(3)
「我々カナン同胞団と共に来い。身の安全は保障する」
ヨクトシアは黒い瞳でじっとこちらを見下ろしている。
そして突然私たちに歩み寄ったかと思うと、白い衣服の裾が血に汚れるのも厭わずにクラエスの前で片膝を落とした。傷を丹念に観察すると、彼は真っ直ぐに私を見据える。
「体内にまだ弾が残っている。このままだと出血が止まらなく、危険だ。……どうする」
「……クラエスを助けて。条件を呑むわ」
迷っている暇はなかった。
皇帝直属軍を退けたところで、その反対勢力であるカナン同胞団と手を組んだのでは意味がない。それでも今は、クラエスを助けられる選択に頼らざるをえなかった。
ヨクトシアは私の言葉に、そうか、と短く返した。そしてふっと目尻を和らげたかと思うと、彼の顔には微かな笑みが浮かんでいる。伸ばされた褐色の手は、振り払う暇もなく私の頭に置かれた。
「よくがんばったな、ユリアナ」
「――――っ、」
何故、昔のような態度で彼は接してくるのだろう。私が当惑に視線を彷徨わせていると、いつのまにか彼の手は離れていた。
ヨクトシアはもう私を見てはいなかった。火を起こしてくれという指示が出されて、動揺しつつも慌てて簡易ランプを荷物の中から探し出す。僅かに残っていた固形燃料で火を起こすと、彼は腰から抜いた小剣を炎にかざした。
おそらく剣で弾を抉り出すつもりなのだ。舌を噛まないように口に布を銜えさせようとしたところで、ふと深層をたどっていたクラエスの意識が醒める。
「……ヨクト、シア。……因果なもの、ですね」
「クラエスさん、話は後だ。弾を抜きます」
「布はいりませ、ん。それくらい、耐えられる」
わかりました、とヨクトシアは持っていた布を地面に捨てた。
クラエスの白い額には苦痛のためか脂汗が滲んでいる。私はせめてと思ってその汗を拭った。彼は一度堪えるように堅く目を瞑る――それを合図にしたかのように、ヨクトシアが片手に握った小剣を傷口にかざした。
押し殺されたかすかな呻き声が、一度だけ響く。ヨクトシアは差し込んだ刃で的確に彼の腹部を探ると、ほとんど間を置かずして弾丸を取り出した。横に置いた皮袋から包帯を取り出すと、傷口を圧迫するように手早く巻いてゆく。目を逸らす暇もないほどの、鮮やかな手順だった。
「ここでは応急処置しかできない。本拠地に戻ったらイカルガがいるから、このまま移動しよう」
「……ええ」
弾を指で弾いて捨てたヨクトシアは、有無を言わせぬ態度でクラエスを片腕で担ぎ上げた。こうして見ると、白人種であるはずのクラエスがヨクトシアよりもよほど華奢であるのが際立つ。
ヨクトシアは戸口に立って私を振り返ると、ふいに余ったもう片方の腕を差し出してきた。
「片腕がないのは歩きにくいだろう。手を」
「……大丈夫よ。一人で歩けるわ」
そう強がってみるものの、腕一本分の質量がないというのは意外にも不便なものだった。体の重心は偏るし、なによりも感覚として慣れない。そんな私の様子を見て取ったのか、ヨクトシアは強引に私の手を引いた。
◇
随分長い間こと歩かされ、月が傾いた頃に、ようやく私たちはカナン同胞団の本拠地へと辿りついた。進むほどに闇の濃度が増すような狭い路地の果てにある、石造りの廃屋へと。
足を踏み入れて廊下を通り過ぎ、広間のような場所に出る。中ではひしめき合うようにカナンの民たちが各々の格好でくつろいでいた。何十対もの目が私たちを凝視する。私は一瞬その場へと視線を走らせたが、あのハルとか名乗った頭領やイカルガの姿は見当たらない。ヨクトシアはそこに留まることはなく、私たちを地下へと連れて行った。
「イカルガを呼んでくる」
地下の奥まった一室に辿りつき、クラエスを簡易ベッドの上に寝かせた上で、ヨクトシアはそう言ってどこかへと姿を消した。
私は彼の寝台の前で膝を落として、顔色の悪いクラエスを見つめた。熱が出ているのかもしれない。彼の瞼は落とされたままで、深い眠りについているようにも見える。包帯はじわじわと新しい血が滲み始めていた。
きっと目が覚めたならば、彼は怒るのだろう。それでも私は自分の判断が間違っているとは思いたくなかった。彼自身にどう言い含められていようとも、私は天秤にかけられた命を捨てたくはない。兄のように、また失いたくはなかったのだ。
弾を処理するために、あらかじめクラエスのシャツは裂かれていた。そこから露になった白い肌のあちこちに、私はたくさんの傷痕があることに気がつく。そのほとんどが既に治癒したものだったが、皮膚が盛り上がり、僅かに変色したものが多い。弾痕や切り傷、細かいものを合わせると数え切れないほどだ。
「……サイルには敵わない、ね」
彼が幾度ともなく口にした文言が、私の頭に蘇る。
未来などない、いつ死んでもかまわない。そう言ったクラエスが奥底に抱えるものは、きっと私には想像が及ばないほど冷たく暗いものなんだろう。白い皮膚に点々と残る傷痕を見つめながら、私はそのことについて思いを馳せた。
◇
クラエスはその晩、高熱を出した。
今まで超然として剣を振るう姿しか知らなかった私にとって、彼がこうして銃創を負って、こんなにも苦しむ姿は衝撃的なものだった。結局クラエスだって枯河の氾濫にも抗うことのできないような、人間の一人に過ぎなかったのだ。
