている。

 クラエスの淡々とした言葉に、私は視線を脇に逸らした。

 理不尽な暴力を一方的に受け、カナンの民はもうぼろぼろだった。顔は腫れ上がり、骨は折れてその造形は見る影もない。至るところから出血し、彼は重力に従って地面に倒れ伏した。

 やがて商人たちは口汚い言葉で彼を罵ると、ようやくその場から引き上げていった。残されたカナンの民は呻くこともなく、じっと地面に横たわっている。


「……そうですね。彼らは確かにこの国に同化ができない。だからヨクトシア・ルッガーフ・ファラディーンも謀反を起こした」


 クラエスの言葉に、私は目を伏せた。――そのこと自体は、私も思っていたことだった。ヨクトシアはきっとカナンの民だからこそ、謀反を起こした。カナンの民は帝国に散在しながらも、大昔の幻想を追い求めているのだから。


「けれども今ここにあったのは単純な暴力でした。それについて言及するなら、貴方はそれを悪だと理解しながら何もしない人間です。それはわかっておいでで?」

「単純かしら? 少なくともカナンの民にはできるだけ関わりたくないわ。もし助けたとして、今度その弊害を食らうのは私よ。単純な勧善懲悪の物語で終わりはしない」


 クラエスは無表情のまま、淡青色の双眸を細めた。

 そのまま彼は歩き出す。視線は既に私を向いてはいなかった。


「……何よ。貴方だって何もしなかったじゃないの」

「そうですね。私は悪い大人ですから。厄事とはできれば避けたいし、面倒ごとも抱え込みたくない。まあ、避けられない事態も抱え込まなければならぬことも、生きていく上ではいくらでもあるんですけどね」


 クラエスのその言葉は諭すような調子ではなかった。どちらかというと、本当に独り言に近い。

 けれども無意識のうちに心の見せたくない部分に触れられたような気がして、私は苛立った。彼も私が悪い子どもだと責めているつもりなのだろうか。全ての者に平等に接しろと言うのだろうか。学院では口がすっぱくなるほどに教師がそんな内容のことを繰り返していた――彼女たちは生徒を誰一人として平等に扱おうとなんてしなかったのに。

 その後クラエスは取引場で何種類かの弾丸を引き取って、私たちは宿に戻った。そして宿の部屋に帰った途端、クラエスは再び外出してしまう。行き先を聞こうと思ったが、それも馬鹿らしいことのように思えた。次いでヨルガも席を外したのを見て、はたと私は気がついた。

 ――今だ。

 今この部屋にいるのは私だけだ。慌てて宿の窓から外を確認し、あの金髪を探してみる――少なくとも、視界の限りにはいなかった。無論ヨルガの姿もない。私の胸は高鳴った。

 迷っている暇はない。私は慌てて外套を羽織り、皮袋を背負った。そしていつかと同じように、そっと窓の両扉を押し開いた。



   ◇



 事は思った以上にうまく進んでしまった。

 あの時のようにクラエスが押し入ってくることもなく、薄暮に乗じて宿から脱出することは本当にたやすかった。窓から危なっかしく排水管を伝い、地面に足を降ろす。表と比べて人影の少ない裏通りを、とにかく私は走った。クラエスやヨルガが追ってくるかもしれないという危機感に、強く煽られながら。

 気がついたら、私はまったく見知らぬ路地に迷い込んでいた。カイロの酷暑も冴え冴えとした空気に変わり果てる夜、空では蜜色の三日月がきらりと姿を現している。

 一旦足を止めた私は狭い路地の壁に寄りかかり、暗い足元に視線を落とした。勢い余って出てきたが、勿論今後の当てはない。しかしあのまま帝都に連行された場合を考えたら、私は今の状況を前向きに考えなくてはいけないだろう。


