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Lost Corner  作者: 八束
砂漠に降る雨
33/42

(3)

 ――ああ、私は……。

 ぼんやりと視界が褪せてゆく。

 後頭部を強く殴打されたような痛みが断続的に響き、鼓膜に炎のはぜる音が戻ってくる。口の中で砂と血の味がした。ぼんやりと薄い瞼を上げると、炎のうねる中庭が映る。


「ユリアナ。……ユリアナ」


 呼びかける声に私は幾度か目を瞬いた。

 傷だらけのクラエスが視界に映りこむ。その瞬間、私は一気に自分の意識が引き戻された。慌てて横たわっていた地面から身を起こす。どうやら、熱風に飛ばされたまま意識を失っていたようだった。


「クラエス、ヨクトシアは……」

「……彼なら大丈夫です。私達はこのまま制御室に向かいましょう。時間がない」

「……嘘よ。うそ、大丈夫だなんて嘘よ! ヨクトシアは死ぬつもりだわ!」


 中庭の端まで吹き飛ばされてしまったらしく、立ち込める煙と砂塵の渦にヨクトシアの姿は見えなかった。私はクラエスのシャツに掴みかかり、嘆願するように彼に縋りつく。


「ねえ、彼がヨルガなの? 彼が “見えない味方”だったんでしょう。ヨクトシアが、ずっと私を……守ってきたんでしょう」

「ええ、その通りですよ。全て、彼が仕組んだことだ。だからこそ、その思いに報いねばなりません。だからユリアナ、」

「嫌よ! 私、彼にひどいことを沢山言ったのよ! 彼は昔から何も変わってなかったのに。疑り深くなったのは私だわ。ねえ、クラエス。どうしたらいいの? 謝れないままなんて嫌よ。あの人が死んでしまうのはもっと嫌よ……」


 生ぬるい涙が頬を流れる。みっともないくらい、声は震えていた。

 虚勢も意地もプライドも、全てが私のからだから剥がれ落ちていく。ヨクトシア、と私は心の底から搾り出した声で叫んだ。私が、全部悪かったのだ。彼は昔と同じように、私に優しかっただけなのに。それを跳ね除けたのは、自衛ばかりを考えた私の愚かな心だ。


「死なないで……」


 その言葉に、ふと、クラエスが表情を変えた。

 彼が何事かを言おうと口を開く――その瞬間、私の頬に、何か冷たいものが落ちた。不思議に思って空を見上げると、鮮やかに晴れ上がっていたはずのそこには暗い雲が立ち込めている。

 一粒落ちたのを皮切りにしたように、勢いよく沙漠に雨が降り始めた。年に一度か二度くらいしか見られないはずの光景に、思わず私は目を見開く。


「……雨。サイルが氾濫するでしょうね」


 囁くようにクラエスが言った。

 彼は私を立たせると、剥き出しの短剣を片手に握り直す。あたりを見回して、それから静かに彼は私に笑いかけた。


「人には抗えぬ運命が多い。それでも貴方が運命を覆すというならば、私も手を貸しましょう。――まずはドヴッジャイラを自壊させなければいけません。そうでなければ、全てが終わってしまう」

「……ええ」

「ヨクトシアは強い男です。大丈夫、きっと生き残る。なんたって私の極悪非道スパルタ教育を乗り越えた男ですからね」


 びしょ濡れになりながら、クラエスが言う。私も素直に頷いた。

 雨はサイルを氾濫させ、人の命を奪う。それでも沙漠の民にとっては貴重な恵みでもある。結局自然は私達に微笑みかけも、罪を下したりもしない。そこに諦観するのも、希望を見出すのも人間側の勝手な事情なのだ。

 ――全て、全て乗り越えよう。それから、ヨクトシアに謝ろう。

 遠目に見えていた正規軍が、じりじりと陣を詰めるように私達に向かってきている。クラエスは短剣を構えると、低く身を屈めた。

 中庭の中心では絶えず爆発音が響き、雨の中でもその炎の弱まる気配はない。やがて黒い靄がそこに立ち上った頃、クラエスは足場の崩れた地を蹴った。



 ◇



「――お前が、俺を殺すのか。ヨクトシア」


 天に翳した半月刀を、即座に振るうことはできなかった。

 剣の攻防が続き、爆発の影響で幾度も形勢は変わった。それでもようやく義父を瓦解した建物の隙間にまで追い込み、とどめの一手を刺すところにまで漕ぎつけた。その頃には義父も戦意を喪失し、手に持っていた半月刀をその場に放り投げてしまう。


「ああ」

「まさか息子に殺されることになるとは思わなかったな。シャウエンで拾い、どこの誰かもわからぬお前を育てた恩を忘れたか」

「……恩はある。感謝だってしている、義父さん。だからこそ、俺は……」


 紫色の双眸と視線が絡む。

 ちりちりと、皮膚が焼けるような感覚がした。今、彼の中で渦巻いているのは憎悪か絶望か――俺にはわからない。ドヴッジャイラにそこまでの執着を持てなかった俺にとっては、結局理解ができないことだった。