「ユリアナ」
クラエスの横たわる寝台の前で膝をついた私に、ヨクトシアが声をかける。
振り返ると、彼は扉の前で神妙な面持ちをして立っていた。クラエスの傷という心配事を抜きにして、今もっとも私を困惑させているのは、この彼なのかもしれない。私は答えることはなく、じっとその黒い瞳を仰いだ。
「いい加減、寝たらどうだ。疲労も溜まっているだろう。クラエスさんは俺が見ておくから」
そうやって私を労わる言葉をかけるヨクトシアは、記憶の中の彼と寸分狂わぬものだ。だからこそ、余計に戸惑う。
私は居た堪れなくなって、柔く唇を噛んだ。ヨクトシアが私を謀反の共謀者として仕立て上げた、というのは確かにクラエスの偽りだったかもしれない。けれども、彼が皇帝直属軍を離反し、こうしてカナン同胞団に与していたことは抗いようのない事実なのだ。それなのに彼は、帝国官僚として立場を偽っていた当時からの態度を変えない。
「別に、貴方が私を気遣う必要なんてないでしょう」
「……ユリアナ。そう冷たいことを言わないでくれ。俺にはお前たち二人をこちらに引き込んだ分、その安全を保障する責任がある」
「引き込む、ね。ねえ、ヨクトシア。貴方は最初からそのつもりだったの? イェルド兄さんに連れられて、私に初めて会ったその日から。それとも、イェルド兄さんに出会ったその時から?」
寝台横に置かれた真鍮製のランプがぼんやりと闇を掻き乱すだけで、ヨクトシアの表情の細かいところまではわからない。けれどもその瞬間、彼ははっきりと顔を歪めた。煩悶、苦渋、悔恨――様々な感情が綯い交ぜになった表情で、彼は違う、と掠れた声で囁いた。
「それは違う。イェルドと親しくなったのは、単なる偶然だった。お前に会ったのもその延長線上に過ぎない。そのつもりでは、なかったんだ」
「……信じない、信じないわ。そうやって、私が今までどれほど騙されてきたと思う? 裏切られてきたと思うの? 結局、貴方も……私を、ずっと騙していたんだわ」
ユリアナ、と消え入りそうな声でヨクトシアが呼ぶ。
私はクラエスを庇うように、残った片腕を広げて後ずさった。こちらを見下ろすヨクトシアの双眸を睨みつける。じわりと視界の隅が霞む。
「そうやって幼馴染気取りで、優しさを振りかざさないで。どうせ貴方も兄さんやイカルガみたいに、過去の、未来の私を裏切るのよ。目的の道具としてしか扱わないのよ。ヨクトシア、私は貴方なんか信じないわ」
「ユリアナ、違う。俺はそんなつもりは……!」
「嘘でしょう、だったらどうしてあの瞬間に逃がしてくれなかったの。結局こうして私はカナンの巣窟に来るしかなくて、貴方はそれで満足なんでしょう。大切な道具が手に入ったから」
ユリアナ。一瞬、ヨクトシアが私の名を叫んだ。
私には、どうして彼がそんなに苦しそうな顔をするのかがわからなかった。これではまるで、私が彼を傷つけてしまったようだ。ずっと傷つけられてきたのは私だというのに。
いっそ。いっそ、もっと冷酷な態度で私に接してくれたならば――私はひと思いに、諦めきれたのかもしれない。これが人間の性なんだと。
「……ユリアナ。わかってくれなくてもいい。俺はお前を裏切るつもりではなかった。それは今でも、未来でも変わらない。……それだけは、覚えていてほしい」
そう言って、ヨクトシアは寂しげに笑んだ。
おやすみ、と小さな声が続いてヨクトシアが出て行く。私はその姿を見送ることはなく、膝を抱え、じっと顔を伏せていた。腕一本分の質量が欠けているはずなのに、体がひどく重苦しい。冷たい床にそのまま縫い止められてしまったように、私は微動だにもできなかった。
いっそのこと、ここで泣き叫ぶことができたならばよかった。しかしそうするには私の理性は頑強だったし、ヨクトシアの表情を思い返すと、涙腺は動かなくなってしまう。代わりに、何か大きな間違いを犯してしまったような、ばつの悪い感覚に襲われた。
その感覚を振り払うように、私はずるずると身を起こした。規則的な呼吸を繰り返すクラエスの横顔を見つめ、思い出したように額の布を変える。
「クラエス」
囁くように彼の名を呼ぶが、反応は返らない。
「……はやく、貴方が起きてくれないと。私もどうしようもないわ」
処置をしたイカルガが言うには、感染症を起こさない限りは治癒に向かっていくらしい。憎たらしいことにこの男は生命力が強いだろうさ、と言っていた彼女の横顔が浮かぶ。
こうして傷を負って寝込むクラエスにさえ、縋ることしかできない自分はあんまりにも無力だ。人の意識がないのを良いことに、私は彼の節くれだった手をそっと握った。白い手。厚くて硬い皮膚に、薄い爪。それでも確かに体温がある。
ふと、思い出したのは、残滓のようにかすかな昔の記憶だ。幼い私が、ヨクトシアと手を繋いで沙漠を歩いた思い出。彼の腕からハヤブサが飛び立ち、鮮やかな青空に両翼を広げて滑空してゆく。あの時の彼の手の感触も、きっとこんな感じだった。あの頃は、あの手にすべてを委ねることが、何も恐ろしくはなかった。
そんな記憶を思い起こしながら、私は眠りについた。