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Lost Corner  作者: 八束
砂漠に降る雨
34/42

(4)

 炎のはぜる音も雨音も、その場にある何もかもを塗りつぶす。地の底からとどろいたような咆哮は、空気を激しく震わせ私たちの鼓膜を打った。誰もが呆然と天を見上げ、そこに立つものを凝視する。

 雷の薄く光る空を背景に、それは立っていた。先程まで獣の体を打ち捨て、今や巨大な人型へと変貌して――人型といえども、その歪さはは沙漠に散在する奇石の群れを思い起こさせた。蜻蛉のような長く細い手足は筋肉や神経が剥き出しになり、ぽっこりと膨らんだ胴体の表面は雨でてらてらと黒く耀いている。頭部の大きく開いた眼孔から覗く金色の眼球は、ぎょろぎょろと忙しなく動いては周囲を観察している。――ドヴッジャイラ、と誰かが囁いた。あれこそが、ドヴッジャイラ――カナンの民にとっての神であり、遺失文明と共に忘れ去られた古代兵器。

 金属同士を摺り合わせるような咆哮が轟く。硬直する人々の中でいち早く気を持ち直したクラエスが、その場を退いて突然私の腹を抱えた。


「クラエス、あれっ……」

「くわばらくわばら。あんな恐ろしげなものを崇めるなんて、どいつもこいつも気が狂っていますね。行きますよ、ユリアナ」


 そう言ったクラエスの顔は、異常なほどに白かった。

 はっと我に返って彼を見れば、その腹部には赤い血が滴っている。――傷が開いてしまったのだろう。背中の火傷と合わせて満身創痍のクラエスは、それでも微かに笑い、私を抱えたまま地下への階段を下り始めた。

 灯明など一切無い地下に潜っても、ドヴッジャイラの遠吠が地を震わせていた。その音を耳にするたび、心臓が跳ねる。言いようの無い不安と焦燥とが渦巻いて、思わず叫び出したくなるほどだった。そうでなくても、クラエスの荒い息切れが私の胸を強く掻き乱す。自分で走ると言っても、彼は聞かない――私を抱えたまま、ひたすらに地下を目指している。


「く、クラエス。大丈夫なの?」

「今は自分のことだけを考えていなさい、ユリアナ。ヨクトシアもあのドヴッジャイラを相手にしようなどと、馬鹿なことは考えないでしょう」

「それもそうだけど、貴方のこともよ! 顔が真っ白じゃない」


 その額には脂汗がびっしりと浮かび上がっている。

 胸に去来したのは、隠れ家で銃弾を受けたクラエスの姿だ。置いて行きなさい、と掠れた声が耳に蘇る。――あの時は、ヨクトシアが助けてくれた。でも、今は? 今は、誰も助けてくれない。

 クラエスは自嘲の笑みを口元に刻み付けた。心配性ですね、と呆れたような声が続く。


「多少は踏ん張らなくてはいけない時があるのですよ。大丈夫、ヨクトシアにも釘を刺されたことですし――そう死ぬような真似はしませんよ」

「本当に?」

「ええ、約束します」


 そう言うと同時に、クラエスの足が最後の階を踏んだ。

 途端、あたりが明るく照らし上げられる。あちこちに掲げられたモスクランプで燃え始めたのだ。ドヴッジャイラの咆哮も遠ざかり、静謐な静寂がその場に満ちる。

 クラエスに降ろしてもらい、私はしっかり地面に足をつけた。見渡す先に映るのは、ある意味、予想したままの世界。――夢の中でずっと見続けた、あの光景だった。

 しかし夢の中とは違い、年を経て美しい光景も綻び、あちこちが埃を被ってしまってもいた。それでも私はようやくこの地に立ったという強い感慨で、胸が満たされた。クラエスが見送る中、私は色鮮やかなペルシア絨毯を踏み、その中央へと歩を進める。

 そこには、十年前の“彼”がいた。

 私はスヴェン・ファランドールと、十年の時を経て再会した。駱駝模様の絨毯の上に、彼は横たわっている。立体映像(ホログラフィ)に映し出されたような姿を残さず、物言わぬ骨となって。地下にあったためか、彼は風化を免れ、ほとんど骨の部位にも欠損がない。だからこそ、彼が抱えるそれが――幼い少女の腕の骨だと気付くことも容易かった。

