(5)
ひとまずは私とクラエスの安全を保障する、という当初の目的を達成した。それから幾らか皮肉じみた言葉の応酬を交わして、私はようやく尋問のようなこの環境から開放された。扉の外に出ると、少し冷やされた空気が頬を撫ぜる。
重い緊張感からようやく放たれて、私は長い溜め息をついた。思い出したように足元から這い上がってきた震えに、私は苦笑を禁じえなかった。
「……ユリアナ」
再びあの先の見えない階段を上っていると、先導するヨクトシアが私の名を呼んだ。民族衣装に包まれた広い背中が、ランプの燈明の中でぼんやりと浮かび上がっている。
ヨクトシアは階段の途中で足を止めると、鷹揚な動作で私を振り返った。灯りに掻き乱される闇の中、彼の表情には深い陰影が落とされている。
「嘘が、上手になったな」
「真実よ。何を言い出すの?」
私は咄嗟に言い返していた。
ヨクトシアの黒い双眸に射抜かれた途端、焦燥が私の胸の中で激しい渦を巻き始める。ここで嘘が露見してしまえば、私の達成したはずの目的もすべて台無しになる。どうにか取り繕うと表情を貼りつけたところで、ヨクトシアは見透かすように目を細めた。
「別に、頭領にそのことを言うつもりはない。俺とて、お前をむざむざ殺されるような真似はしたくない。……ただ少し、驚いただけだ。俺の記憶の中のお前は、いつまでも不器用な少女のままだったから」
「またそうやって幼馴染を気取るつもり? 同情ならいらないわ」
囁くように紡がれたヨクトシアの言葉に、私は低い声音を返した。
「……そうだな。もうお前は、少女ではなかった。そうあるにはあまりにも多くのものを失ってきたのだから」
それが何を指すのかは明白だった。
しかし彼がそう言葉を口にする真意が掴めずに、私は苛立ちを篭めてヨクトシアを睨みつける。どれだけ冷たくあしらおうとも、決して態度を変えようとしない彼が腹立たしかった。――一瞬、何も知らなかったあのころに戻れてしまったような錯覚すら覚えてしまう。だからこそ、余計にヨクトシアのことが憎くなる。失ったと思ったものを、差し出すような真似をしてくるのだから。
暗闇の中で、ヨクトシアの表情が微かに揺らぐ。
片腕がないためにバランスを取り辛い私のために、ヨクトシアはあらかじめ私の右腕を握っていた。それを握る手に力が篭もる。黒曜石のような瞳は、何か懐かしいものを見るように私を見下ろしていた。
「時は残酷だな」
この瞳を、私はいつか見たことがある――それは末期を見据える老人の目だ。何か私ではない、もっとずっとずっと遠くにある透明なものを見ようとする瞳。 どうして彼がそんな目をするのかわからずに、私は呆然とヨクトシアを見上げた。反抗する意志すらも芽生えてこない。ただ、胸を焦燥に似た予感が占めて行く。
手が振りほどかれる。私は無意識に伸ばした指先で、彼の頬に触れていた。あの頃から変わらない体温に、胸が突かれたような思いがする。けれども次の瞬間、はっと我に返った私は彼から手を離していた。
「行くぞ」
ヨクトシアはそう短く言い、再び上階に向かって歩き始める。
私は一種の気まずさを抱えたまま、彼の後を追った。上階に灯る明かりが徐々に近づく。暗闇の中の階段を抜けて、ようやく元の階に辿り着いたと思ったら、私は壁に背を預けてこちらを見る存在に気がついた。
「こんにちは、ヨクトシア。ちょっとそこの彼女、借りてもいいかな?」
丈の長い白衣を着崩したイカルガは、悪戯っぽく片目を瞑って言った。
「かまわないが、俺もついていく」
「ええっ。ちょっとくらい良いじゃん、ケチだなあ。――ま、別に良いけどね。どうせ君、大抵のことには無関心な野郎だし」
すっと瞳を細めたイカルガは、まあおいでよ、と私に向かって手招いた。――丁度いい。私も彼女に問いたださなければいけないことがある。
そうは思ったのだが、ヨクトシアが着いてくる分には何も口を開くことができない。私はどうしたものかと考えあぐねつつ、白衣の裾を揺らして歩くイカルガの後を追った。
ランプを片手に持ち、闇を掻き分けるようにして彼女は階段を進んでいた。私が先程ヨクトシアに連れられて入ったのとは別の階段である。地下は様々な階層に分かれているらしく、さほどの深さを潜ることはなくイカルガは私たちを彼女の目的地へと導いた。