「――――」


 皇帝直属軍の影響力がどれほどの物かは分からないが、沙漠に出るよりはカイロの中にいた方が賢明だろう。しかしここに身を隠すにしても、金銭の持ち合わせは少ないし、生活手段がある訳でもない。一人苦悩を繰り広げていると、不意に何かが私の肩に触れた。


「あ、やっと気づいた。君、さっきから声をかけても反応しないんだもの」


 響いたのは甲高い少女の声だった。

 私は目を見開く。正面に立っていたのは、確かに声の通りの少女だった。暗闇の中容姿は分かりにくいが、言葉は訛りひとつないアラビア語だ。


「ねえ、こんなところで何してるの? 見たところ良いお洋服を着てるけど、こんな路地にいたらいいカモになるだけだよ。早くお家に帰ったら?」

「うるさいわね。貴方には関係ないじゃない」


 突っぱねる私を、少女は強引に路地の外まで引っ張り出した。

 そこで月影に照らされ、少女の容姿が明らかになる。短く切った黒い髪は少年っぽく、翡翠色の目はきらりと耀いていた。アジア系らしく皮膚は黄色みを帯びて、その顔立ちは幼い。


「それで? 家、もしくは宿はどこだい。僕でよければ送ってあげるけど」

「……結構よ」

「どうして?」


 無邪気に問いかけてくる少女を、私はきっと睨みつけた。


「逃げてきたの。だから私にはかまわないで」

「……ええっと。参考までに聞くけど、何から君は逃げてきたの?」

「帝国軍よ。謂れもない罪を着せられたの」


 間髪いれずに言い返すと、少女はへえ、と愉快そうに口元を歪めた。彼女は暫く考え込んでいたが、やがてとても良いことを思いついたとでも言うように、その顔を耀かせた。


「だったら僕が君を助けてあげるよ!」


 そして突如として、少女はあっけらかんとそう言ってのけたのだった。私の両手を取ると、屈託のない笑みを向けてくる。呆気に取られる私の困惑を感じ取ったのか、少女は愉快そうに言葉を続けた。


「僕、帝国軍ってのが嫌いなんだ。心底憎い。だから、僕が君の逃亡を手助けしてあげるよ。それに君、――だろう?」

「っ……どうして、」

「一瞥したわけでわかるよ。……僕は医学生だからね」

 そこまで言われて、私は少女の着ているローブに気がついた。金糸で縁取りした純白のローブ、その色違いを兄が着ていたことを思い出す。


「自己紹介をしようか。僕はイカルガ・オギュー。見た通り移民だよ。今はアズハル高等学院医学科に通っている」


 先ほどの言葉からも、それが騙りだとは思えなかった。アズハル高等学院は年齢を問わず受験資格を認めているが、その中でも医学科は最難関と言われている。それを私と同じくらいの少女が突破して、今こうして目の前に立っていると言う。驚きを隠しきれない私に対し、イカルガは再度問いかけた。


「それで? どうする? 君みたいな世間知らずそうな女の子が、このまま逃げ果せられるとは思わないんだけど。観念して僕の手を借りるかい?」


 あまりにも甘美な誘いに、私は唾を飲み込んだ。

 イカルガが信頼に値するかを図りかね、同時にその手に縋りたいと思う私がいた。彼女の言葉は真実を突いている――ならばいっそのこと、彼女に賭けてみるのも悪い選択肢ではないかもしれない。


「……お願いするわ。私はユリアナ。ユリアナ・ファランドールよ。どうか私が逃げるのを手伝って」


 差し出された手を、意を決して握る。イカルガは幼い口元に笑みを刻み、私の手を握り返した。

 ひとまずは僕の部屋においでよと言われ、私は素直にその言葉に甘えた。彼女は路地を抜けた所にある、小さな長屋に暮らしていた。中心部から離れたその区域は、大通りの雑多としつつも華やかな空気とは趣を異にしている。