 彼が憎いわけではない。間謀として皇帝直属軍に入り、ドヴッジャイラの真実さえ知らなければ、俺は彼に従っていただろう。そして彼の道を動かせないことに気がついて、こうして手を下そうとは思わなかっただろう。決して、彼が憎いわけではなかったのだから。


「だからこそ、俺は貴方の道を正せなかった俺が憎い。俺は貴方とよく似て野蛮な男でしかなく、こうして殺す以外の手段を見つけられなかったのだから」

「はっ、くだらねえ。所詮俺とお前は同じ穴の狢ってわけだ。諦めることだな」


 そう言い、義父は手を広げた。観念したとでもいう風に。

 俺は一度だけ奥歯を噛み、彼の姿を見つめた。――せめて最後の姿を目に焼きつけよう。彼を殺さなければ、結局このドヴッジャイラが生む負の連鎖は繰り返される。――逆に言えば、ドヴッジャイラが消失したならば、彼の人生はすべてが無に返るのだ。そちらの方がよほど悲惨な運命であることを、きっと彼自身が気付いている。カナンの民としての誇りと神を、一手に奪われるのだから。


「さようなら、義父さん。――さようなら」


 剣を振るう。

 飛び散った鮮血をあえて拭うような真似はせず、俺は背後を振り返った。深淵の闇をたたえた巨大な穴からは、いつのまにか黒い靄状の何かが立ち上っている。

 降り始めた雨に打たれながら、俺は周囲へと視線を走らせた。――さあ、残った仕事を片づけよう。最後の仕事は、彼女のための露払いだ。それが終わる頃には俺もまた、義父のもとへと行くのだろう。

 彼女はきっと大丈夫だ。俺が最初で最後、秘密を共有したあの最悪の剣士に守られているのだから。――今も、この先も、彼女はきっと生きて行く。俺なんかよりも、よっぽど相応しい相手と一緒に。



 ◇



 乾き切り風化していたはずの中庭は、今や泥水の中に埋もれようとしていた。

 視界は豪雨によって覆い隠されている。足場は悪く、水と砂の重みで思うように動くこともできない。もとから乾燥した砂漠での戦に適応している正規軍は、それだけこの環境に困惑しているようだった。反して、大英帝国という雨量の多い地で育ったクラエスの表情に変化はない。

 鎧の重みも、足場を必要とする大型の銃器もここでは仇となる。クラエスは敵が足場の確保に手間取っている間に距離を詰め、鎧の隙間を狙い、短剣であっさりいなしていった。そして私の手を引くと、後方に見えるイーワーンに向かって走り出す。私は足をもつれさせながらも、泥水の中を駆けた。ばしゃばしゃと水しぶきが立ち、重い砂が足元にまとわりつく。


「あれは……」


 ふいに、視界の端に映ったものに、私は目を瞬いた。

 庭の中心に先程まで立ち上っていた黒い靄が、何かの輪郭を形成しようとしていた。――その光景に、強い既視感を覚える。風が唸ったような鳴き声が響き、身をくゆらせる炎の中で、それは獣の体を成して行った。

 しかしそれを注視するような暇もなく、私はすぐに走ることに集中させられた。いまだ数の絶えない帝国軍を短剣の刃で払いながら、クラエスが走る。イーワーンのすぐ傍にまで迫ったところで、彼はその奥へと私を放り投げた。入り口を塞ぐようにして、私の前に彼が立つ。


「おそらく、ここに制御室の入り口があります。何かしらの仕掛けがあるでしょうから、それを探しなさい」


 半ば転ぶようにして床に膝をついた私は、その言葉に顔を上げた。クラエスは厳しい顔つきで短剣を構えると、あたりを警戒する。

 半球状に膨らんだ天井やタイルの剥がれ落ちた壁など、一見したところで不審な場所はない。私は片手で砂にまみれた床に触れる。仕掛け、と言われてもどんなものかさっぱり検討がつかない。それでも、見つけないわけにはいかないのだ。

 すぐ傍で剣の打ち合う音がする。敵方も銃を使用することを諦め、自らの得物を抜いたのだろう。クラエスのことを信用していないわけではないが、彼もそう長い時間は戦えないだろう。――何よりも、ヨクトシアのためにも、私は一刻も早く制御室に行かなくてはいけない。


「あっ……」


 闇雲に触った床のタイルの一つが、ふいに青白く発光した。

 呼応するように、周囲のタイルも光り始める。地面が小刻みに震えながら、底へと徐々に陥没してゆく。間もなく現れた地下への階段に、私はクラエスを振り返った。


 ――その瞬間、地も轟くような咆哮が響いた。



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