(7)
遺構は兄の立体映像が消滅すると同時に、その様相を一変させた。タイルの剥がれ落ちた床、素地の剥き出しになった壁。ランプは煤に汚れ、深い埃を被ったその場所は、先ほどまでの壮麗な礼拝所とはまったく裏腹な物になっていた。――あの礼拝所自体が、何らかの技術によって作り出された映像だったのだ。
埃っぽい空気に耐えかね、口元を押さえながら私はクラエスの元に戻った。彼は退屈そうに壁に寄りかかっていて、私の姿を認めるなり、その眉を僅かに上げる。
「何か面白いものがありましたか」
「……別に、隠すことでもないわね。十年前に保存された、兄の――スヴェン・ファランドールからのメッセージだったわ。ご丁寧に大層な仕掛けと、ドヴッジャイラの自壊コード付きのね」
「それは僥倖。自壊コードが手に入ったというのならば、話は早い。よい収穫ですね」 「それは、そうだけど。……ねえ、クラエス。貴方はスヴェン兄さんについては何か知っているかしら?」
私の言葉に、クラエスは淡青色の双眸をすっと細めた。いいえ、と間髪を入れず彼は否定する。
「私はその頃本国にいましたから。……けれども、そうですね。ヒューならば知っていると思います」
「ヒューが? どうして?」
「気付いていなかったのですか?ヴィンセント殿が仰られた、十年前の遺構爆発事件の生き残りの二人――ファランドールの娘と、イーグルの娘。それは貴方と、そしてヒューのことですよ」
クラエスは何でもないことのように言ってのけたが、私にとってその事実は衝撃的なものだった。目を見開き、そうなの、と掠れた声を発する。脳裏に浮かんだのは、ヒューのどことなく物憂げな横顔だ。
「ヒューはまだ十代でした。彼女は亡くなったばかりの父の跡目を継ぎ、皇帝直属軍の若き頭目として事故の起こった遺構第二〇二に救援に向かったそうです。結果は芳しくありませんでしたがね」
「……スヴェン兄さんと面識があるのは、そのため?」
「ええ。瀕死のスヴェン・ファランドールから貴方を受け取ったのが、彼女でしたから」
クラエスは視線を空へと投げながら、何か苦虫を噛み潰したような表情をした。
彼の言うことが本当ならば、彼女はスヴェン兄さんの死に際を、そして十年前の真実を知っているのだろう。――知りながら、今までヒューは口を閉ざしていたのだ。
「……ヒューに、会いに行きますか」
そんな風にクラエスが言ったのは意外だった。瞠目した私を一瞥し、彼は薄っすらと暗い表情をする。
「きっと彼女は、貴方の望む情報をもたらしてくれるでしょう。……そう、今なら。今なら、ヒューも堅い口を開くかもしれない。十年前の事故のその全てについて、話すかもしれない」
「まるで、貴方こそがそれを聞きたいみたいね」
「そうかもしれません。十年前の事故を切欠に、ヒューは変わってしまった。その理由を、私はずっと知りたいと思っていましたから」
クラエスの言葉に、私は息を呑んだ。覚えていない私はさておき、遺構爆発事件を直接経験したヒューの心の傷はいかほどのものだろう。それを押し開く権利が、覚悟が私にあるのだろうか。ただ徒に、その膿を溢れ出させるだけではないか。
そう思うと、私は頷くに頷けなくなってしまった。私とクラエスの間に広がった沈黙は、途絶える気配がない――そしてその膠着を破ったのは、私でもクラエスでもなかった。
砕けた石畳の破片を、誰かがわざと蹴り飛ばす。その音に背後を振り返ると、思ってもいなかった人物が目に映った。
「ねえ、その話。僕にも聞かせてくれない?」
ひらりと白衣の裾を揺らし、その少女が――イカルガが、私たちに歩み寄る。
「あの女に話を聞きにいくんでしょう。僕も連れて行ってよ」
そして屈託のない笑みがその顔に浮かんだ瞬間、私は思わず、手を伸ばし。
どこからか、からん、と薬莢の落ちる音が聞こえる。現実に覆い被さるようにして、緩やかに繰り広げられてゆくあの日の光景。兄さんの黒い髪が散らばり、床に、赤い、血溜まりが。
胸の底から迸る情動が私を駆りたてる。気が付いた瞬間、私は衝動のままに、目の前のイカルガの頬を叩いていた。乾いた音が響き、彼女が目を見開く。けれども彼女は無抵抗だった。それを良いことに、私は彼女を押し倒して馬乗りになる。そして、その顔を見下げた。
「……どんな面を下げて、ここに来たの」
――兄を殺した、カナンの人間が。
それは喉の奥から搾り出した、精一杯の呪詛だった。
見下ろすイカルガの頬は赤く腫れている。彼女は暫く虚を突かれたように無表情だったが、やがてその薄い唇にあわい笑みを湛えた。
