(1)
数時間後、船は目的地へと到着した。
「打ち合わせ通りだ。女子供はそのままアレクサンドリアの方の支部に向かえ。男共は遺構の外に出て、皇帝直属軍の相手をしてもらう。いいか、沙漠で狙撃されたらしまいだ。障害物の位置は頭に叩き込んでいるな? 狙撃で応戦しつつ、毒風が吹いたら強襲をかけろ」
二手に分かれた水路の中心に、先行していた船が集っている。
ランプの橙色の灯火にぼんやりと照らされ、立ち上がったハルがよく通る声を張り上げていた。どうやらこの言い振りだと、どうやら私たちはこのまま遺構に直行するようだ。
遺構第二〇二。ドヴッジャイラという名の兵器が眠り、十年前の悲劇を引き起こしたすべての元凶に足を踏み入れる時がやってきてしまった。その時を待っていたのか、自分自身でもわからない。ただ背筋に這い上がった震えが、頭のてっぺんから指の爪先にいたるまで冷たい緊張で満たしてゆく。
「遺構の内部には少数で向かう。合図が出たら、外の奴らは撤退しろ。他の細かいことは既に周知の通りだ。……幸運を祈る(ハッザン・サイーダン)」
ハルの言葉を周囲の人々が復唱する。さざめくように水路の空洞に無数の声が反響し、黒い水の中へと吸い込まれてゆく。
やがて船は示し合わせた通りに二手に分かれて流れ出した。私は凍えるような寒さも忘れて、じっと先の見えない闇を見据える。――本当に、これから遺構に向かうというのか。伴わない実感に、私は目を瞑った。
不安は尽きない。しかし、一つだけ確かなことがあるとしたなら――ここで私がうまく立ち回らない限り、私の未来はない。即ちそれは、クラエスの未来も無くなるということなのだ。あの言葉を、反故にしてはいけない。
ちらりと背後のクラエスを見やる。暗闇の中で彼の表情は定かではなかったが、その瞬間、私は彼が何かとてつもなく遠いものを見つめている気がした。茫漠と広がる黒い導水路の底に、何かが眠っているとでもいう風に。
「遺構の内部には俺とヨクトシア、イカルガ、そしてファランドールの小娘で向かう。それぞれの役割はわかっているだろう」
遺構に向かっていた船の集団が、さらに二つに割れる。
細い方の水路へ分かれたのは、私が乗っている船を含む三艘だけだった。それを確かめると、しんがりのハルが前方へ声を張り上げる。
「そんな少人数で? 皇帝直属軍だって内部に配置されているでしょう」
「皇帝直属軍の大部分は遺構の外で待機しているはずだ。そうでなければ、万が一ドヴッジャイラが復活した場合の脱出路が確保できない。……残り少数の人員は俺たちが捌く。我々の目的はあくまでドヴッジャイラの復活。それさえ成せれば、無駄に奴らの相手をする必要はない」
振り返ってハルを睨みつければ、彼は滔々と言葉を吐いた。
本当に、その言葉に勝算はあるのだろうか。胸の中で一瞬違和感が蟠ったが、それを吐き出すことはできなかった。確かに、カナン同胞団側とて、今後を考えれば無駄な犠牲は出せないのだろう――そう自分を納得させる。
そのまま暫く沈黙が続いた。そして緊張感を孕んだ静寂を破ったのは、今まで無言を貫いていたクラエスだった。
「私も。――私も、行かせてはくれませんか」
「残念ながら、お前を戦力にすることはできない。イーグルの青年よ」
「私が信用できないというのはわかります。なんせ、あの“裏切りの”イーグルですからね。……武器はいりません。私の役目はただ一つ」
クラエスの凛とした声が静寂を打つ。
私はハルを睨みつける彼の後姿をじっと見つめた。船が流れる際のかすかな風にゆられ、淡金色の髪が揺れている。
「――彼女の楯に」
白く息がけぶり、クラエスの言葉が吐き出される。
弾かれたようにヨクトシアが背後を振り返った。ハルは押し黙ったまま、クラエスの表情を見つめている。私は何も言えないまま、痛いほどに脈打った胸をぎゅっと掴んだ。盾なんて、そんな必要はない。私は衝動のままに叫び出したくなったが、それでは今まで装い続けてきたものが全て台無しになってしまう。代わりに、私は血が滲むほどに唇を噛んだ。
「ドヴッジャイラが制御することが目的ならば、その制御者たる彼女の身の安全が最優先でしょう。遺構の制御室に行くまでの間、私が彼女の楯になる。この身を持って、全ての害悪から守ってみせましょう」
「皇帝直属軍も下手にその小娘には手を出すことができない。その必要はあるのか」
「確かに、皇帝直属軍とて彼女に致命傷を負わすような真似はしないでしょう。それでも、万が一ということはある」
