(6)
父から手紙が届いたのは、兄の葬儀が済んでから数週間が経った日のことだった。
その手紙では兄の死についての文章が、冒頭の数行で儀礼的にしたためられていた。仕事の関係で私と対面した後にすぐヨーロッパ大陸に旅立っていた父は、兄の葬儀に直接立ち会ってはいない。その無情さに憤りを通り越して悲しみすら覚えたものの、私は父の提示した本題へと意識を向けた。
――遺構第〇〇一に向かいなさい。
手紙には地図が添えられていた。見ると、帝都の街区を示したものらしい。遺構と言いながらただの建物に印が付けられているが、それに対する補足はない。そこには後継として見ておくべきものがあるから、必ず行きなさい、と書かれているだけだ。
「地図自体は、帝都のザナブ地区のものでしょう。ただ遺構第〇〇一については、私としては把握していません」
「ザナブなら近いわね。……何があるのかしら」
手元の地図を覗きこんだクラエスの言葉に、私は首を傾げる。皇帝直属軍のクラエスが知らないとなれば、遺構として価値が低いか、逆にファランドール家の中でも最高機密の代物だろう。
気は重いが、そう言われたならばその遺構に出向くしかない。外はようやく太陽が中天から降り始めた頃合で、今からならば夕方になる前に戻ってこられるだろう。そう思い、私は外出をする支度をした。
ザナブは帝都の誇る商業地区だ。常設市場や職人街が軒を連ね、相対的に一般住宅は少ない。父の送った地図が指し示す場所はその街区の中でも奥まった、複雑な場所にある。案内をしてくれるというクラエスがいなければ、帝都に慣れた私でも迷っていただろう。
目的の建物がある通りに入った途端、昼間でもいくらかはあった人通りが急激に途絶える。不思議に思ってあたりを観察すれば、蛇行する川のように歪んだ石畳の道を挟むようにして、ほとんど手入れされていないであろう大型建築がひしめきあうように並んでいた。それらの持つドーム型の屋根は遺失文明の特徴的な建築で、現在となってはほとんど残存していない代物のはずだ。
「……こんな場所があったのね。クラエスは知っていたの?」
「まあ、存在としては。このあたりは、遺失文明以前の宗教施設が軒を連ねているのですよ。礼拝所や宗教学校などのね」
宗教施設。そう言われれば、この通りの寂れようも頷ける。
高度宗教はこの帝国では既に失われたものだ。かつて帝国が皇帝崇拝を推し進めたからだと言われているが、今となっては定かな理由は分からない。――少なくとも、この通りは宗教の衰退に従って忘れ去られていったのだろう。訪れる者の途絶えた礼拝所や宗教学校は、建築材や宝物を粗方盗まれ、荒廃し切っていた。
こんなところに、一体何があるのか。確かめてみなければと思い、私は地図の指し示した建物へと足早に向かう。そして辿りついたのは、タイルの所々剥げ落ちた、背の高い建物だった。
「こんなものが、遺構第〇〇一? 何も残ってなさそうよ」
「そうですね。確かに――……、いえ、違います。ここは」
頭上を仰いだクラエスが声を詰まらせ、瞠目する。
「なるほど、確かに何かはありそうですね。おそらく、ここには貴方かファランドール家の当主しか入れないでしょう」
「どういうこと?」
「この施設は生体認証によって開く仕組みのようですから」
生体認証とは聞き慣れぬ言葉だ。クラエスの視線を追った私は、アーチ状の扉の先端に取りつけられた小型の装置を発見する。その装置に小さな球体を認めた瞬間、その球体の表面が滑り、人の目玉のような模様が現れた。
地鳴りのような、低い音が空気を震わせる。何事かと思って後ずさろうとすると、ふいに背後のクラエスが私の肩を押した。
「行きなさい。私はここで待っていますから」
「……どういうこと?」
「先ほど言ったでしょう。ここには貴方しか入れません。私では弾かれてしまいますから」
そう言われて前方を見れば、先ほどまで堅く閉じ切られていたはずの扉が開いている。隙間から覗く暗闇は、まるで深淵を彷彿とさせた。扉とクラエスの瞳を交互に見やり、やがて私は頷く。不安ではあったが、後継として必要ならば行かない訳にはいかない。意を決しクラエスから離れ、その遺構の内部へ足を踏み入れる。
靴底が床を叩く硬質な音が響く。暗闇に包まれているため、内部がどんな形状をしているかほとんど判別がつかない。しかし、帝都の酷暑とは相反し、芯から震えるような寒さが辺りに蔓延っていた。
しばらく闇雲に足を進めたところで、不意にあちこちで橙色のくすんだ明かりが灯った。周囲を見回せば、壁や床に置かれたガラス製のランプの炎が揺れている。
「……ここは――」
しかし、私が驚いたのは、独りでに明かりがついたからではない。明かりに照らされた、その建物の内部に強い既視感を覚えたからだった。ここがあの悪夢で見た場所と同じだとわかった瞬間――私は脱力し、タイル張りの床へと膝を落としていた。呆然とドーム状の天井を仰ぎ、こぼれ落ちる光に目を細める。礼拝所だろうか。水を打ったような静けさは、どことなく神秘的な雰囲気を醸し出している。
ともかくここが父の言う遺構ならば、何かがあるはずだ。そう思い、私はようやく立ち上がる。礼拝堂は中庭も付属していない比較的小規模なもので、別室へと通じる扉は全て羽目板で封鎖されている。自由に身動きができるのは、今私がいる空間だけのようだった。
