The remains of the Day
注意喚起
・本編の数十年後
・どんな話でも許せる方向け
もくもくと白い煙を吐き出しながら、狭い駅舎の中に汽車が滑りこんでくる。
威勢のよい汽笛の音に、少年は傍らに置いた革鞄を持ち上げた。別れの挨拶をするつもりで顔を上げると、彼の父親がふいに手を伸ばしてきた。握手をするつもりなのかと思ったが、その指先は予想に反して少年の襟元に触れた。
「タイが曲がっていますよ」
「あっ……。気がつかなかった」
制服のタイの位置を直してもらうと、少年ははにかんで自分の父親を見上げた。
少年はまだ第二次性徴を迎える前の、性の匂いからはほど遠い年頃だった。漆黒の髪はさらりと風に靡き、透き通った瞳は愛らしさをいっぱいに湛えている。肌は真珠色、花びらのような唇はばら色。面立ちだけが英国人離れしていたが、そのことが返って少年に際立った存在感を与えていた。
邪気のない瞳に見つめられながら、男は少年と目線を揃えるために腰を屈める。淡青色の瞳が、少年の深海色のそれを見つめた。
「いいですか、ユリウス? 学校ではちゃんと……」
「規則正しい生活も送ってご飯も好き嫌いしないで食べるし、毎日勉強もする! 父さんに定期的に手紙も書く! あとヨクトシア小父さんにもね。無駄遣いはしないし悪い奴らともつるまない! もう父さんったら、すっかり耳だこだよ。どれだけ心配性なの?」
「ああ、すみません。ついつい口が出すぎてしまう」
「別にいいけどさ。父さんこそ、ちゃんとハヤールに餌をやってね? 散歩も忘れないでよ?」
「それは……面倒ですね。忘れてしまいそうです」
揶揄するように男が返せば、少年はぷうっとまろい頬を膨らませた。
「ひどい! 僕が猫アレルギーだから、犬を飼おうって言い出したのは父さんなのにさ」
「冗談ですよ。きちんと面倒は見ますから、安心してください」
家にいるあの甘えん坊の犬を思い出しながら、男は頷く。少年はようやく安心したようで、「ありがとう!」とにっこりと笑った。それにつられるように、男も不器用に自分の口元を緩めた。
車掌が鐘を鳴らすのにびくっと肩を揺らすと、少年は慌てて革鞄を抱えた。急がないと汽車が出てしまう。別れもそこそこに走り出した少年が汽車のなかに吸いこまれてゆくのを眺めながら、男は小さな溜息をこぼした。何度も繰り返している別れだから、そう辛いわけでもない。
王都を終点とする汽車が走り去れば、駅舎のなかはすっかりと閑散としてしまった。汽車がノーフォークの風景のなかに消えてゆくのを最後まで見送り、男はようやく歩き出す。また張り合いのない生活が戻ってくると思うと、それが少しばかり憂鬱だった。
――この夏に、あの子どもは十歳になった。
血を疑いたくなるほど底抜けに明るく、天真爛漫な性格。けれども聡明さだけはしっかりと遺伝していて、今在籍するパブリックスクールも既に数年分飛び級していた。将来は技術者になるのだと言って憚らないが、男もとくに止めるつもりはない。意外に頑固なあの子どものことだから、止めたところで聞きはしないことが分かっているからだ。
親権を持つのはクラエスだったが、実際のところ父親は定かではない。調べるための術は、あの年――彼女が亡くなったあの年にすべて失われてしまった。分かることはただひとつ。生涯子どもを持たない――ファランドール家を存続させないと宣言していた彼女が、ひそかに代理母出産を依頼していたことだけ。
しかし、彼女は生まれてくる子どもの顔を見る前にその命を散らした。――暗殺だった。