足を踏み入れた廊下は狭苦しく、等間隔で弱い燈明が灯されているだけで薄暗い。あちこちにコードや機械類の破片が散乱し、耳を澄ますとどこからか羽音のようなものが微かに響いていた。お世辞にも手入れをされているとは言いがたく、空気は地下なのも相まってかなり埃っぽい。
「カイロの路地も迷い込みやすいけど、ここも大概そうだよ。古代の地下水路の上に築きあげた遺構だから、かなり古いし、無闇矢鱈に増改築を繰り返したせいで人知れぬ道も多い。ちゃんと着いてこないと遭難するから気をつけてね」
「そういうお前が一番迷っている気がするが」
「え~。だって僕、帝国出身じゃないから、こういう複雑な道に慣れてないんだよ。まっ、僕の生まれた上海も大概ゴミゴミしてたけどね」
危なっかしく道を辿りながらも、イカルガは一つの扉の前に来て立ち止まった。見上げると、私の背の倍はありそうなくらいに大きい。鉄製の表面にはいたるところに赤錆が群していた。
「じゃ、ヨクトシアはここまでね。僕はこの中でユリアナとお話をするから。――ここから先は関係者以外立ち入れないの、知ってるでしょ?」
「……聞いていない。話なら別のところでもできるだろう」
「色々あるんだよ、企業秘密ってものがね。この先はここ以外の出口なんてないし、何かあったら鍵を壊して飛び入ってきてもいい。なんなら僕が武器を持っているか検めてみる?」
滔々と紡ぎ出されたイカルガの言葉に、ヨクトシアは目を細めた。暫く間を置いて、いいや、と短く低い声が続く。イカルガはぱっと表情を明らめると、私の片腕を握って意気揚々と扉を押した。
薄暗い廊下に慣れていた目が刺激される。扉のむこうに足を踏み入れてすぐ、視界に広がったのは真っ白な空間だった。先程までの薄汚い地下とは打って変わり、清潔感に満ちた部屋の中央には円形の台座が置かれ、その上にはなにやらよくわからない巨大な機械が鎮座していた。その正体を問うてみると、イカルガは制御施設、とだけそっけなく答えた。
「まったく、あの男も心配性だね。君も愛されたもんだね?」
「何言ってるの? あれは単純に、道具としての私が大切なだけでしょう。付け加えるなら、私を生かしているのはただの同情」
「そうかな? ……君も大分擦れたもんだね。あれ、前からだっけ」
笑み含みの声で言いながら、イカルガは壁にもたれかかった。
「……それで、何の用なの」
「君が僕に聞きたいことがあるかなあ、って思って。――カナン同胞団に君たちの目的を知らせなかったの、おかしいって思ったでしょう?」
いつまで経っても本題に入ろうとしないイカルガに焦れて言うと、彼女は肩を竦めた。素直に頷きを返せば、彼女はさっと目を伏せ、私から視線を逸らした。
黄色味を帯びた指先で、イカルガは前髪を掻き揚げた。そうだなあ、と逡巡するように短い言葉が続く。
「皇帝直属軍本拠地に行ってたのが露見したらやばいってのもあるけど。まあ、なんだろうなあ。――所詮、ドヴッジャイラがどうなるかなんて、僕にとってはどうでもいいからね。君たちやカナン同胞団の目論見がどうなろうとも、僕には関係がない。だから言わなかった」
「貴方はカナン同胞団に協力しているんでしょう? 何故そんなことが言えるの」
「言っただろう? 僕の目的は一つだけ。あの遺構に兄さんの骨を探しに行ければ、それでいいんだ。カナン同胞団に加わったのは、その手段に過ぎない。……あとは、そうだな。僕みたいに、最後の肉親を失った君を可哀想に思ったからかな?」
彼女の言葉に、私はぐっと奥歯を噛みしめた。
「よく、そんなことが言えるわね。……兄さんを殺したのは、貴方たちでしょう」
「複雑に絡み合った利害の結果だよ。悲しいね、ユリアナ?君は君の兄を殺したカナン同胞団に膝を折らなくちゃいけない。兄を殺したも同然のヨクトシアに同情をされなくちゃいけない。人生というのは、どうしてこんなに悲劇と苦難に満ちているんだろうね」
