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Lost Corner  作者: 八束
血の代償
26/42

(2)


 夜明けを迎えたばかりだというのに、カイロの大通りは相変わらずの活気に満ちていた。

 ラクダや馬を引き連れた行商人が、砂埃を立てながら往来を行き交う。ヨーロッパとの取引も多いカイロの性質上、白人であるクラエスが悪目立ちすることもない。彼は一時の住処となる場所への道すがら、銃撃で裾がぼろぼろになった外套を見せてくれた。


「こちらも装備が整っていたらやり返したんですけどねえ。というかあの狙撃手の腕の悪さは、私の部下だったら一から教育をやり直すレベルですよ」


 などとぼやいているが、その声に皇帝直属軍を懐かしむ色は滲んでいなかった。単純に、相手の腕の悪さを嘆いているように見える。

 大通りから路地に入り、何度か複雑に道を行き交った後、私たちが辿りついたのはカイロの中でも奥まった位置にある街区だった。中心を貫くナイル川からも離れているため、大通りと違って活気にも乏しい。いつかさ迷ってイカルガと出会った時と、似た空気を感じる場所だった。

 一時の住処としてクラエスが選んだのは、その街区にある長屋の一室だった。中庭を中心として四方を部屋が取り囲む、帝国ではごく一般的な形態の建物である。外は高い石壁に囲まれ、内部に入るには扉一つしかないため秘匿性が高い。侵入者は必ず中庭を通らならず、敵を悟りやすいという利点もある。壁と壁が圧迫するようにひしめく路地を通り、その長屋にたどり着く頃には、太陽もすっかり高い位置に昇っていた。


「暫くはここで潜伏しましょう。このあたりは人種の坩堝で、戸籍のない者も多いですから、そうそう悟られはしないとは思います。一定期間を置いたら別の場所に移りますがね」

「……襲撃される危険性は?」

「ブローカーが漏らさない限りは、まあ少ないでしょう」


 それでも先方が買収されてしまったら駄目でしょうけどねえ、とあっけらかんとクラエスは言う。私は新しい住処となった殺風景な部屋を見渡し、そう、と短い言葉を返した。

 確かに絶対の安全は有り得ないだろう。随分と猜疑的だが、私がそうならざるを得なくなったのも仕方ないだろう。それだけ私たちの劣勢は明らかなのだから。

 それから私たちの奇妙な共同生活は始まった。

 基本的にヨルガかクラエスの一方は昼間外に出ているが、私は特にこれといってすることがない。外出ができるのは共同浴場(ハンマーム)に行く時くらいで、それ以外の時間を私はほとんど屋内でじっと過ごしていた。当然、暇だ。

 暇を持て余し中庭を眺めていると、丁度外出先からクラエスが帰ってくる。入れ替わるようにヨルガが外に出て行くのを見送って、クラエスは私の横に腰を降ろした。手渡された一冊の本の頁をめくると、粗い紙面に踊るのは無数のアルファベット。


「逃亡生活で英語も忘れてしまったかと思いましてね」

「まあ、確かに。付け焼刃だったし、忘れていることも多いと思うわ」


 英語は遺失技術の制御言語の一つだ。帝都に戻った当初、私はクラエスに言われるままにこの言語を学んでいた。しかし騒動の中でそれも忘れ去られ、結構な空白期間が開いてしまっている。それに英語を学び直すのは、暇を潰すのにもちょうど良さそうだった。

 そう思って、何かの文献らしきその書物に目を落としていると、ふとクラエスが私の脇腹を小突いた。集中していたところを邪魔されたため、私はむっとして彼を睨みつける。


「発音はどうですか? 遺構は音声制御が主ですよ」

「発音……」

「試しにそこの一文を読んでみてください」


 指された一文に目を通し、それを読み上げてみる。

 すると今度は矢のようにクラエスの指摘が飛んできた。さすが英国出身らしく、彼が手本として読み上げる英語は流暢に響く。それを真似して発音を試みたが、クラエスの表情は相変わらず芳しくない。


「だからRとLの発音は違うと言ったでしょう。アラビア語の、あの訳のわからない鶏の首を絞めた時のような発音はできるんですから、これくらいできるでしょうに」

「それは母国語だからよ! 英語とはまったく言語体系が違うんだから、一緒にしないでちょうだい」


 二人で言い合いながら、発音の修正を試みていく。教え方の傲慢さは癇に障ったが、彼の指摘は明確で飲み込みやすかった。

 そうしている内に時間は流れ、中天にあったはずの太陽はいつのまにか沈もうとしていた。紫色の残光が中庭を淡く染め上げる中、ふいに、クラエスは弾かれたように背後を振り返った。

