(3)
その後クラエスに色々問い質したものの、胡散臭い笑みでほとんど煙に巻かれてしまった。
「貴方はおとなしく帝都に連行されればいいのですよ」
「それで死ねって?」
「そうですね。貴方は死刑でしょうね」
あっけらかんと言ったクラエスに、私はむっと唇を尖らせる。
気を落ち着けようと、私は一度深呼吸した。沙漠に出れば病は治ると言うほどはあって、沙漠の空気は清涼だ。視線を移した先で、沙漠の夜はそろそろ明けようとしている。
「貴方は相当悔しいと思いますが」
「よくわかっているわね」
適当に答えながら、私は手綱を握り続ける手の痛みに目を細めた。長い間の振動で、お尻もかなり痛い。
「なんで平穏な暮らしを送ってきた私が、謂れのない罪を問われなくちゃいけないのよ。世の中は理不尽だわ。悔しいどころの話じゃない。私には何の責任もないのに」
「ほう?……本当にそうですか?」
「何が言いたいのよ」
「貴方には何も責任がないと言った。けれどもユリアナ、それは本当でしょうか」
謎かけのような言葉だったが、責任も何もないだろう、と私は思う。自分のしたことの責任は持っても、謂れのない罪に責任を持つ必要なんてないはずだ。
「ま、そうですね。貴方の境遇には同情しますよ。それでいて気丈に振舞うのだから凄いものです。貴方くらいの年頃の少女だったら、泣き喚いていてもおかしくない」
そういうのは趣味じゃないのよ、ともごもごと口の中で私は答えた。
夜が明けきったところで、休息にしましょうか、とクラエスが言った。彼は適当な岩陰を選ぶと、馬に運ばせていたテント道具を持ち出した。気温が上がり切ってしまう前に寝床の準備をするつもりなのだろう。
断熱性の高いヤギの毛を密に織った布を金属の支柱で固定し、下に敷物を敷いて小規模な移動式テントを作る。テント部分になる布には、ご丁寧にも帝国軍の紋章が一緒に織られていた――こういうのも支給品なんだろうか。
身の丈をすっぽり覆う外套を着たまま作業をすると、だいぶ汗もかく。しかし外界の気温は既に体温を超えているので、脱ぐこともできなかった。
「お嬢様のお口に合うかはわかりませんが」
テントの中でようやく腰を落ち着けた私に、クラエスが差し出してきたのは携帯食料だった。
そういえば昨日の夕方から何も食べていないのだった。今更のように空腹感を思い出すと、同時に疲労感もどっと染み渡った。無言で受け取ってまじまじとその携帯食料を見下ろすが、何かを油脂で固めたものらしい。とりあえず口に含んでみたが、無味だった。
「日没に出発すれば、夜中にはカイロにつくでしょう。それまでは寝ててください。ちょこまかされるだけ迷惑ですから」
もごもごと食料を咀嚼する私に向かい、クラエスは胡散臭い笑みを浮かべて言った。 外では一応クラエスとヨルガが交替で見張りをするらしい。不本意ながらも罪人である私は任を逃れたようだ。見張りに向かったクラエスと入れ替わるように、ヨルガが中に入って来る。
彼は相変わらず黒い甲冑姿で、テントの中でも兜を脱ごうとはしない。そういえば声を聞いたこともないな、と思いつつも私は外套に包まって隅で転がった。
テントの中では沙漠の暑さも幾分か和らぐ。寄宿舎のベッドとはまったく違う、下に砂を敷いた感触。これもこれで中々気持ちがいい。私は眠気に誘われるまま、とろとろと瞼を落とした。意識が蕩けてゆく中で、ヨクトシアがどこからかやってきて、私を連れて去ってくれる夢想が浮かんだ。しかしそれもすぐに潰え、私の意識は底に沈む。
―――夢を見た。またあの夢だった。
私は荒野に立っている。空に星はない。ただべっとりと塗りつけたような暗い紫が天を覆っている。地平線では、ちらちらと炎がうねっていた。
これは小さいころから見続けた、たわいのない悪夢。
それでも今日見たそれは、今までのものと、少しだけ違った。
クラエスからドヴッジャイラの話を聞いたせいだろうか。そこには一匹だけ、見たこともないような生き物がいた。沙漠の荒れきった荒野の中、風に煽られることもなくどっしりと構え、こちらを見つめる生き物が。
その金色の双眸と視線が絡んだ瞬間、私の胸では懐かしさだとか、悲しみだとか、焦燥だとかそんな思いが一気に綯い交ぜになって溢れ出した。