カスティージャ王国に下した“制裁”によって、ファランドールは良くも悪くもその名を広めた。それまで中立を保っていたファランドールは、制裁を引き受けることで実質帝国の傘下に入ったと見なされ、同時に帝国政府からも危険因子として扱われ始めた。ファランドール家から兵器技術の大量な供出を受け入れる彼らは、兵器の矛先が自分たちに向けられることを恐れるようになったのだ。――当然の危惧だった。強さは時としてそれだけで仇となる。
利害の絡み合う綱渡りを続ける一方、しかし彼女は権力を分散させる方向には動かなかった。理想のためには、そうせざるを得なかった。そして彼女が生涯持ち続けた理想は、やがて彼女自身が殺害されたことで達成された。
それも計算のうちだったのかもしれない、とクラエスは思う。認めたくはない。けれども、そのような節はあったのだ。
今は記憶か夢のなかでしか会えない彼女に、クラエスは幾度となく問いかけた。――それで満足だったのかと。その問いに彼女は力なく笑うだけで、明確な答えをくれることはない。
ただ彼女は言うのだ。生きなさい、クラエスと。あの日々のように、毅然と佇みながら。
だからクラエスは生きつづける。ノーフォークという、彼の生まれ育った、英国の忘れられた土地で。
庭と菜園を併せ持つ小さな屋敷。それが今のクラエスの住まいだった。
扉のガラスごしに、鼻を押しつけて意気消沈とするハヤールが視界に入る。純血のシェパードであるくせに、気高さを母親の腹のなかに置いてきたような犬だ。クラエスが扉を開けると、ハヤールはユリウスはどこだとばかりに彼の足にまとわりついた。
「お前の飼い主は今頃列車の中ですよ」
やっぱり帰ってこなかったかあ、とばかりに床にへたりこみ、ハヤールが上目遣いにクラエスを見上げる。
クラエスはそんな愛犬の頭を撫でると、散歩に行って来いと縄を外した。外に駆け出したハヤールを横目に、室内へと足を踏み入れる。あのハヤールも見てくれだけは番犬としての役割があったらしく、特に誰かが荒らしたという形跡はない。
それでも部屋に違和感を感じたのは、あの子どもがいなくなったせいだ。がらんとした雰囲気に溜息をついて、手近な椅子に腰を下ろす。風に絡んだ髪を指先で梳かしながら、クラエスは疲労感に目元を覆った。
今度あの子どもが戻ってくるときを想像すると、少しだけ恐ろしい気分になる。きっとまた、彼女の面影を深めているのだろう。彼女の面影は少年にまとわりつきながら、確実にクラエスを追い立てゆく。同時に感じるのは、愛おしいような、苦しいような、不思議な心地だった。
そうしてクラエスが深い哀愁に浸っていると、ふいに喉元に冷たい何かが突きつけられる。
「クラエス・イーグルだな」
重たい瞼をこじ開け、眼球だけを動かす。そうして視界に映った見覚えのない男の姿に、クラエスは目を細めた。
「いかにも」
「元イェニチェリとは言え、老いたものだな。それともこぶ付きになったせいで野性が衰えたか?」
「イェニチェリとはまた懐かしい響きですね。老いたと言われれば、確かにそうでしょうが」
漆黒の軍服をまとった男は、朗々としたアラビア語で話しかけてきた。帝国の人間であることは考えずとも分かる。
「命が惜しければ吐け、クラエス・イーグル。全遺構を復活させる鍵はお前が持っているはずだ」
「さあ。そんなものにはまったく心当たりがないですね。なにしろ子どもを産むことすら黙っていた彼女ですから……」
「御託はいい。それとも“忠犬”は、忠義のためならば死など恐ろしくはないか?」
皮膚にめり込む銃口をちらりと視界に入れて、クラエスは嘲笑した。
何を今更、この男は言い出すのだろう――そんな気持ちをこめた笑みだった。その薄気味悪い表情に、男はクラエスの片鱗を嗅ぎ取ったのかもしれない。茶褐色の目を不審そうに眇めると、次の瞬間、本能的に一歩後ろに下がろうとして――……。
「ハヤール」