「ああ、そっか。そうだったね。イェルド・ファランドールが死んだんだったね。……ユリアナ、君は今、すごく良い顔をしているよ。絶望した人間の表情だ。君を殺そうとした人間を殺されただけで――そんな顔ができるんだね?」
石畳の上に散らばった彼女の髪に砂塵が絡まっているのを、私はじっと見つめていた。太陽はあんなにも燦燦と照りつけているのに、イカルガの顔に生気はない。ただどこか嘲笑さえ含んだその目で、私を見上げるだけだ。
イカルガの反応に、私は明らかに苛立った。彼女の上に跨ったまま、再び手を振り上げる。それは先ほどと変わらず、ほとんど衝動的な動作だった。
脳裏を過ぎるのは、兄の姿だ。彼は自分が殺したのだと同じだと思いながら、なおも私は怒りを彼女にぶつけようとしている。それがどんなに矛盾した行いか、理解できないはずがないのに。
「ユリアナ」
私は、結局その腕を振り下ろすことができなかった。その前にクラエスがその手を掴み、私の行動を阻止したからだ。
呆然と見上げたクラエスの顔には、どんな感情も宿っていなかった。彼は腕を引っ張って私を無理に立たせると、ようやく地面から身を起こしたイカルガを見下ろす。そしてその彼女を牽制するように、クラエスは私の前に立った。
「貴方はファランドール家の後継です。直接誰かに、ましてやこんな小娘ごときに、貴方自身の手を汚す必要などありません」
私はクラエスの背を見つめながら、その声を聞いた。彼の手はいつのまにか拳銃が握り、その照準を正確にイカルガの頭部へ絞っている。
それは今までのクラエスの私に対する態度を考えれば、ひどく意外な台詞だった。しかし不思議な重圧を持って、その言葉は私の心に沈んでゆく。
「お前はミナツキ・オギューの妹ですね」
「よく知っているね? その通り、僕はあのミナツキ・オギューの妹さ。十年前の遺構爆発事件で、憐れにもあの女に見捨てられて死んだ研究員の一人」
「……怨恨ですか? 貴方が移民でありながらカナンの民に加担するのは」
クラエスの言葉に、イカルガは肩を竦めた。
彼女は白衣についた砂埃を払いながら、億劫そうに立ち上がった。その頬はいまだ痛々しく腫れ上がっていたが、まるで気にする素振りはない。
「そうだと思う? ……そうだね、そういう部分もあるよ。僕は確かにあの女を憎んでいる。その権利だって、僕にはあるはずだ。でも僕がカナンの民に与するのはもっと別の理由。……ねえ、これ以上の立ち話はやめない? あの女の所に行くんでしょう」
「まるで貴方が行くのが当然、というような口振りですね。敵でありながら図々しいことだ」
「はあ? だってもなにも当然だよ。僕はあの女から真実を問い質す権利がある。あの事故の唯二の生き残りからね」
そう言って背後の私を一瞥したイカルガの目には、隠しきれない悪意が渦巻いている。私にとって彼女は兄の仇の一部で、彼女にとって私は十年前に生き残ってしまった人間。双方の感情がもつれ合い、場は険悪なもので満たされていた。
しかし私達に挟まれる形となったクラエスは、相変わらず平然としたものだ。そうですね、と意外にもあっさりとした了承をイカルガに返す。
「この際荷物が一人増えようが二人増えようが一緒です。いいでしょう、ついてきなさい。ただし途中で何か変なこと、たとえばここにいるユリアナに危害を加えようとしたならば――容赦はしませんよ」
「はいはい。さすがの僕でも、ファランドール家の大切な秘蔵っ子には手を出さないよ。安心して」
今更よくそんな口を利けるものだ。内心そう毒づきながらも、私は押し黙った。ここで場をかき乱しても、空気がより悪くなるだけだ。
私とクラエス、そしてイカルガという奇妙な取り合わせのまま、私たちは皇帝直属軍の本部へと向かった。終始無言を貫いたため、移動時間は途方もなく長く感じられた。
イカルガが現れたことによって、結果的に私はヒューのもとへ出向くことになってしまった。このまま彼女の口から真実が語られたとしても、ただヒューの傷を押し開くだけで終わるのではないか――そんな不安を拭い去ることはできない。しかし同時に、私には彼女の口からスヴェン兄さんについて語られることを期待している部分もあった。
十年前の事故という、不自然なほどに奇麗に抜け落ちた私の記憶。スヴェン兄さんが死に、私とイェルド兄さんの運命を決定的に変えてしまった遺構爆発事件。その中で、私は何を失い、得たというのだろう。同時にその事故は、どれほど多くの人の運命を狂わせたのだろう。
思惟は留まるところを知らない。皇帝直属軍の本部に着いたと知り、その門を見上げた私の心は暗澹と曇っていた。
「ミナツキ・オギューの妹はこれをつけてください」