 彼の指が、床に置かれた半月刀の柄を握る。それだけで、私はこれから何が起きようとしているのかを悟ってしまった。

 外は徐々に薄暮の青い闇に包まれようとしている。あたりは不思議なくらいの無音で、猫の鳴き声ひとつも聞こえない。それが一層周囲の不気味さを引き立て、私は不安に激しく胸が掻き立てられるのを感じた。

 ゆっくりとクラエスが立ち上がり、中庭へと通じる扉の前に立つ。彼は一言も発さず、周囲へと緊張を走らせているようだった。白い指が半月刀に触れ、滑るようにして鞘が床に落ちる。


「下がっていなさい、ユリアナ」


 逃げ場はどこにもない。

 どこにも逃げることはできない。

 私は無言で頷き、部屋の隅へと後ずさった。頭の中でぐるぐると駆け巡るのは、いつかのクラエスの言葉。――あの選択を、私はここで迫られてしまうのだろうか。

 そして扉が開いた。その僅かな隙間から、何かが投げ込まれる。瞬時にクラエスがその導火線を踏もうと足を伸ばすが、時は遅く周囲に白く濃い煙が立ちこめる。煙幕だ。クラエスの後姿はたちまち見えなくなり、私はむせぶような煙の量に口元を覆った。

 間を置かずして、扉のむこうから複数の人間の気配がなだれこむ。皇帝直属軍だろうか、それともカナン同胞団だろうか――それすらの判別もつかない煙の中、私はせめて自分の気配だけでも押し殺そうと、じっと壁に背を押し付けた。視界を奪われ、ここで頼りになるのは聴覚くらいだった。煙幕の強い薬品臭に、嗅覚は早々に麻痺している。 喧しい金属音に、クラエスのものではない呻き声。それが暫く続いたかと思うと、今度は数発の発砲音が響いた。戦況がまるでわからない中、私はひたすらに不安を掻き立てられていた。


「……っ!」


 ふいに、横から強い力で引っ張られる。

 クラエスだろうか、と一瞬思った考えは打ち消された。その頃には煙幕もようやく薄れ始め、室内の視界も明瞭さを取り戻しつつあったのだから。

 素地が剥き出しになった床には、血溜まりと軍服姿の複数の人間が倒れ伏している。その中央で髪を乱したクラエスが、半月刀を片手に佇んでいた。服のあちこちも汚れていたが、見る限り怪我はなさそうだった。

 そして彼に向かい合うようにして、一人の軍人が私を盾にして立っていた。周囲を見渡す限り、その男だけが唯一の生き残りのようだ。


「さすがイーグル家、皇帝直属軍最強の御仁なだけはある」


 男は真っ直ぐ銃口をクラエスに向けながら、勿体ぶった口調で喋った。


「だがこの小娘を、ファランドール家の娘を連れて逃げるには無理があったということだ。貴殿の目的はこの娘という道具がいなければ達成できない。すなわちそれが弱点になる」

「そうですね。その通りです。……それで、貴方方はどうしたいのですか?」

「今回我々に課せられた任務はこの娘の奪還に過ぎない。そしてクラエス・イーグルは離反者として、皇帝直属軍の抹殺対象になっている」

「なるほど。どちらにしろ、その少女の命は保障されるのですね」


 クラエスは肩を竦め、片手に持っていた半月刀を床に捨てた。地面の血が跳ね、金属音を立てながら剣が落ちてゆく。


「……投降する気か?いくら貴殿ともいえ、命は惜しいか」

「いいえ? 何を勘違いなさっているのか。――ユリアナ、決めなさい。皇帝直属軍に匿われれば、貴方の命の安全性は保たれるでしょう。それを理解してもなお私と一緒に来たいなら、それなりの尽力はします」


 貴方の意志を尊重しましょう、と何でもないことのようにクラエスは言った。

 皇帝直属軍の元に戻るか、クラエスと共に行くか。その選択肢自体は、あの日クラエスが私に手を差し出した時のものと同じ。けれども今、その時とは明らかに状況は違った。銃口を向けられたクラエス。きっとどちらの選択をしても、彼は撃たれてしまうだろう。