そこで夢は終わった。私は飛び起きて、テントの天井を見つめていた。
全身は汗だくで、いつも異常に呼吸は乱れる。言いようもない恐怖が全身を覆い、鳥肌が止まらない。
「……また、あの夢……」
私は何に怯えているというのだろう。
左腕を掴み、私は這い上がる冷たい恐怖に耐えた。それでも寒気が去らないのに、温もりを求めて外に飛び出した。まだ日は落ちておらず、頭上では浩々と太陽が照っている。
頭を陽射しに焼かれ、そこで私は外套を羽織ってくるのを忘れたことに気づいた。それもまあ少しの間だけだし、大した問題はないだろうと思ったのだが――突然ばっと上から布を被せられ、私は思わず目を見開いた。
面を上げてその正体を確かめれば、背後にヨルガの姿があった。驚きにつんのめった足では砂上で踏ん張ることはできず、私は背中から彼に寄りかかっていた。
「あ……」
ヨルガはすぐに顔をそらすと、興味を無くしたように私から離れてしまった。その姿を呆然と見送りかけ、私はふと思い出したように乾燥した唇を開いた。
「……太陽に食われてしまう?」
その言い回しにヨルガは足を止めた。
「貴方も沙漠の民なのね。……カナンの民かしら?」
ヨルガは答えることがなかったし、特に私の言葉に反応することもなかった。
沈黙を守るその黒い兜を一瞥すると、私もすぐに彼から視線を逸らす。少し、気まずかった。別に今、あの男のことを知る必要なんてこれっぽっちもないのに、私何をしているのだろう。私を謀反者扱いする彼らに良い面をする必要などない。
「おや、どこに行くのですか?」
その声に私は顔を引きつらせた。
いつのまにか正面にはクラエスが立っていた。どこかに姿を消していたと思ったのだが、まったく神出鬼没である。
「よ、用を足そうと思ったのよ。別に逃げるつもりなんてないわ」
「そうですか。ではついて行きましょう」
「……は? 何でついてくるのよ。逃げないって言っているでしょう」
「言葉とは信用ならないものですし、私には一応監督責任というものがありますので」
最悪だ。適当に言い訳を並べ立てるべきではなかった。クラエスは変わらず胡散臭い微笑を浮かべ、何を考えているのかまったくわからない。が、容疑者にプライバシーというものは存在しないと遠回しに言われているのは確かだった。
「嫌よ。大体男とテントが一緒というのだけでも生理的に嫌なのよ。男同士ならまだしも、少しは私が女性ということを配慮してほしいのだけれども。……それとも何? そういう趣味なのかしら」
「失礼ですね。貴方のような乳臭いガキに、これっぽっちも興味なんてありませんよ。ユリアナ、貴方こそ自分の立場を弁えたらどうですか? 罪人は罪人。こちらとしては、最大限の配慮を図っているつもりですよ」
「まだ容疑者よ! それにどこが配慮よ、プライバシーの欠片もないじゃない」
反駁の言葉とともに私が一歩後ずさった瞬間、ふと何かを踏んだような感覚がした。同時に、激痛が片足に走る。
ちょうどそこはテントを張った大きな岩の陰で、砂のほかにも小石などが散乱していた。そして私が踏んだそれは、日没の気配に誘われてちょうど石の下から這い出したばかりの――サソリだった。
「……いっ、」
すぐに立っていられなくなって、私は砂上に屈みこんだ。
どうしよう、と頭を働かせようとするが思考は泡のように呑み込まれてゆく。震える唇を噛み締め、その隙間から私は呻き声ともつかない声をもらす。
クラエスが何か頭上で言ったようだが、それも聞き取ることができない。強引に片足を取ると、彼は突然持っていたナイフで私の足首を裂いた。
ぼだぼだと血の溢れる傷口にクラエスは唇をあてがうと、毒に回り始めた血を吸い出し始めた。そんなことをしたら彼も毒に感染してしまうんじゃないだろうか、と私は思考の散漫とした頭でぼんやりと考える。
ただその瞬間焼きついたクラエスの表情が、心底嫌そうだったのが妙に癇に障った。その感情も、意識を呑みこもうとする激しい奔流の中で消える。私は目を閉じて、ふっと自分の身体から力が抜ける瞬間を味わった。
◇
瞼が重い。倦怠感とともに、私は泥のような眠りから目を覚ました。