今まではクラエスの生死に関わる問題があったから、その憎悪も忘れていられていたのに――イカルガの言葉は、私の胸底に燻るそれを的確に抉り出そうとしているようだった。翡翠色の双眸が、まるで悪意に煌いているように見える。
私は、兄を殺した彼らに膝を折ったのだ。内実はそうでなくとも、客観的に見ればそうなってしまう。私の胸を埋め始めたのは屈辱と、それを抑制しなければいけない理性。ぎゅっと拳を握り締め、私はイカルガをねめつけた。
「……憎いだろう? だから、君は見返してやればいいんだ。全てを欺いて、その目的を手にすればいい。所詮、僕にとってはどうでもいいからね」
しかし、ふとイカルガがその表情を変えた。悲しいのか苦しいのか、判別のつかない表情だ。彼女は組んだ手元を見下ろし、静かに息を吐いた。
「僕がカナン同胞団に与したのは、僕が移民だったからだ。この帝国では、実力主義を謳えども移民の地位は低い。どんなに泥を啜って這い上がっても、名も知られぬような国からの移民であることの負い目はついて回る。その点では、憎まれ者のカナン同胞団の居心地はよかった。――でも君は違う。君は帝国人で、ファランドールだ」
僕と君は違うんだ。
そう言いながら、イカルガは面を上げた。彼女は悲しそうに、顔を歪めていた。
イカルガの意図が掴めず、私は目を瞬いた。私の当惑のこもった視線を背に、彼女は緩慢な足取りで中央の台座へと歩み寄る。その小さな手のひらが、曲線を描く機械の表面へと添えられた。
「つまり、君のすることに目を瞑ろうってわけさ。僕は君があの遺構で何をしようがかまわない」
「……どうせ、何か条件があるんでしょう」
「単純なことさ。君も僕のすることに目を瞑ってくれればいい。目的を果たしたら、僕は頃合いを見てこの同胞団を離脱する。このカナン同胞団に未来はない。過去に縋りつくだけの連中なんて、唾棄されて然るべき存在だよ」
それは、貴方も同じでしょう――言いかけた言葉は、声を伴う寸前で私の中に押し留まった。ここでイカルガの逆上を誘っても仕方がない。彼女は肩を竦めると、自分の傍へと私を手招いた。
台座の上にひっそりと居座る機械は見上げるほどに高く、私が両手を広げても足りないくらいの幅を持った球体だった。表面はつるりとして光沢を放ち、中ほどには繊細な紋様がエッチングされている。その紋様に対してイカルガが手を翳すと、一瞬にして青い光が溝の中に満ちた。
光は徐々に耀きを増していったかと思うと、突然、球体の上に大きな映像が出現した。目を凝らすと、どうやら何かの地図らしい。独特の方式で引かれた地図上には無数の点が散り、その一点だけが青く点滅していた。
「ここは遺失文明時代の研究施設でね、カイロ周辺の遺構を一括して監視していたんだ。遺構、というよりも――このあたりに存在したものは、すべて兵器の製造工場さ。今は遺構第二〇二を残して焼失してしまったけどね。ほら、あれ」
そう言われて見れば、確かに見覚えのある地形だ。イカルガの言葉が本当だとしたら、彼女が指す点はまさにその遺構第二〇二ということになる。
「この施設をカナン同胞団が乗っ取ったのは本当に偶然。以前からそういう制御施設があるってのはわかっていたらしいんだけど、帝国もファランドールも見つけられなかった。同胞団側も扱いに難儀して、そこで雇われたのが僕ってわけ」
「どうして貴方が、そんな技術を持っていたの? それに、ここが制御施設なら――ドヴッジャイラもここから制御できるんじゃないのかしら」
「僕は単純に、兄さんの知識を受け継いだだけさ。ちなみにこの施設は僕が直したところで、稼動期の半分も復旧できなかったんだ。できることと言ったら、せいぜい遺構第二〇二の状況を把握するぐらいだね」
イカルガは慣れた様子で、紋様の前で複雑に手を動かした。
映像が切り替わり、今度は何かの建物の遠景に切り替わる。同時に、私にはまるで理解ができないようなグラフやアルファベットの羅列も浮かび上がった。しかしそこで手品はおしまい、とばかりにイカルガは全ての映像を消してしまう。
「ま、君もがんばることだね。方向性は違うけど、お互い生き辛い世の中だ。せいぜい、見くびられない程度には上手く渡っていかなきゃね」
これで話は終わりだよ、とイカルガは肩を竦めた。




