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Lost Corner  作者: 八束
徒花に実は成らぬ
21/42

(5)

 最初に視界に入ったのは、鈍く耀く金色の薬莢だった。一つだけ、打ち捨てられたように床の上に転がっている。

 聴覚が麻痺してしまったように、何も聞こえない。呆然としたまま、私はその薬莢に手を伸ばした。掴む。まだ少し、熱が残っている。

 からん、からん、と透き通った音を立てて、辺りに別の薬莢がいくつも落ちてゆく。私は周囲を見回し、そして突如と自分の足許に広がる血の海を見た。

 視線を前方へと伸ばす。血溜まりの中に、誰かが横たわっていた。黒く艶のある、長い髪。白い顔。瞳は閉じられて今は見えないが、私ははっきりとその色を知っていっていて――。

 そこで、はっきりと私の意識は覚醒した。

 暗闇の中、私は天井に向かって手を伸ばしていた。荒い呼吸に、胸が激しく上下している。寝巻きはぐっしょりと濡れ、それはいつかの悪夢よりもずっとずっと、嫌な寝覚めだった。動悸がいつまでたっても治まらず、視界がちかちかと点滅する。


「……嫌よ、」


 瞼の裏にいつまでも、あの光景が焼きついている。

 目を閉じてもついてまわる、血の海と兄の死体。彼が死んで、その葬儀が営まれていくらか日が経ったというのに、私の心はちっとも癒えることがない。砂漠の荒野の中、名も刻まれぬ墓標を前にしたって、私は彼の死を受け入れることができない。

 ――あの日。

 建物に侵入し、兄を殺したのはカナン同胞団の人間だった。その狙いは単純。彼らは私の後継の地位を確固たるものにするために、兄に死んでもらいたかったのだという。その行き着く先はドヴッジャイラの復活にあるのだから、その行動は彼らにとっての保険みたいなものだったのだろう。

 そのことは理解できても、心が追いつくはずはない。私はついに、己のために兄までを殺してしまったのだ。……私が、殺したも同然なのだ。


「ユリアナ。いますね」


 空が白んで陽ものぼりきった頃、扉のむこうから聞こえたのはクラエスの声だった。応答がないのをいいことに、彼はずかずかと部屋に入りこんでくる。

 私は寝台の上で、それを出迎えた。一応身を起こしてはいるが、膝を抱えて座りこんでいる。制服は戸棚に仕舞われたままで、私はここ最近ずっとそうであるように寝巻きのままだった。


「いい加減何か食べたらどうですか。まったく、皇帝直属軍の私にこんなことをさせるのは貴方くらいですよ」


 彼は食事のトレイを片手に持ち、しかめっ面でそう言い放った。

 彼の持つトレイには、乾燥した果物や平べったいパン、ヤギ乳の瓶などが載っている。この地方では一般的な朝食に私は見向きもせず、俯いたままだった。暫くしてから、いらない、と掠れた声で言葉を発する。

 私の態度にクラエスは明らかに苛立った。それがわかっても、食事を口にする気にはならなかった。食欲は一切絶たれている。――とことん追い詰められた結果がこれだ。消極的な自殺ですよ、と先日クラエスが私をそう称したことを思い出す。


「そろそろ悲劇のヒロインぶるのは止めたらどうですか」


 普段なら断ったところで引き下がるクラエスだが、今日は虫の居所が悪いらしい。トレイをテーブルに置いて、ずかずかと彼は私に歩み寄った。


「そうやって悲観してばかりなど、馬鹿らしい。貴方がそう沈んでいたところで、何が変わるわけでもないでしょう。このまま貴方が死んだら我々は困るのですよ」

「そうね。大切なファランドール家の後継が、いなくなるものね」


 芯の無い声を返しながら、私は目を瞑る。


「でもそんなこと、どうでもいいわ。私なんかが生きているだけで、物事がどんどん悪くなるのだもの。いい加減、立ち止まりたくもなるわ」

「貴方はただイェルド・ファランドールの死に落ち込んでいるだけです。彼が死んだのは因果の結果に過ぎません。逆に貴方が前に進まない限りは、物事はもっともっと悪くなるばかりですよ」