 彼女の部屋には医学書と僅かな日用品しかなく、かなり殺風景だった。何となしに戸棚上に置かれた写真立てを見れば、イカルガとよく似た面立ちの青年が映っている。


「それ、僕の兄。研究員だったんだけど、十年前に死んじゃった」

「十年前……。ずいぶん年が離れているのね」

「一回り以上は違うかな。生きていたら、もう三十を過ぎてるよ。君に兄弟はいないの? ユリアナ」

「兄が一人。その上にもう一人いたそうだけど、流行病で死んでしまったそうよ。記憶にはないわ」


 イカルガはローブを脱いで身軽な格好になると、寝台の上に腰かけた。彼女はごそごそと鞄を漁ると、菓子の袋を私に投げ渡す。


「ごめんね。ろくな食料がなくって。最近はずっと学院の方に詰めているから、こっちにはあんまり帰ってないんだ。卒業間近で研究が忙しくて」

「卒業って。イカルガ、貴方いくつ? 私とそう変わらないように見えるんだけど」

「残念、僕は十六歳だよ。それでもまあ何年か分はスキップしてるんだけどね」


 ――同い年くらいかと思っていたら、まさか年上だったとは。それも十六歳でアズハル高等学院を修了間近とは、見かけによらず相当な天才なのだろう。


「さて、お茶も出せないままでなんだけど。本題に入っていいかな? どうも君の話を考えるに、そう猶予があるように思えないから」

「ええ」

「まず君の帝国軍に追われてるって話。詳しく聞かせてもらっていい?」


 その言葉に、私は要点を掻い摘んで答えた。

 ある日突然帝国軍の青年がやってきて、私に共謀罪の容疑がかかっていることを伝えたこと。そして問答無用で帝都に連行されそうになり、カイロにはその道中で立ち寄ったこと。とりあえずだけ事実を述べれば、イカルガは眉間に皺を寄せて考えこむような表情をした。


「ねえ、令状は確認した?」

「……そういえば、してないわ」

「いくら帝国軍とは言え、令状なしに容疑者を連行することは法律違反だ。でも、よくあることでもある。だからそれだけで決め付けることはできないけど、多分君の容疑は嘘だろうね。君を迎えに来たのが本当に皇帝直属軍だというなら、おそらくその裏に何かがある」

「……ねえ、皇帝直属軍(イェニチェリ)ってそんなに凄いの?」


 私がそう言うと、そうだね、とイカルガは薄く笑った。


「風の噂だけどね、一部の界隈じゃ有名なんだ。皇帝直属軍は皇帝の命令のみで動くけったいな連中さ。志願制ではなく選抜制で、その選抜基準もまちまちらしい。けれどもそこに属する誰もが多方面に秀でた能力を持っているそうだよ」

「でも、見た目は普通の軍人と変わらなかったわ。どう見分けるの?」

「簡単だよ。外套の内側に(ティニン)の紋章が刺繍されているんだ」


 クラエスは後姿ばかりを見ていたし、ヨルガは甲冑姿だったから外套の内側を見たことはない。しかし、あの夜盗はそれを見たからこそ、クラエスが皇帝直属軍だとわかったのだろう。私が一人過去の記憶を手繰り寄せていると、不意にイカルガがぱんと手を叩いた。


「ま、考えても仕方ないね。正直、このまま巻き込まれてもいいことがあるとは思えない。帝国軍ってのはそれくらいきな臭い存在だからね。……そうだね、知り合いの移民ブローカーに頼んでみようか。西欧方面に逃がしてもらえるように」

「そんなことができるの?」

「ま、色々と貸しがあるからね。僕は手広く仕事をやっているんだ」


 その言葉は、それ以上の追求を許さぬ響きを含んでいた。

 私は頷くだけに留めて、ほっと安堵の息をついた。イカルガとの出会いは、もしかしたらかなりの僥倖だったんじゃないだろうか。このままクラエス達にも見つからず逃げ切ることができるかもしれない。一筋の光明が、私の胸に射した。

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