 クラエスは私の答えを待っている。淡青色の双眸は、まるで湖のように静かだ。どんな答えも甘受すると言うように、何のしがらみもない。


「……もう一つ選択肢があるはずよ。貴方の嫌いな皇帝直属軍に一泡吹かせてあげられるような」


 余計なことを言うなとばかりに、私を抱える男が睨みつけてくる。それでも怯む余裕はない。私は心の中で言葉を吟味しながら、クラエスを真っ直ぐに見据えた。

 日は既に落ちきり、完全な闇があたりを満たしている。それでも開いた扉からこぼれる微かな星明りを反射して、クラエスの髪は淡く耀いていた。


「貴方の弾丸は、よく、貫くのでしょう? 先端を削れば殺傷力が上がるって、いつか言っていたもの。……それが私の答えよ」


 私の言葉に、クラエスは薄く笑った。そうですね、と微かな囁きが返る。

 私が篭めた意図を、彼が明確に汲み取ってくれたかはわからない。平気な振りをして、心臓は強く脈打っていた。ぎゅっと握った拳は汗を孕んでいる。

 ――そしてクラエスが、ホルスターから抜き出した銃を私に向けた。


「……逆上したか、クラエス・イーグル!」


 男が、クラエスが、引鉄に指をかける。そして二つの発砲音が重なり合った。

 金色の薬莢が宙を舞う。白い煙がたなびき、弾丸は目にも留まらぬ速さで私へと向かってくる。その瞬間を、私は固唾を呑んで見守った。

 そして弾丸は、私の腕を貫く。――私の左腕を。人工皮膚を抉り、中に詰まった精緻な機械部品をことごとく破壊し、そして突きぬける。なおも失速することはなく、クラエスの放った弾は私を抱える男の胸へと到達した。

 すべてはほんの数秒の出来事だった。気がつけば私は解放され、床に膝をついてへたりこんでいた。男は弾を食らい、絶命してその場に崩れ落ちている。


「クラエス」


 あるべき重みがなくなったような感覚だった。

 半壊した義手を引きずって、私は地面に座りこんだクラエスの元へ辿りつく。呼びかけに答えるように、彼は私を見た。――その顔には、強い苦悶が浮かんでいる。

 私は息を呑んだ。声のない悲鳴がこぼれ落ちる。視線を彼の下へと向ければ、生成りのシャツがぐっしょりと赤く濡れていた。撃たれたの、とようやく発せた問いに、彼は頷いた。彼の腹部を中心として、血がじわじわと押し広がっている。


「……逃げなさい、ユリアナ」


 彼の声は、いつになく掠れていた。額に汗を浮かべながら、それでも平静を保とうと彼は笑い、逃げなさい、と念を押すように言う。


「い、嫌よ。貴方をここに置いていくなんて、」

「このまま、私と共にいる方が危険、です。……すぐに皇帝直属軍の、後援がくるでしょう。その前に……」


 そこでクラエスの言葉は途切れた。

 先程よりもぐったりとして、地面に崩れ落ちる。弱々しい呼吸が唇の隙間からこぼれ落ち、顔色はかすかに青ばんでいる。私は彼のそんな様相を見つめ、足元から強い震えが這い上がるような気がした。

 どうしたらいい。どうしたら、彼を助けられる。このまま彼を置いて逃げるという選択肢は、私にはなかった。だって、ずっと私を守ってきた人間なのだ。――ここで見捨てるなんて、できるはずがない。

 腹部の血は止まらない。もしかしたら、体内に弾が残留したままなのかもしれない。頭の中が真っ白になって、私は動揺に思考を止めた。ただ震える手で彼のシャツを握る。手が生暖かい血に汚れてゆく。

 ――その時だった。

 不穏なほどの静寂をかき乱すようにして、誰かの足音が響いた。咄嗟に顔を上げれば、戸口に誰かが佇んでいる。


「――彼を助けたいか?」


 夜風に揺れる、黒い髪。ひらり、とまとった白と極彩色の長衣(タウブ)の裾が翻る。腰にある大振りの半月刀が月影を照り返し、その者の容貌をぼんやりと浮かび上がらせていた。短い黒髪に、黒い瞳。褐色の肌。


「取引をしよう、ユリアナ。彼の命を賭けた取引だ」

「ヨクトシア……?」


 ――ヨクトシア・ルッガーフ・ファラディーン。

 そこにいたのは、かつて皇帝直属軍を離反し、カナン同胞団に与した男。

 そして私の、最初で最後の――幼馴染みだった。

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