 クラエスが正論を言っていることは、痛いほど理解していた。けれども、彼の振り翳すその正論が、今は私にとってはひどく忌まわしい。

 どうして誰も彼も、そんな風に私を前に進めさせたがるのだろうか。私の両足はもうぼろぼろなのに、傷だらけでこれ以上歩くことなんてできないのに。どうして少しも立ち止まることを許してくれないのだろう。


「もう嫌よ」


 クラエスと一切目を合わさないまま、私は言い放つ。


「いい加減、休ませてくれたっていいじゃない。今まで、私なりに頑張ってきたのよ。それなのに、どうしようもなく打ちのめされて。貴方達からはまるで道具みたいに思われて。……理不尽よ。ひどい、ひどいわ」


 弱々しく訴える私の声に、クラエスは何を思ったのだろうか。しばらくして周囲を見回すと、彼の姿は無くなっていた。

 見捨てられたのだろうかと思い、私は即座にその考えを打ち消した。そもそも最初から私に味方などいなかったのだ。“ファランドール家”に肩入れする人間が多いだけで、ユリアナという私個人を気にかける人間などいない。私を労わる者がいたとしても、それはファランドール家に対する配慮の延長でしかない。

 ――求められたのはファランドール家の後継だけで、ユリアナなど最初から存在しなかったのだ。

 まるで亡霊。私の存在は承認されることは無く、私はただファランドール家の後継として生きていかなければいけない。兄二人が死に、唯一残された私に逃げ場など用意されていない。今こうして立ち止まっていることも、結局そのことに対する逃避にしか過ぎないのだ。ようやく後継として生きる決意を固めたというのに、これでは元も子もない。

 今更、昔の生活に戻れるとは思っていない。それでも、ファランドール家の後継としてではなく、私自身を見て欲しいと思うのは――おこがましい、ことなのだろうか。

 覚束ない足で立ち上がる。窓から差しこむ日に目を細めながら、私はクローゼットを漁った。取り出したのはやはり制服。もはや籍すら置いていないのだから、これを着るのは間違った行いなのだろう。けれどもこれだけが、私のかつての日常と繋がる唯一の手段だった。

 制服の袖に腕を通し、乱れた髪を手櫛で整える。鏡に映った自分の姿を見て、私は溜め息をつきたくなった。すっかり、消耗し切っている顔だ。


「……だめね」


 鏡を見ると、どうしても兄の姿を思い出した。

 元々ファランドール自体の礎がヨーロッパ大陸にあったため、私の容姿は帝国人らしくない。黒髪に白い肌、濃い青の瞳。すべて、兄と同じだ。顔立ちも、性差を抜かせば似ている方だとは思う。

 重苦しい気分に溜め息をついて、私は寝台の上に腰を落とした。このまま外に出るつもりはない。私は往生際が悪い人間なのだ。

 結局私は兄の死から立ち直ることはできていないし、自分の立場を理解してもなお、今の境遇には理不尽だという憤りが強い。けれども傷ついた足を休めることすら許されないのなら、私は無理やりにでも足を動かして、前に進むしかないのだろう。ただただ先の見えぬ闇を掻き分け続けて――そうして生きることを、受け入れる。

 私に残された選択肢はその一つだけだ。今のように選ぶまでの時間を長引かせることはできても、結局いつかは選ばざるを得ない。だとしたらその前に、私は私のために、一つの賭けをしようと思った。


「おや……着替えたのですね。ようやくぐずぐずしているのを止めましたか」


 太陽が中天からやや傾いた頃、クラエスが再び訪れた。

 彼の持つプレートの上に乗る昼食は、朝のものとさほど変わりがない。彼自身言っていたことだが、高位の軍人に食事の運搬をさせるなど私も相当良い身分だ。そのことを思うと、知らずと自嘲が表情として現れる。


「食事ならいらないわ」

「……まだごねますか。その根性だけは認めますよ」


 呆れたように嘆息をこぼし、クラエスが肩を竦める。

 ここでいつものように彼が引き返したならば、私の賭けは負けだ。そして今までの経験上、その可能性は高い。所詮はくだらない賭けだったが、それでも私の胸は緊張に高まってゆく。

 じっとクラエスの様子を窺う。そうして彼の淡青色の瞳を眺めているうちに、ふと、彼が口元を歪ませた。


「貴方とて、餓えてみじめに死にたい訳ではないでしょう。同時に、この先自分が再び歩き出さなければならぬ事を知っている。そのためには食べてくださらないと、こちらとしても困るのですが」

