光芒(クラエス視点)
ずっと決められた人生をひた走っていた。
イーグルとして生まれ、軍人として生き、戦場を死地とすること。それ以外の生き方を知らなかったから、そのことに不満を覚えたことはなかった。ただ一種の空虚さだけは、延々と抱え続けていたように思う。
ただ茫漠とした闇に横たわり続ける人生に、一体何の意味があるのだろう。
ヨクトシアに手を貸したのは、そのことによって何かが変わると期待したからではない。自分の意志で何かを決断することで、この胸の中に巣食う虚しさを、少しでも和らげられるのではないのかと思ったのだ。同時に、これが自分の決めたことの末路なら死んでもいい。どうせ未来など、今と何も変わらぬだけなのだから。
――そう、考えていたはずなのだ。
*
後悔しないのですか。
その一言を、少女の華奢な背に投げつけた。
天井際に掲げられた小さな窓から射す、目に痛いような日差しが彼女の左肩を照らしている。無数の埃が光を乱反射しながら宙を舞っていた。彼女の左肩から繋がるはずの物はなく――きっとまだ幻肢痛に苦しめらているのだろうと、私はぼんやりとそんなことを思う。
「何を後悔するって言うの」
少女は振り返り、ぶっきらぼうにそれだけ言った。
この地域にしてはごく一般的な、色味の薄い岩石を使った床や壁といった背景の中で彼女の存在はどこか際立って見える。少女は不満げな表情のまま、無反応の私から目を逸らすと、再び病院の出口へと向かって歩き始めた。
既に外では青年が待っている。彼が少女のもとに戻ると言ったのは、まあ予想の範囲内だ。少女がそれを承諾したのも。――けれどもどうしてだろう。どうしてか私は、彼女がそのことを後悔しているのではないのかと気にかかった。本来ならばそんなこと、気にするような人間でもないはずなのに。
中庭を囲うようにして伸ばされた廊下をまっすぐ、光が走っている。少女の羽織った紺色のローブの裾が揺れ、その姿が光の中へと吸い込まれてゆく。私はその後を追いながら、やがて耐えられなくなって彼女を引き止めた。
「ユリアナ」
「……何よ。さっきから鬱陶しいわね」
「あなたはヨクトシアが、憎くはないのですか」
私の不躾な言葉に、少女はようやく足を止めた。
何が言いたいの、とばかりに剣呑な視線が向けられる。私は薄く笑うと、その青い双眸を見返した。
「ヨクトシアはあなたのお兄様を殺した」
「間接的によ。彼が手を下したわけではない」
「けれども聡いあなたのことだ。想像はしているのでしょう? 彼があなたの側につくと決めたことで、イェルド・ファランドールの死は避けられなくなってしまったことに」
少女は薄い唇を噛んだ。
初めて見た時よりかは、顔立ちも背も少しは大人に近付いただろう。けれどもその表情は彼女のあどけなさを色濃く香らせ、少女を幾らか子どもっぽく見せた。しかしやがて芯の残る表情はほどけ、彼女は何か透明なものでも見るような眼つきをする。瞬間、こそぎ落される少女性。あまりにも子どもには似つかわしくない顔に、どうしてか私は強い苛立ちを覚えた。
――わかっているわよ、と掠れた声が耳朶を打つ。
「だから私はヨクトシアを裏切れない」
そう言いながら、少女は甘露でも食んだかのように淡く笑った。
「彼は彼の目的の中で、私という存在を選び取った。結果的に、兄よりも私を選んだということになっても、それは仕方のないことだわ。人間の手に抱え切れるものはそう多くないと、そう言ったのはあなたでしょう? ――クラエス」
「ええ。……そうですね。そうだった」
「人間って複雑ね。どうして単純にいかないのかしら? 憎いなら憎い、好きなら好き。その一言だけで決められたらいいのに、と思わなくもないわ。確執って、きっとこうやって生まれていくのね」
私は目を伏せた。――その言葉に、身に覚えがないわけではなかった。
ふと脳裏に過ぎったのは、結局私も青年と同罪ではないか、ということだった。私が青年に加担したというのならば、それもまた、彼女の兄の死の原因の一つではないだろうか。ただ一人の存在を守ろうとしたから、それに相反する勢力は排除せざるを得なかった。たとえイェルド・ファランドール自身が死を覚悟した上で、己の信念を貫いていたとしても――彼女のたった一人の兄が死んだ。その事実は変わらない。
どうしてこんなことを考えてしまうのか。柄ではない。思考を振り切って顔を上げると、少女は既に私に背を向けていた。
「それでも、私はヨクトシアが好きよ。死なせたくないって思ったんだもの。そして同じくらいに――あなたのことも嫌いじゃないわ、クラエス」
それだけ言って、少女は歩き出してしまう。カイロの濃い光の群れの中へと消えてゆく。
慌ててその後を追うと、都市特有の、少し濁ったような空気が肌に触れた。雑踏の喧騒、街頭職人の呼び込みの声、装飾の足環をじゃらじゃらと鳴らしながら通りを駆けてゆく踊り子の笑い。狭い空はそれでも青く、雨の気配なんてこれっぽっちもありはしない。様々な情報が一気に五感に飛び込み、私はあまりの眩しさに目を細めた。
眩しい。あまりにも眩しい光景だった。
あらゆる使命から解き放たれて、このカイロという地に立つ。その感覚が以前とはあまりにも違いすぎて、私は戸惑った。視界の隅で、談笑する少女と青年の姿が映る。これから、こんな光景が日常になるのだろうか。
「クラエス、行くわよ。むこうの街区に居を構えることにしたの」
「引越しの準備が終わったら食料の買出しだそうですよ? クラエスさん、料理できましたっけ」
「教科書とかも揃えなくちゃね。まったく、新学期なんて気が重いばかりよ」
声をかけられ、私は一瞬声を詰まらせた。それからそうですね、と思い出したように反応を返す。
「……この私に料理をさせるつもりですか? ヨクトシア、お前がしなさい」
「こういうのは交代……ああ、そういえばクラエスさんって悪舌の上に悪食でしたもんね」
そうなの、と驚いたように少女が声を上げる。
私は意味深な笑みを向けるだけ向けて、少女が言った街区へと向けて一足先に歩き出した。待ちなさいよ、と少女が騒ぐ声。――これが日常になるのだとしたら、それも悪くないような心地がした。
あの日々のように、少女は苦しんだ顔をしていない。青年だって、いつかのように思い詰めた表情をしていない。それはきっと私もそうだろう。少しだけ、空虚な殻が剥がれ落ちたような気がした。
――きっと。
憎しみも悲しみ苦しみも、いつかはひとつの中に溶け落ちてゆく。
少女が胸に秘めた確執も、青年の負い目も、いつかは見えなくなってしまうのだろう。その頃には、私の胸の空虚も少しは消えてくれるのだろうか。
かつての私では、決して見出すことのできなかった未来の中で。




