エピローグ
「次の商談は?」
「まずはマラケシュ、シャウエンに行って現地の遺失技術工と契約を結ぶわ。それからジブラルタル海峡を渡ってイベリアに向かうから、船の手配をして。行き先はグラナダよ」
「遺失技術工と直接話をつける必要はあるのか?下の者に向かわせればいい」
靴底が廊下を叩く小気味良い音が響く。
私は足を止めると、数歩後ろに立つヨクトシアを睨みつけた。わからないの、と憤然とした態度で言ってみれば、彼は明らかに当惑をした表情を浮かべた。――どうやら、本当に覚えていないらしい。
「シャウエン! あなたの生まれ故郷でしょう? いつか行ってみればいいって言ったのはあなたよ、ヨクトシア」
「……覚えていたのか。驚いたな」
「しっかり観光案内しなさい。商談なんておまけよおまけ」
そう言えば、ヨクトシアはくすりと愉快そうに笑った。
私は満足げに頷くと、再び自分の執務室に向かって歩き始める。
――カイロにあるアズハル高等学院を卒業後、私は家の仕事に取りかかるようになった。まだ父親はピンピンしているので、本当にその仕事を手伝うくらいの段階だが。
今思い返しても、あのドヴッジャイラの絡んだ事件後は本当に大変だった。ヨクトシアもクラエスも入院するし、後処理を一手に引き受けざるを得なくなった父親にも散々訓戒を頂いた。最新技術のおかげで、ヨクトシアもクラエスも後遺症なく快復したのは素直に良かったと思うが――その二人を正式にファランドール家の私兵として雇うことになるに当たっても、実は結構な悶着があったりした。
「そういえば今日、クラエスは?」
「さあ。どこかで道草でも食っているんじゃないか」
そう言いつつ、豪快に扉を開けて部屋に足を踏み入れる。
――いた。噂の当人が、人様の執務椅子の上で優雅にくつろいでいる。その膝の上には猫が乗っていて、にゃあ、となんとも間抜けな鳴き声がした。
「退きなさい。あと室内で猫は禁止」
「まったくケチですね。猫くらい良いじゃないですか。癒されますよ」
「私がアレルギー持ちってこと忘れないで欲しいわね。ほら、早く元のところに戻してきなさい」
猫の首根っこを掴んだクラエスは、そうですか、と言いつつ名残惜しそうに猫を抱え直した。見ているだけで目が痒くなりそうだったが、それを堪えて部屋を去ろうとするクラエスを引き止める。
「一週間後にはモロッコ地方に向かうわ。準備しておいて」
「了解しました。はあ、面倒ですね」
そう言いながら扉の向こうへと吸い込まれていく。
クラエスの姿を見送って、私はようやく椅子に腰を落ち着けることができた。机の上に積みあがる大量の見合い写真を全て視界に入らないところにまで追いやり、本日分の書類に目を通す。そうしているうちに、ヨクトシアが硝子のグラスに入れた紅茶を持って来てくれた。
「クラエスさんは何だか毎日が楽しそうだな」
「……猫を連れ込むのだけは勘弁して欲しいけどね」
――私の選択が正しかったかどうかは、今でもわからない。
私はクラエスに生きて欲しかったし、同じくらい、ヨクトシアにも死なないで欲しいと願った。傲慢だと、強欲だと言われればその通りなのかもしれない。少なくとも、否定はできないと思う。
ただヨクトシアにクラエスを助けて欲しいと懇願した瞬間、馬を駆ってオアシスに向かう途中、私は必死だった。必死で、彼らを生かすことだけを考えた。それだけだったのだ。
「……ねえ、ヨクトシア。どうして、私を守ろうって思ったの?」
青く色づいた硝子のグラスの中で、琥珀色の液体を揺らす。
「そんなに大層な理由はない。ドヴッジャイラを破壊する計画を練った時に、一番悪意に晒されるのはお前だと気付いた。――だから単純に、その悪意を退けてやりたいって思ったんだ。結果うまくいったか、わからないが」
「うまくいったわよ。守ってる相手に嫌われてまで、そんなことをしたんだもの。……ありがとう、ヨクトシア」
そう言えば、ヨクトシアは柔らかく微笑みを返した。
――選択の結果が今だと言うのならば、まあ、悪くはないのだと思う。
結局私はこれからもファランドールの業から逃れることはできないし、間接的にでもたくさんの命を奪っていくのだろう。私の土台は全て積み上がった遺骸で形作られている。そのことは忘れてはいけない。
それでも、自分が生きることを否定できなかった。
否定したら、私は私のしてきたことが間違っていることを認めなくてはいけなくなる。クラエスの人生を肯定できなくなる。あの時ずっと守ってくれていたヨクトシアを無碍にすることになる。
だからこそ、私は。
「……あなた達がいるから、私も救われるわ。これからもよろしくね」
その拍子に、にゃあ、と再び猫の鳴き声が響いた。
大仰な溜め息をつく。猫を戻してきなさいって言ったでしょう、と私は扉の向こうのクラエスに向かって叫んだ。
*fin




