(1)
青く点滅する光、視界を埋め尽くす。
かつては祈りを捧げる場として静穏に満ちていた屋内に、ゆらゆらと陽炎のように立ち上る黒い影。それは初め獣の形をとり、やがてさらにその輪郭を変容させてゆく。獣から人へ、人から巨人へと。
その黒い靄の中、煌く一対の黄金の双眸。――視線が、私を射抜く。
◇
「うなされていましたよ」
意識が醒めると同時に、耳に飛び込んできたのはクラエスの声だった。
不規則な揺れが再び眠気を深めていこうとする。しかしその誘惑を振り切って、私は向かい合ったクラエスを見やった。彼は窓のへりに肘をつき、退屈そうな表情を浮かべていた。その膝には、読みさしの本が乗っている。
「……別に。いつもの悪夢よ」
「悪夢?」
「沙漠に一人ぼっちで取り残されているのよ。昔からよく見るの。変な生き物がいたり、私は砂を掻き分けて何かを探していたりするのだけれども……。まあ、ただの意味のわからない夢ね」
説明しようと試みても、結局は要領を得ない答えになってしまった。
クラエスは興味がなさそうにそうですか、と一言述べたきりだった。しかし少し間を置いて、彼は本の紙面に目を落としたまま口を開く。
「……遺構第二〇二は、カイロ郊外の沙漠のど真ん中にあります。何もない荒野に、ぽつりと寂しく。貴方は事故の記憶を喪失しているかもしれませんが、心の底では覚えているのかもしれませんね。だからその夢に恐怖を覚える」
クラエスの言葉が、正しいのか判断する力は私にはなかった。けれどもそう言われて納得する節があるのも確かである。というのも、夢の中の探し物に心当たりがあったからだ。私があの日失ったという片腕。無意識に左腕の付け根に触れながら、私は再び目を閉じた。
列車はそろそろ終点である地中海東岸の都市へと辿りつこうとしていた。そこから今度は海路でアフリカ大陸に渡り、アレクサンドリアを経由してカイロへと到達する。皇帝直属軍からの襲撃はあの日以降なかったが、クラエスが言うには最も危険なのはアフリカ大陸に到達してからだそうだ。航海までは皇帝直属軍側の協力者(ヨルガが存在するように、皇帝直属軍も一枚岩ではないらしい)が手引きをするが、カイロには皇帝直属軍の拠点である上に、カナン同胞団の勢力範囲でもある。両勢力の板挟みになるのは必至だろう。
私とクラエスの共通の目的は、ドヴッジャイラの破壊。カナン同胞団は彼らの神として復活させることで、帝国の後押しを受けた皇帝直属軍の目的はドヴッジャイラの維持。現状では明らかに皇帝直属軍側が圧倒的に有利だろう。双方の計略をどう切り抜けるかなんて、現段階ではまるで思いつかない。
「……ユリアナ。変な顔をしていますよ。元から変ですが」
クラエスの声に弾かれたように私は顔を上げた。
「これからのことを考えていたのよ」
「たまには懸命なことをするのですね。……しかし、今後については考えるだけ無駄というものですよ」
「そこまで余裕な態度でいられる貴方が信じられないわ……」
溜め息まじりに言葉を返せば、クラエスは僅かに口角を上げた。何が面白いというのだろう。思わずむっとして、私は唇を尖らせた。
「そうですね。では、今後について一つだけ言っておきましょう。――何かがあったとき、貴方は自分のことを最優先に考えなさい」
しかし返ってきたのは、予想に反して真剣な言葉だった。私は息を呑み、数秒経って、ようやくその言葉の意味を理解する。何があっても、たとえクラエスやヨルガが窮地に陥るようなことがあっても、私は自分の身を最優先すること。そう受け取って問題はないはずだ。
「私やヨルガは、たとえ皇帝直属軍を離反しようとも――所詮は戦場が住処、未来など用意されていない存在です。けれども貴方は、ファランドールという帝国を左右しかねない一族の後継だ。……私と貴方では、まるで身分の差も、命の重みも異なるのです。貴方の命は貴方だけのものではない」
「……命の重みが異なる、なんて。そんな、自らを卑下してまで言うこと?」
「事実です。我々は捨て駒にすぎない。――貴方は今後のために、そのことを理解しておくべきでしょう。そう遠くない未来、貴方はきっとそうして多くの命を切り捨てる。上に立つ者としてね」
クラエスの口調は厳しく、一切の容赦もなかった。
私は俯き、スカートの襞をぎゅっと握り締めた。無意識のうちに、噛み千切りそうな勢いで唇を噛みしめながら。
なんて、ひどいことを言うのだろう。それはクラエス自身を貶める言葉だ。せめて、ドヴッジャイラを理由にすればいい。ドヴッジャイラは私にしか制御ができないのだから、いざというときは自分を振り切れと。納得はできない。納得はできないが、その方がまだ道理だろう。しかしクラエスはあえて、ああいった言葉の選び方をした。そのことが無性に、悲しかった。
ふいに、クラエスの指先が伸び、私の唇に触れる。至近距離に迫った瞳はまるで宝石のようだ。ともすれば意識を呑まれかけるほどに美しい。
「――わかりましたね?」
囁くように、クラエスが問う。
どうしてそんなに優しい声を出すのだと、私は泣きたくなった。けれども何もできない。何もできないまま、耐えるように瞼を閉じた。
――きっと遠くない未来、その選択が迫られる日がやってくるのだろう。
◇
予想に反し、その後は何事もなく私たちはアフリカ大陸にたどり着いた。
夜半にアレクサンドリアの港に荷を下ろし、私はクラエスに連れ出されて以来、四ヶ月半ぶりにその地に降り立った。髪を嬲る潮の匂いを含んだ風、波止場に打ち寄せる黒い波。無数の星が瞬く空を見上げ、私はここに至るまでの時を思う。――本当に、色々なことがあった。
無意識のうちに女学院の方向を見やっていて、私は思わず溜め息をついた。私はもう二度とその門を潜ることはない。あの箱庭で思い描いていた幻想は全て打ち砕かれてしまったのだから。
「ユリアナ。突っ立っていないで、カイロに向かいますよ」
クラエスの呼びかけに我に返り、とっさに背後を振り返る。
二人の姿は、波止場に足を留めたままの私から既に離れた位置にあった。地元商人と取引をしたのか、闇の中からヨルガが連れてくるのは鞍を設えた二頭立ての馬だ。――二頭?