視界に映ったのはほの暗いテントの天井部分だった。まどろみの中にあった意識は徐々に冴え渡ってゆき、この場所がどこであるかを私は思い出す。
身を起こせば、鈍い痛みが片足に走った。サソリに刺されたのは左足だったらしい。包帯の巻かれた素足をためしに動かしてみるが、歩けないほどではなさそうだった。
「おや、遅いお目覚めですね」
涼やかな声に、緩慢な動作で視線をさ迷わせる。テントの隅に寄りかかるようにしてクラエスの姿があった。
彼は敷布の上に弾丸を広げて、ナイフでその先端を僅かに削っていた。その所作は慣れたもので、彼は手元を動かし続けながら言葉を続けた。
「こうすると殺傷力が上がるんですよ。きれいに貫通するんです。いやらしいでしょう?」
「……別に聞いてないわ」
「それともファランドールのお嬢様でしたらご存知でしたか」
なんの淀みもなくクラエスは言ってのける。私は顔をしかめた。
「うちはただの商人よ。……そうじゃなくて、今日は何月何日?」
「ハディージャ暦光水晶月の三日。貴方が眠りこけていたのはまる1日くらいですね。幸い毒はすぐに抜けましたから、後遺症も残らないでしょう」
クラエスの言葉にひとまずは安堵する。
「それで? 命の恩人にお礼の言葉もなしですか、貴方は」
そういえば、そんなことになっていた気もする。
サソリに刺された時の記憶は正直あやふやだが、確かにあの時一番近くにいたのはクラエスだった。そうして記憶を手繰り寄せるうちに、足の痛みは彼がナイフで切り裂いた痛みだということにようやく思い至る。
つまり、彼の言う通りクラエスは私の命の恩人になるのだが、ここで素直に礼を言うのも癪だった。
「……毒なんて吸い出して馬鹿じゃないの」
「こちらとて、腐っても軍務に就く者ですからね。耐性を持つための訓練をしていますから、考えなしにやった訳ではありませんよ」
「……そう。ご苦労様なこと」
毒に対する耐性を持つだなんて、クラエスは簡単に言ってのけているが、もしかしたら相当厳しい訓練なんじゃないだろうか。皇帝直属軍というのも大変らしい。
私はしばらくそっぽを向いたまま、クラエスと視線を合わせなかった。クラエスはどれほど私が冷淡だったり横柄だったりする態度を取っても、眉ひとつ動かしはしない。学院の教師や生徒だったら怒ったり嘆いたり、何かしらの反応は見せるのに。
「……まあ、一応お礼は言っておくわ。ありがとう」
クラエスのあの発言からたっぷり間を置いて、私はようやく感謝の言葉を述べた。それでもクラエスの表情は変わらず、何を考えているのかいまいち分からない。
「それは結構。……足は動きますね? 予定は一日ずれましたが、一つ時には出発します。今夜中にはカイロに」
「聞き忘れていたけど……、カイロには何の用があるの?」
「……まあ、そうですね。強いて言うならば、会わなければいけない人間がいるのですよ」
クラエスの言葉は意味深だった。
しかしそれを問いただす暇もなく、クラエスは弾丸を腰布に収納すると、さっさとテントの外に出てしまった。テントの中に一人残された私は、僅かに光の漏れるその出口をずっと見つめていた。
そして日が落ちた。解体したテントの荷を馬に積み込む途中で、ふと私は天を仰いだ。銀朱色の空に、夜が少しずつ幕を下ろしてゆく。気の早い星がその光を滲ませる中、気温も徐々に下がり始めていた。
「……あれ」
薄暗くなってゆく空を、ゆっくりと鳥が旋回している。
すぐにどこかに行くかと思ったその鳥は、しかし何を思ったのか私たちのはるか頭上に滞空し続けていた。いつのまにか隣に立っていたクラエスが、目を凝らしてそれを識別する。
「ハヤブサですね。鷹狩り用でしょうか」
濃い灰と白の斑になった両翼を広げ、ハヤブサは滑空する。飼い主の下に戻ってゆくのだろう。そのままどこかに消えて行く姿を見つめながら、私は硬く脈打った左胸を無意識に押さえた。脳裏に、いつか幼い日の記憶が――左腕にハヤブサを掴まらせたヨクトシアの姿が浮かんだ。それも鳥の姿を目で追えなくなったところで掻き消える。
その後間もなくして私たちは出立し、夜中にはこのアフリカ大陸最大の地方都市カイロに到着した。