 十年前、彼も己の理想と戦い、ここで朽ち果てたのだろうか。ドヴッジャイラを破壊できず、無念のままに十年を過ごしたのだろうか。

 追憶に足りるほどの記憶を、あの頃幼すぎた私は持っていない。それでも確かに、私は彼に愛されていた。ファランドールの娘としてではなく、ただ一人の妹として。


「ユリアナ」


 名を呼ばれ、私は顔を上げた。

 無言のまま、私は骨を乗り越え、部屋の中心に立った。足元の絨毯の隙間では、タイルが青白く発光している。その存在を確認してから、私は深く頷いた。

 遠くから複数の足音が響く。クラエスは血と脂に汚れた短剣を服の裾で拭うと、背中合わせで私の背後に立った。その体温をじかに感じ、私は瞼を伏せる。


「クラエス、ありがとう。ここまでついて来てくれて」

「何ですか、急に。素直な言葉なんて、貴方らしくもない」

「らしくなくても結構よ。貴方達がいなければ……私は、きっと帝国なり、カナンの民なりの傀儡となって終わっていた。もちろん、沢山辛いことはあったし、後悔も許せないことも色々あるわ。それでも、ここに辿り着けてよかった」


 ――最初は憤りだった。理不尽な未来に対する、抗えない運命に対する、どうしようもない気持ちだけだった。

 それでも、その運命を受け入れられるようになった。いつからかはわからない。あるいは、今この瞬間からかもしれないが――確かに、私は自分の人生を肯定しようと思った。同時に、私の後ろに立つこの人の人生を、肯定してあげたいと感じたのだ。


「……ユリアナ。以前、貴方は私に、どちらの貴方を見ているのかと問いましたね。ファランドールの娘か、ただのユリアナか。……その回答ですが、私にはよくわかりません」


 短い呼気の隙間で、クラエスが言う。足音が近付いてくる。それでも、彼は言葉を切ろうとはしなかった。


「でも、少なくとも――私の前で、貴方はただのユリアナだった。価値などこれっぽっちもない、ただの小娘だった。そうあることを、あのヨクトシアも望んでいたように思います」

「そう。……そう、なのね」

「私に未来を与えると言った責任、取ってもらいますよ。この私を生かすというのならば、しっかりと手綱を握ってください」


 そうね、と私は頷いた。その言葉を皮切りに、私は足元のタイルを踏み、クラエスは私の傍を離れた。

 さあ、ファランドールの後継として――最初で、最大の仕事だ。

 立ち上った青い文字列の立体映像を仰ぐ。浮かび上がった文字は予想通りの英文だった。


『最高管理者ユリアナ・ファランドール様、認証致しました。ドヴッジャイラ管理システムへようこそ。本日はヒジュラ暦―――年、**月**日、断食の(ラマダーン)です。礼拝(ズフル)はお済みでしょうか』


 平坦な女の声が響き、立体映像が遺構の遠景へと切り替わる。

 粗い映像の中では、いまだドヴッジャイラが猛威を奮っているのが見えた。映像を近景に切り替えると、その黒くおぞましいいでたちがはっきりと目に映る。それを視界に収めながら、私はたどたどしい英語で指示を出す。


「ドヴッジャイラの自壊コードを打ち込むにはどうしたらいいの? マニュアルがあったら出して」


 背後では軍人達の足止めをしているクラエスが戦っている。そんなに多くの時間はかけられない。――急がなくては。


『質問事項を検索いたします。――管理者権限の再確認後、自壊コードを入力してください』

「わかったわ。再確認して」


 青白い光が天井に灯り、私の全身に浴びせられる。

 再認証の最中、ふいに、背後で一際激しい剣戟の音が響いた。同時に、呻くようなクラエスの声。私は思わず振り返りそうになったが、すぐさま飛んできたクラエスの厳しい叱責に慌てて前を向いた。