どういうことだと思ってクラエスを見やれば、彼はああ、と思い出したように説明を加えてくれた。
「今回は前回と違い、急ぎの旅路なので。貴方一人だと馬の扱いが下手ですから、私と一緒に乗馬していただきます」
「……下手で悪かったわね」
「まあ、授業で習った程度なら仕方ないでしょう。馬やラクダの扱いは、所詮慣れですからね」
芦毛のアラブ馬の手綱を引き、クラエスは肩を竦めて言った。
彼は腰のカンテラに光を灯すと、私をまず馬の前方に乗せた。その後ろにクラエスが跨ると、ちょうど背後から抱きすくめられるような格好になる。そのことに気恥ずかしくなっているうちに、馬は前進を始めてしまった。
二頭の馬が夜の沙漠を駆ける。
アレクサンドリアの街並みは闇に溶けこむように、あっという間に見えなくなってしまった。あたりは茫漠とした先の見えない暗闇だけが広がり、カンテラの明かりがちらちらと近い視界を照らす。馬の蹄が砂を駆る以外、話し声の一つも響かない無音が続き――だからこそ、その音は明確に耳に届いた。
ひゅう、と空気の抵抗を受け、何かが飛ぶ音がする。至近距離で聞こえたのはクラエスの舌打ちで、同時に彼は前傾姿勢を取った。押されて私も身を屈める格好になる。
「……狙撃ですね」
「狙撃? 一体どこから……」
「五時の方向、一般の狙撃手であれば半径一キロ圏内でしょう。おそらく皇帝直属軍の差し金かと。このあたりは幸い岩場ですから、このまま切り抜けましょう」
クラエスは鞭で馬の尻を打つと、巧みに手綱を操って砂場に転がる岩と岩の間に入ってゆく。それを追うように立て続けに空気を切る音が響くが、幸い私たちにも馬体にも当たることはなかった。
実弾は岩を抉り、あたりに破片が散らばる。次にどこに弾が飛んでくるかわからないという恐怖に、私の胸は早鐘を打った。クラエスの外套の中に身を隠しながら、知らず息を詰める。
そうして暫く岩場を縦横無尽に駆け巡っていると、やがて狙撃の音も絶え、沙漠の静寂が戻ってきた。クラエスも安堵からか手綱を握る力をゆるめると、後続のヨルガを振り返る。その安否を確認し、彼は長い溜め息を落とした。
「岩場でなければ危ないところでしたね。沙漠は開放的ですから、狙撃手にとっては格好の狩場ですよ」
確かに沙漠は遮蔽物が極端に少ない分、相手にとっても狙いやすいだろう。場所が場所だったら、どこかで撃たれていてもおかしくはなかったかもしれない。そう思うと、知らず背筋が冷える心地がした。
クラエスやヨルガが撃たれた場合、私はどうしたらよいのだろう。私は確かにファランドールの後継という立場にあるかもしれないが、彼らに守ってもらわなければただの無力の小娘だ。銃の撃ち方も、医療技術の一つも心得てはいない。彼らに頼らなければ、何一つとして満足にはできない。今沙漠に放り出されたら、きっと生き抜くことすらできないだろう。
砂塵が巻き上がる。天を見上げると、月はすっかり中天から離れていた。もう二、三刻すれば空も白み始めるのだろう。
「ねえ、クラエス」
囁くように頭上の人間の名を呼べば、何ですか、と抑揚のない声が返ってきた。
「あまり不用意に喋ると舌を噛みますよ」
「大丈夫よ。少し、聞きたいのだけれども。……もし生きるか死ぬかの瀬戸際に立った時、貴方はそれでも生きようって思う?」
「おかしなことを聞きますね。……約束の限りであるならば、私は生きようとするでしょう。それを果たしたならば、私はいつ死んでもかまわないと思っていますよ」
彼の目線はきっと沙漠の青い闇を見据えているのだろう。
私はその言葉にどう返していいのかわからなかった。
「私は無力で、貴方たちに守ってもらわなければ何も十分にできないわ。それなのに――私よりよっぽど、知恵も力がある貴方がそう言うのはおかしいわよ」
「貴方は生きなければならない。それだけの価値がある。けれども私にはそれがない。同時に、私にはどうやっても未来を切り開く力がない。……言ったでしょう、私の根底にあるのはただの諦観だと」
――サイルには敵わない。脳裏に浮かんだのは、沙漠の民の言葉だ。私はそれを抗いようのない権力を形容するために使ったが、クラエスの場合はそれこそ、人生に横たわる茫漠とした闇を見据えたための言葉だったのかもしれない。人間の手には負えない、もっと大きな何かに対する諦め。
「貴方はその誰かさんとの約束を果たしたら、死ぬつもり?」
返事はなかった。
後はただひたすら無言が広がる。そうして馬を駆り続けて一晩、沙漠の空が白みきった頃、私たちは目的地であるカイロへと到着した。