亡霊の名を、クラエスは呼んだ。
次の瞬間、男とクラエスの間にひとつの影が躍り出た。銀の混じった体毛が風に揺れ、しなやかな胴体が跳ねる。低い唸り声とともに剥き出しになった、鋭い牙――その白刃の煌きが、男の手首に、動脈に、容赦なく突き刺さる。
「ああ、殺さないでくださいね。――獲物だ。久々の獲物なんですから、譲ってください」
だめなのか、とばかりに一対の瞳を向ける犬に頷く。ハヤールが渋々とばかりに歯を離すと、男の手首から鮮血が筋となって溢れ出した。動揺する男はとにかく床に落ちた銃を拾おうとするが、見つからない。既にクラエスによって遠方に弾き飛ばされていた。
クラエスは悠々とした態度だった。懐から抜き出した愛用の回転式拳銃を片手に、手首を押さえる男に歩み寄る。男は後ずさろうとして壁際に追い詰められた。唯一の出口は犬に塞がれ、目の前には元イェニチェリの――そして絶大な権力を有した武器商人の、元護衛。このふたつを突破しない限り、逃げ場はない。
「死は恐ろしくはないですね。行き先はどうせ決まっている。――彼女と同じ、地獄だ」
淡青色の瞳が、すう、と細められる。
その面立ちには明らかな老いの気配があったが、眼差しだけは変わらない。酷薄な色を帯びた、磨きたての剣のような眸。
「けれども命は惜しい。惜しまねばならない。私は生きなくてはいけない」
――私が貴方に未来をあげるわ。
脳裏に蘇った彼女の笑みに目を伏せ、クラエスは唇を引き結んだ。無言で銃を持った手を上げると、男の肩に弾を撃ち込む。
苦悶の声が上がり、男の半身が鞠のように跳ねた。間を置かずに、今度は片膝を射撃する。赤い飛沫が飛び散り、クラエスの白い頬を濡らした。
「まるで呪いですね。……いいえ、呪いでしょう。あれは、私にかけられた最初で最後の呪いだ」
――……私だって。貴方には生きてほしいと思うわよ、クラエス。
奥歯を噛みしめ、それでも表情には出さず、クラエスはさらなる弾を男の頭部に撃ちこんだ。石榴が弾け、血飛沫がしとどに視界を濡らす。しばらく無言で佇んでいると、後ろで事の次第を見守っていたハヤールが、絶命を確認するためか男の死体を嗅ぎに出た。
平穏な家の風景がすっかり惨劇に塗り変わってしまったが、クラエスはさしたる感慨は抱かなかった。所詮、自分が戦うことでしか生きていけないことを知っている――いくら本能を隠そうとしたところで、すぐに露呈してしまうことは知れていた。
事切れた男を見下ろしながら、クラエスは顔についた血を強引に拭った。最初、この男の気配に反応しなかったのは――少なからず、殺してほしいという願いがあったからだ。それでも結局、死んだのは男の方だった。クラエスは彼女の呪いを破れなかった。
『生きなさい、クラエス』
あの日――敵の襲撃に遭い、わずかな隙で致命傷を負った彼女。自分の腕の中で流れ出してゆく生命を、クラエスは茫然と見つめることしかできなかった。
そんな自分に微笑みかけ、彼女は囁いた。――生きなさい、クラエス。
『ファランドールの業も、あなたの業も、全部私が地獄に持っていくから』
『あなたのこれからの人生は、きっと素晴らしいわ。私から解放されるんだもの』
真珠色の頬に貼りついた砂塵。太陽の光を浴びてもなお黒い髪。
十四の少女だった頃と、なにひとつ変わらない――意志の強い、まっすぐな眼差し。
柔らかな肢体はぐっしょりと血に濡れ、一目見ただけで、もう助からないとわかった。先に死ぬのは自分の方だと思っていたのに、死神の鎌は、なぜ彼女の首をさらうのか――クラエスの頬を濡らす雫に触れ、彼女はばら色の唇に笑みを深めた。
『だから、生きなさい。今度はあなた自身の足で、あなたの人生を歩いて』
はらりと剥がれた意地の隙間から、彼女が穏やかに語りかける。