 どかりと誰かがすぐ後ろの床に座り込む。――クラエスだろうか。剣が転がり、激しい呼吸の音が空気を震わせる。


『認証終了いたしました。自壊コードを入力してください』


 不安を際限なく胸に膨らませているうちに、再認証は終わっていた。

 私は緊張に体を震わせながら、自壊コードを入力してください、とだけ描かれた立体映像を見上げた。――一言も、間違ってはいけない。これで、全てが決する。

 きっとこの仕事を成し遂げたら、私を取り巻く世界は表情を変えてしまうのだろう。ファランドールの業も強欲も、この先全て背負うことなる茫漠とした闇を見据える。それでも、逃げることはできない。

 私が生きて欲しいと望む人たちのためにも、ずっと私を守ってきた人たちのためにも、私の出来るすべてを行おう。そう思い、私は息を深く吸った。


「 “わたしは世の光である”」


 朗々と張り上げた声は、静かに天井へと吸い込まれてゆく。


「 “わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ”」


 目を瞑る。言葉の一つ一つに、どうしようもない重みを感じた。


「 “わたしは世の光である”」


 ――言い切ると同時に、あたりに眩い閃光が満ちた。


 耳をつんざくような爆発音が立て続けに響く。私は真っ白な光に満たされた建物の中で、最後に浮かび上がったホログラフィを見上げた。


『自壊コード確認いたしました。これよりドヴッジャイラは自壊いたします。長年のご利用、ありがとうございました。さようなら(ビッサラーマ)、ユリアナ・ファランドール様』



 ◇



「戻りましょう、ユリアナ」


 光と爆発音が途絶えると、元通りの静寂が戻ってくる。

 あれほど激しい音と光の狂騒があったというのに、遺構の内部は何一つとして変わっていなかった。脱力して座りこんだ私はその声に振り返ると、よろけながら立ち上がったクラエスを視界に収める。安堵のためか、その表情も緩んでいた。


「肩を貸すわ。そんなに傷だらけじゃ、歩くのも大変でしょう」

「片腕のない貴方も大概大変でしょう。結構ですよ」

「だったらお互い支えて歩けばいいわ。一石二鳥でしょう?」


 そう言えば、仕方ないですね、とクラエスは笑う。肩に腕が回されて、私達は不器用な格好で歩き始めた。地上への階段を登ろうとした時、私はふと思い出し、静謐な空気に満ちた建物を振り返った。


「――さようなら、スヴェン兄さん」


 私を愛してくれた人。返事は、返らなかった。

 長い時間をかけ、ゆっくりと私達は階段を登り切った。地上にようやく足を踏み出すと、厳しい陽光が顔に照りつける。雨はいつの間にか止み、沙漠の空はからっと晴れ上がっていた。中庭は先程までの騒々しさもなりを潜め、ひっそりと静まり返っている。

 ドヴッジャイラは既に跡形もなく、その残骸すらも乗ってはいない。中庭のあちこちに泥水が溜まり、瓦礫の山が積み上げられているだけだ。

 熱気に廃物の輪郭はゆらゆらと揺れ、じっとりと汗が首の裏に滲む。私はクラエスをイーワーンの奥に座らせると、そのまま中庭の中心に向かって走り始めた。

 走る。走る走る。ただひたすらに。

 泥水に足場を取られ、何度か転びながらも。私は泥水や砂場に転ぶ死体を見ては、それが彼ではないかと立ち止まる。そして彼ではないことを知ると、再び走り始めた。瓦礫や柱廊の影を覗いては、彼がいないことに不安が掻き立てられる。


「ヨクトシア……?」


 巨大な穴に近付いた頃、私はその傍に横たわっている一人の男に目を留めた。

 ――ヨクトシアではない。ハル、だ。

 彼は延髄のあたりを切られ、その場で絶命していた。きっと彼の命を奪ったのはヨクトシアなのだろう。――どんな思いで、彼がそうしたのか。私にはわからない。

 中庭には点々と黒い染みが残されていた。血ではなく、もっと得体の知れないものだ。筋状の染みはいくつも残され、私はその一つを追う。塵芥の散乱する中庭は見通しが悪く、瓦礫の隙間を縫い、そこで私はようやく彼を見つけた。