クラエス、と私は音にならない囁きを発した。私は貴方に生きてほしいと思うのに、それを自ら裏切るというのね――そう、言いたかった。しかし私は言葉を胸に秘めたまま、決定権を持つハルに対し、身勝手な願いを抱くだけだ。
「……わかった、認めよう。ただし武器は与えない。そして、これだけは自覚しておけ。ユリアナ・ファランドールが生きようが死のうが、本来我々カナン同胞団には関係がない。今はただ利害が一致しているからこそ、その小娘を生かしているのだということを」
まるで善意で生かしてやっている、というような言い方だ。
裏を返せば――下手なことをしたならば、躊躇なく私を殺すと彼は言っている。一度彼の協力を断っている彼としては、確かに私は信用ならない相手なのだろう。今更、どんなに取り繕おうとも。
船はどんどん狭くなる水路を進み、やがて開けた場所へと漕ぎつけた。遥か上にある天井から、真っ白な光がこぼれ落ちている。いつの間にか日が昇っていたのだ。光が漏れ出す箇所からは、腐りかけたような縄梯子が下げられている。
寒く冷たい、暗闇からの出口だ。同時に、あれこそが遺構への入り口なのだろう。
「クラエス・イーグル。お前が先導しろ。――出でた瞬間に撃ち殺されるかもしれないがな」
「笑えない冗談ですね。どうせ、皇帝直属軍の連中は私に対する恨みつらみが溜まっているでしょうから」
船の上でクラエスが立ち上がる。
そして一瞬、彼は私に笑いかけた。――笑みともわからないような、微かなものだったが。
怪我をしていることを感じさせない様子で、するするとクラエスは縄梯子を上っていった。私は息を詰めてその光景を見守る。
光の中に消えたクラエスは、数秒を置いて合図を出した。光の中に浮かんだ影の形で安全ということを読み取る。声もなく頷くと、今度はヨクトシアがクラエスの後を追った。彼の手を借りて私もなんとか梯子を上り切り、イカルガ、ハルと続く。地下には、船の番をする同胞団の一人だけが残った。
――途端に、熱風が体に吹きつける。
地下の独特の閉塞感から解き放たれ、目に痛いような青空が視界に広がった。沙漠の清涼な空気と、太陽の匂い。渦をなして舞い上がった砂塵が、あちこちに散在する瓦礫に打ちつけられている。元は美しい建造物の体を成していただろうその場所は、いまや見るも無残な廃墟と化していた。
「ここは……」
しかし私はその光景に心を奪われた。
崩れかけた柱廊の群れ。壁にほどこされた青いタイルは剥がれ、黄色い砂の中に埋もれている。窓代わりとなった白大理石のスクリーンは、以前のような美しさを保ってはいない。――けれどもその光景を、私は知っている。きっと建物の内部に立ち入れば、もっとよく実感することだろう。ここは、私が訪れた遺構第〇〇一と同じなのだ。――悪夢で見続けた、あの場所。奇妙な感慨が、胸の苦しいような切なさが、私の心に満ちてゆく。
「ここは水場で、遺構の中枢には遠い。元々ここは高度宗教の礼拝所だったから、その名残だな」
私たちが出てきたのは、どうやら主要建物の外にある井戸だったらしい。外とは言っても遺構自体が四方を高い壁に囲まれているため、その内側には位置している。
銃を抱えたハルは周囲を見回し、敵影がないことを確認した。恐ろしいほどの静けさだ。本当に皇帝直属軍がいるのかどうかも定かではない。一歩踏み出せば、どこかの障壁の裏から撃たれてもおかしくはない状況だったが。
「建物内部の構造はそう複雑じゃない。中庭にそれを囲む建物、イーワーンの奥から続く制御室。十年前の自体であらかた崩れてしまったがな」
「それじゃあ、まずはイーワーンを目指すの?」
「ああ。だが――」
ハルが言葉を続けようとした瞬間、ふと、瓦礫の破片が踏まれる音が響いた。
咄嗟にハルが銃口を音の方向へと向ける。――視線の先は、私の背丈の倍はあるだろう建造物の瓦礫だ。それは熱気に微かに輪郭をゆらしながら、無言で砂地に佇んでいる。
たっぷりと間を置き、その影から何者かが現れた。ひらり、と黒い生地が風に膨らむ。さらりと流れたのは、赤蜜色の髪。
「ヒュー……」
銃口を向けられながらも、彼女は悠然とした態度で私達の前まで歩を進めた。淡青色の双眸が無表情に向けられる。
ヒューは部下の一人も連れず、単身で私達の前に立っていた。――それがどれほど異常な状況か、わからないわけではない。
「ごきげんよう、皆さん。今日は毒風の良く吹く日ですね」
「……黙れ、御託はいらない。なぜお前が一人でここにいる」