死ぬなと叫んだクラエスの口を塞いで、彼女は生きて、とだけ繰り返しつづけた。やがてその頬から赤味が消え、その身体から体温が失われても――彼女の呪いは、クラエスの頭のなかで響き続けた。
――その呪いが、クラエスを縛った。
彼女の死を合図にしたように、ファランドール家の所有するすべての遺構が機能を凍結する。彼女が武器商人として命を削り続けた十五年。その結果、ファランドールの所有する遺構は、アフリカ大陸とユーラシア大陸のふたつで確認されているもののうち、八割弱を達していた。――遺構の凍結は、帝国、そして世界中の国々に多くの打撃をもたらした。遺失技術によって多くの産業が成り立っていた帝国は、その弱体化が特に著しいものとなった。
彼女はその死によって、最後の反撃を行ったのだ。帝国に。彼女の生涯を決めてしまった、この理不尽な世界に。
混乱のなか、クラエスは引き取った赤子と共に海を渡った。そして数十年ぶりに、故郷に戻った。
英国の忘れられた土地――ノーフォークに小さな家を買い、彼は平穏な暮らしを始めた。彼女のことばを守るためには、そうせざるを得なかった。
そこからの十年だった。確かに新たな生は思った以上に充実していて、悪くないものだと思う。それでも、やはり決定的に彼女が欠けていた。
死体を処理するために、クラエスはスコップを片手に裏庭へと出向いた。
裏庭にはこの夏にユリウスが植えたばかりの花の苗がある。何が咲くかは、彼いわくお楽しみらしい。咲いた花を彼と一緒に見るまでは、まだ死ねない。クラエスはぼんやりとそんなことを思った。
庭の裏手には浅い森が広がっており、その上には今にも沈もうとする太陽が覆いかぶさっていた。濃やかな深緑の風景を、銀朱色の帳が包む。きらりきらりと光の粒を乗せる苗の葉を視界に、クラエスは柔らかな土を掘り始めた。ほどなくして人をひとり埋めるだけの穴を作ると、スコップを投げ捨て、空を見上げる。
夜の気配を帯びた空に撒かれた火種。炎色の日がきらめく様を、クラエスは眩しげに見つめた。
日の名残が漂う森のなかを、幻影が駆け出してゆく。肩口で切った黒髪をなびかせ、膝丈のスカートの裾を揺らしながら。控えめな笑い声が耳朶を打ち、幻影がクラエスを振り返る。誘われるように彼は足を踏み出した。
『クラエス』
砂漠はない。乾いた空気も、身を焦がすような灼熱もこの国にはない。彼女をたどる痕跡はここにはない。
それでも時たま思い出してしまうのは、死を考える際に彼女の影がつきまとうからだ。生きなさい、クラエス。死のうとしてはだめよ――聖母のような微笑を浮かべながら、自分の頭を抱いた彼女が。ただ静かに、クラエスに語りかける。
少女の幻影は森の途中で忽然と消え、クラエスもふらりふらりと前に踏み出していた足を止めた。さあっと湿った風が靡き、その色褪せた髪を弄ぶ。ざわざわと揺れる森の喧騒に、彼は目を瞑った。まだ会える、そう思った。自分が生きている限り、彼女の痕跡はここにある。
まなうらの黄昏に、彼女がまだ、微笑んでいる。
「……あ、」
読みさしの本を横に置き、ユリウスは列車の窓から身を乗り出した。
窓を押し上げると、柔らかな風がふわりと舞いこんでくる。故郷の穏やかな田園風景が、一面こがね色の光に包まれていた。
その茫漠とした大地の上に太陽が覆いかぶさるのを見て、ユリウスは息を呑んだ。王都では見られないような、壮大な光景だ――またしばらくはこれとお別れかと思うと、少しだけ物悲しい気分になる。次に帰れるのはクリスマス休暇だから、そうしたら今度は一面の銀世界が見れる。
王都についたら、早速父さんに手紙を書こう。寂しがり屋の父と甘えん坊の犬のことを思って、ユリウスは小さく微笑んだ。