「ヨクトシア」


 瓦礫に背を預け、ぐったりとしている。その姿に、全身から血の気が引くような心地がした。

 急いで駆け寄って、彼の前で膝を落とす。そして手を伸ばし、彼の頬に触れた。――まだ、温もりがある。それだけで、心がぎゅっと掴まれたような感覚がした。


「……ヨクトシア」


 彼の長衣(タウブ)は血と泥に汚れ、元の美しさを殆ど残していなかった。視線を走らせると、あちこちに深い傷を負っている。不安に張り裂けそうな胸を押さえ、ヨクトシア、と囁くように私は彼の名を呼んだ。


「ユリアナ……?」


 ふと、彼の睫毛が震えた。ゆっくりと瞼が開き、黒い瞳が覗く。

 彼は私の姿を認めると、まるで幻でも見たかのように驚いた表情をした。それからゆっくりと、薄い唇に笑みが刻み付けられる。


「よかった」


 それだけを、彼は言った。

 何がよかったというの――私はそう言いたかった。ヨクトシアは瀕死で、私は彼に謝罪も感謝も述べられてはいない。それなのに何故、彼はこんなにも満ち足りた表情をしているのか。私は苦痛に顔を歪め、ヨクトシアの目を見つめた。

 彼の腕が伸び、私の頬を包む。そして与えられたのは、微かに触れるだけのキスだった。血と砂と、そして涙の味しかしない口付け。


「ヨクトシア。ねえ、ヨクトシア……」


 彼の腕が落ち、瞼が落とされる。私の目にどっと涙が溢れ出した。

 彼の手を握り、私ははらはらと落ちる涙を地面にこぼした。慟哭が私の喉を震わせる。

 ひたすら肩を震わせる私に、誰かの手が伸びた。ぽん、と肩に乗せられた手にも気付かず、名前を呼ばれ、ようやく私は後ろを向く。そこにはイカルガと、イカルガの肩を借りたヒューの姿があった。

 イカルガは私の隣に腰を降ろすと、至極冷静にヨクトシアの脈を計る。そして私に向き直ると、にっこりと笑いかけた。


「大丈夫、まだ間に合うよ」

「本当に……?」


 言われて私も彼の手首に触れた。確かに、弱いながらもまだ脈はある。

 その事実に、私は再びくしゃりと顔を歪めた。死んでない。――まだ、彼が生きる余地はある。そのことがどうしようもなく、嬉しかった。


「……いいかい、ユリアナ。今すぐ遺構の外に出て、馬を飛ばすんだ。一番近くのオアシスまで行って、正規の医者を呼んできて欲しい。僕じゃあまだ役不足だからね。そしてその間に、僕が彼の応急処置をする」


 間髪いれず、私は頷いた。

 思いがけず灯った希望に、私はみるみる気力を取り戻した。遺構の位置関係は既に頭の中に入っている。全力で馬を飛ばせば、数時間のうちには戻って来られるだろう――今私が出来ることは、それくらいだ。

 私は足早に遺構の外へ向かおうとして、こちらを見つめるヒューの姿に気がついた。ふいに彼女がこちらに足を踏み出し、私の前に立ちはだかる。


「私も行きましょう。信用できないかもしれませんが――片腕では馬の扱いが難しいでしょうから」

「信用に足りないって点では僕も同じだろうけどね。ま、僕はもう目的は達成したし、ハルも死んじゃったから何のしがらみもない。安心していいよ」

「目的。……そう、よかったわね」


 そう言うと、イカルガは微かに笑んだ。

 手持ちの鞄を開き、その手はてきぱきとヨクトシアの治療をしている。一瞬彼女の瞳は憂いを帯びたが、それもすぐに掻き消されてしまった。


「結局、骨なんて探しても何も変わらなかった。彼は過去に生きたままで、僕たちはこの先も生きていかなくちゃいけない。それが分かっただけ、まあ、収穫だったかな」


 ちらりとヒューを見やったが、彼女の表情は影に隠れてわからなかった。時間がないでしょう、とそれだけを言うとヒューは先導するように歩き出す。きつく布で縛った肩は既に出血が止まっているようで、歩き難そうにはしているものの、割合元気そうだった。

 私は一度だけヨクトシアを振り返り、ヒューを追い抜くように走り出した。

 水分も蒸発し、沙漠にもたらされた雨の名残は消え行こうとしている。氾濫したサイルもただの枯河に戻るのだろう。そうして過酷な土地に縋りついてでも、人はまた生き始める。



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