門の前で立ち止まり、クラエスが取り出したのは手錠だった。イカルガは無言で素直に腕を差し出し、両手を拘束された。手錠の接続部分には鎖が繋がれ、その先端をクラエスが握る。彼は門番にヒューの所在を尋ねると、そのまま私達を連れて皇帝直属軍の本部へと足を踏み入れた。背後には数人の軍人が連なり、物々しい空気が醸し出される。
やがて私たちが通されたのは、ヒューの使用する執務室だった。だだっ広い部屋の奥で、彼女は締め切った紗幕を背景に佇んでいた。重厚な外国産の家具の数々が威圧感を放つ中、その姿は浮いて見える――華奢な彼女が帝国最強とも謳われる皇帝直属軍を率いている現状が、今更現実味の薄れた出来事のように思われた。
「御機嫌よう、お三方。随分奇妙な取り合わせですね」
執務室に私達三人だけが取り残されたのを見て、ヒューが薄い唇を開く。樫の卓上に置かれた真鍮ランプの光に照らされ、彼女の赤蜜色の髪が艶めく。
「今日はどういったご用件で? なんとなく予想はつきますが」
「十年前の事故について、お聞かせ願おうかと思いまして。あの時のことを一番鮮明に覚えているのは、ヒュー、貴女だけだ」
開口一番にそう言ったクラエスに対し、ヒューは目を細めた。そうですよね、と短い相槌が続く。
ヒューは革張りの椅子に腰を落とすと、思惟に沈むように両瞼を落とした。彼女の白い頬も唇も、どことなく蒼褪めている。
「この椅子は、亡くなった父が使っていたものです。それだけではなく、ここにある物は全て本国から運ばれたものですが。……あの事故が起きたのは、私とクラエスの父が死んだ年の暮れの事でした」
父――それは紛れも無く、皇帝直属軍の前頭目のことだろう。ヒューは頬を窄めて長い溜め息をつくと、物憂げな目線で私達を見やった。
「最初に言っておきますが、貴方達の望むような情報は提供できません。私はあの事故の中心にいた訳では無いのですから」
「中心、ね。その中心に最も近かったはずの私は、何も覚えていないのよ」
「それだけショックが深かったのでしょう。スヴェン・ファランドールだけでなく、幼い貴方もまた重傷を負っていましたから。あやうく命を落としかけるほどの」
ヒューはぽつりぽつりと語り始める。水を打ったような静寂の中、彼女の明朗な声はよく響いた。
救援要請を聞きつけて遺構にたどり着いたとき、既にドヴッジャイラは機能停止して跡形もなかったこと。彼女はまさに崩落する最中にあった遺構を走り、制御室へと辿りついた。そこでヒューは瀕死のスヴェン・ファランドールから私を受け取り、一度遺構を脱出した。そして再び戻った時、全てはもう手遅れになっていた――言葉にすれば、たったそれだけだ。彼女の口は記録を語るだけで、そこに真実を眼にした当時の生々しさはない。
それに苛立ちを見せたのは私でもクラエスでもなく、イカルガだった。彼女の眸は激情も露に、彼女を真っ向から睨み据える。
「それで? お前はそこで僕の兄を、ミナツキ・オギューを見捨てたわけだ。恋人を捨て、ファランドール家の娘を助けることを優先した」
「当然でしょう。私は貴方達のように、まっとうで血の通った人間ではありませんから。軍務を、ひいては国益を優先して当然です」
ヒューの声は氷のようで、何物も寄せつけぬ鋭さを孕んでいる。彼女が貌を上げた時、その瞳は抜き身の刃の如き冷たさでイカルガを見つめた。
「愛など私を前にすれば塵に同じ。いざとなれば、いくらでも切り捨てましょう。――そんなことを聞きにきたのですが、イカルガ・オギュー。兄を失った怨恨のためにカナンに加担するなど、どれほどくだらない行いか――分別のつかぬ年頃でも無いでしょう?」
「怨恨? 僕はあそこに兄さんを探しに行くだけだ。兄さんの骨を。そう、お前が切り捨てたミナツキの骨を! お前には頼まれたって、やりはしない――ジュリアナ・ヒューゲル・イーグル!」
張り詰めた空気に叩きつけられる、イカルガの怒声。彼女の叫びは悲痛と憤怒に満ち、彼女自身を構成する魂の慟哭ですらあった。しかし苦悶するイカルガに反し、ヒューは冷血と呼ばれても止むを得ないような態度だ。兄を失う気持ちは、少なからず、そして皮肉にも――私には理解できた。しかし恋人を失い、ああも冷淡に言い放つヒューの心中は推し量りようも無い。あるいは本当に、彼女の心は揺らいでいないのか。
「勝手にすればよいでしょう。貴方には私が、沢山の人を見殺しにしてもなお、生に縋りつく愚かな人間に見えるでしょう。それでも私は許しを請わない。――生きるために、後ろを振り向きはしない」
敢然と言い放つヒューを憎々しく思うように、イカルガが奥歯を噛みしめる。この二人の考えは平行線を辿り、どこまで行っても交わりそうには無さそうだった。