辺りを見回せど、がらんどうの空間が広がるだけで、目ぼしいものは何一つない。若干の不安を覚えつつ、部屋の中央に向かって歩き出した所で、私は何か硬いものを踏んだ。足を退かせば、タイルに擬態したスイッチのような物がある。
「何かしら、これ……」
虫の羽音のような物が響いたと思えば、突如として私の周囲に立体の映像が立ち上がった。青白く発光するそれは、いつか皇帝直属軍本部で見た立体映像に似ていた。青い画面に浮かぶ無機質な文字の羅列は、良く見ると英語で綴られている。しかしその意味を解するよりも先に、私を取り巻く立体映像は一つ残らず消滅してしまった。訝しく思い視界を前方に向けたところで――私は、ゆらゆらと陽炎のように立ち上る青い影を見た。
青白く発光する影は、蠢きながら徐々に何かの輪郭を取っていく。それはやがて人間の影になり、次いで一人の青年の姿へと変わる。その光景を見つめ、私は息を呑んだ。 ――その青年は、私の記憶の、ずっとずっと深い場所をゆるやかに刺激する。
癖のない黒髪。海のように深い青の瞳。白皙の肌。口元には微かな笑みが湛えられ、その眼差しは優しく私を見下ろしている。
『久しいな、ユリアナ』
そして私は確信する。
スヴェン・ファランドール。今目の前に立体映像として立っているこの青年が、十年前に失われたもう一人の兄だということを。
炎を燻らすモスクランプの明かりが、一つ一つ消えてゆく。外界から差しこむ光も途絶え、そして立ち上がった兄の亡霊は、穏やかに私に笑いかけた。
『といっても、今この映像を見ているお前が一体何歳なのか、俺にはわからないが。……俺が今生きているこの瞬間の、ずっとずっと未来のことであることを祈るばかりだ』
兄の映像は静かに喋り出した。私はぺたんと床に座り込んで、その亡霊を呆然と見上げることしかできない。
『お前は母さんに似ているから、きっと美人に成長していることだろう。学校にも通って、成績も優秀なんだろうな。友達もたくさんできただろう。もしかして、恋人もできたか?それとも、もう嫁に行っているだろうか。……ああ、イェルドとは仲良くやっているか? あいつは気難しいが、根は良い奴だからな』
滔々と語られる兄の言葉は、未来の私への希望と期待に満ちている。それはあまりにも今の私とはかけ離れたものだったが、不思議と不快ではない。ただ胸の奥がむずむずとして、殆ど記憶にもないはずの兄の存在が、ひどく近しいものに感じられる。
『何にしろ、ここで時が止まる俺にはわからない。見れもしない未来だ。少なくとも、今そこにいるお前が幸せなことを願う。――ファランドール家の業を押しつけておいて、よく言えたものだと自分でも思うがな。……ああ、もう時間がないな。本題に入ろう』
その双眸に、一瞬の哀切が過ぎる。
『今お前がこの映像を見ているということは、ドヴッジャイラの復活が迫っている、ということだ。あれをカナンの連中は神だなんだと崇めているようだが、実際は悪魔の兵器でしかない。復活したならば、確実にこの世は混沌に陥る。それだけは絶対に食い止めなければならない。だからこそ、今、俺は、死に際になって――この遺構第二〇二の制御室から、お前に向けたメッセージを作っている』
その断片的な情報から、私は映像の中の兄がどんな状況下にいるかを知った。――十年前の遺構爆発事件。あの現場に、時を止めて、彼は存在している。
そのことに、私は胸を突かれたような思いを抱いた。彼は死を覚悟して、私に何かを伝えようとしているのだ。彼の瞳を食い入るように見つめ、ぐっと奥歯を噛みしめる。聞き漏らしてはいけない。これは後継の私が知るべきことであり、今は亡き兄の、最期の言葉なのだ。
『俺ではあいつを一時的に停止させ、死に体の自分に変わって管理者権限をお前に書き換えることしかできなかった。どうかユリアナ、お前にはあいつを破壊して欲しい。破壊して、二度とこのような悪夢を起こさせないでほしい。……今からドヴッジャイラの自壊コードを言う』
そして兄の紡いだ言葉を、私はしっかりと記憶に刻んだ。
『これはドヴッジャイラが起動してなければ有用ではないから、気をつけてくれ。……すまない、不甲斐ないことに――俺にできることはこれくらいだ。後は、ユリアナ、お前にどうにかしてもらうしかない』
その言葉を契機に、兄の映像は徐々に薄れ始めた。私の手は無意識の内に伸びたが、彼の実体を掴むことはなく、虚しく虚空を切るだけだった。
「兄さん、」
『お前をこんな薄汚れた場所に追いやった俺を、どうか憎んでくれ。ここで死ぬ俺を、みじめだと罵ってくれていい。ただこんな俺でも、お前を愛していることは忘れないでほしい。……愛しているよ、ユリアナ。お前はファランドールの娘であっても、俺にとっては、』
その言葉の続きを、ついに私は永遠に聞くことができなかった。ただ完全に消滅した兄の亡霊を、それでもどこかに見つけようと目を凝らすだけ。
愛している、と耳の中で彼の声がこだまする。それに対して私はどんな感情を覚えるよりも早く、ただ動揺した。十年という時空の中で、一体、私は何を忘れてしまったのだろう。ただ目尻に溜まった涙が、一筋頬にこぼれ落ちただけだった。