「簡単なことですよ。部下は全て外に置いてきましたから」
ヒューは微かな笑みを口元に湛え、何でもないことのようにそう言った。
武器を抜く気配すらない。まるで飾り物のように、彼女の腰に半月刀がぶら下がっているだけだ。――敵意はない、とでも言いたいのだろうか。それにしては彼女の様子はおかしい。
「……イカルガ。ドヴッジャイラの復活まで、あとどれくらいだ」
「本部を脱出する直前に確認したら六時間ってとこだったから……。あと、一時間くらいかな。大分派手にここが爆破されたみたいだからね。奴もたくさんエネルギーを食べてそろそろお目覚めってとこかな」
そうか、と短くハルが頷く。その焦点は変わらずヒューへと絞られていた。
「帝国のサロメ――宿業の女。……いい加減、自分達も帝国の駒に過ぎねえって気付いたのか?」
「気付く? 何を言っているのですか。――駒であることは、重々承知のこと」
「十年前の事故が全て仕組まれていたってこともか」
ええ、とヒューが言葉少なに返した。
ハルの言ったことに、驚いたのは私の方だった。――仕組まれていた? 彼は、何を言い出すのだろうか。そんな私の視線に気がついたのか、ヒューがそっと目を伏せた。
「十年前――無害な産業技術の遺構として、遺構第二〇二はファランドール家に帝国から払い下げられました。その本来の危険性を隠した上で。偽の情報を元にファランドール家はこの遺構を起動した。帝国もそれを理解した上で研究員を送り、事故が多大なものになるように画策した」
「……それも、“抑止力”として?」
「ええ。同時に、帝国もドヴッジャイラという未知の兵器を持て余していたのです。だからこそファランドール家にそれを払い下げ、全ての責任を押し付けることにした。それだけのことです」
「だったら、」
搾り出した声は掠れていた。
だったら、十年前に亡くなった人たちは?ヒューの言葉を受け取ると、彼らは無意味の犠牲なのだ。スヴェン兄さんも、ミナツキと呼ばれるイカルガの兄であり、ヒューの恋人も。衝撃に胸が打ち震える。足元が、ひどくおぼつかなくなる。
「スヴェン・ファランドールを“不慮の事故”で殺し、幼い少女に後継の立場をすげ替える。そして帝国の傀儡にすれば、すべて思い通り。――まあその思惑は現当主に悟られて、うまくいかなかったようですが」
「……帝国のやりそうなことだな。結局、あいつらは自分の手を汚さないように、どう戦争をうまくやるかしか考えちゃいねえ。いつかその思惑がひっくり返されるってことを、考えもしない」
ハルは銃の引鉄に指をかけ、まっすぐヒューの頭部へと据えた。
ヒューは応えるように、薄く笑んだ。――この二人は、何を考えているのだろう。この中で、十年前の事故を経験した彼らだけに通じる何かがあるとでもいうのだろうか。砂塵が巻き起こり、それはやがてヒューの表情を覆いつくした。
「なあ、疲れたんだろう? 自分を犠牲にして、イーグルの宿命に、永遠に帝国の駒として生き続けることに。俺はそこまで酷な男じゃねえ。ここで楽にしてやろう」
「……そうですね。十年前、ミナツキを失ってから――私は生きる意味が見出せずにいた。ただ、ずっと、帝国に復讐をしたかった。けれどもその勇気すら、私にはなかった」
強い苦味を孕んだ言葉が、ヒューの喉を震わせる。砂埃が消えると、彼女は苦渋を滲ませた表情を、ふと緩ませた。長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が落とされる。
その瞬間、ヒュー、と痛切な叫びが耳朶を打った。
クラエスが前に踏み出そうとして、自らその足を止める。彼は真っ直ぐにヒューを見据え、それから堪えるように一瞬、瞳を瞑った。
――銃声が響く。
唸るように風を切りながら、弾丸が発射される。鮮血が宙に飛び散り、声もなく、ヒューが地面に膝をつく。彼女の口元には、深い笑みが湛えられていた。
暫くの間、誰一人として身動きをしなかった。やがて漏れ出すように響いたのは、押し殺された嗚咽。右肩を撃ち抜かれたヒューが、恨めしそうにハルを睨みつけていた。
「どうして、殺してくれなかったのです……どうして、」
淡青色の瞳の端から、透明な雫がこぼれ落ちた。
涙は白い頬をたどり、地面に淡い染みを作る。照りつける太陽はすぐに水分を蒸発させたが、それでも涙の跡は乾くことがなかった。
「丸腰の人間を殺す趣味はない。……イーグルの当主よ。お前はお前で、生きて地獄を見ることだ」