「それは、私がファランドールの後継だからでしょう」

「そりゃあそうです。――ですが、ユリアナ。貴方がそうして食べないままでいると、心配する人間もいるのですよ」


 ――いつにないクラエスの言葉に、私は目を見開いた。

 この男は、何を言い出すのだろう。どくどくと、胸が高鳴るのを感じる。どういうこと、と掠れた声が唇の隙間から零れ落ちる。


「いつか言ったでしょう。貴方には見えない味方がいる。その味方が心配するのですよ。そうでなければ、私もこうも甲斐甲斐しく貴方の世話なんてしませんし――その味方は、貴方が食べなかったことを知るや、毎度私を一方的に責めるんですよ? まったく、お門違いも良い所です」

「見えない味方? どんな空言よ、子供騙しじゃない」


 口を尖らせて言うと、クラエスは眉根を寄せた。心外だとばかりに彼は顔を歪める。


「まあ、信じるも信じないのも貴方の自由です。私は貴方と彼の橋渡しをして差し上げるほど親切ではありませんし。……とにかく、今日という今日は食べて頂きます。私もいい加減、小姑のように小言を零されるのはご免ですからね」


そう言いながら、クラエスは徐に私に歩み寄った。


「食べないわ」

「もう駄目です。貴方ごときの意思など尊重しません」


 クラエスはサイドテーブルに一度トレイを置くと、その手で私の顎を掴んだ。ぐっと奥歯を噛んで口を閉ざすが、そんな抵抗も敢えなく、私の口は彼の手によってこじ開けられてしまう。彼は二本の指を差し入れ、器用に私の口を固定すると、残った片手でちぎったパンをその中へと放り投げてきた。腹の立った私がその指をがじがじと遠慮もなく噛むと、クラエスは心底嫌そうに目を眇めた。


「淑女が人の手を噛むものじゃありません、よ!」


 その淑女の口を強硬手段でこじ開けている人間に言われたくない。積年の恨みを篭めて睨みつけてやると、ふとクラエスは私の口から手を離した。後から思い返すに――既にクラエスは自棄の状態だったに違いない。彼は干し果物を取ってそれを自分の口に放り込んだかと思うと、あろうことに私に口付けてきたのだった。

 干し果物の甘酸っぱさが、じわりと口内に染みる。それを知覚した瞬間、私はクラエスの唇に噛みついていた。

 混乱した頭のまま、両手でクラエスを突き放す。私は羞恥心にぶんぶんと頭を振ると、思い切りクラエスを睨みつけた。


「何をするのよ!? この変態!」

視線の先で、クラエスは切れた唇の血を拭っていた。失礼ですね、と掠れた声が続く。 「貴方があまりにも言うことを聞かないので、強硬手段に出たままですよ。私に稚児趣味はありませんのでご安心を」

「そういう問題じゃないでしょう! それとさり気に失礼なことを言わないでくれるかしら?」

「失礼もなにも事実じゃないですか。まったく、キスの一つくらいでうるさいガキですね」


 溜め息まじりにそう言ったクラエスを、私はありったけの呪念を篭めて睨みつける。キスの一つ、なんて――女子校育ちの私に男性経験は皆無だ。つまり、この男は私のファーストキスを奪ったのだ。恋に憧れを抱かぬ私でも、流石に動揺を隠せない。


「それだけ怒る元気があるなら、食事を摂ってください。いい加減、私も世話を焼くのに疲れましたからね」


 そう言われ、私は寝台のサイドテーブルに乗ったままの食事を見やった。

 ――結果的に、私は自分の賭けに勝てたかどうかはわからない。賭けの内容は単純。クラエスが私に食事を食べさせようとするかしないか。確かにその意味であったならば、私は賭けに勝っている。しかしその実、この賭けには別の意義を含めていたのだ。彼が私を心配するかどうか。それも、ファランドール家の娘ということを抜きにして。

 無謀な賭けであることは百も承知しているし、勝っても負けても、私は今日を限りにまた前に進むと決めていた。しかし賭けに勝つことは、ただのユリアナが存在するための最後の拠り所でもあったのだ。そして結果的に、クラエスとの会話はまったく別の可能性を私に示した。――いわく、“見えない味方”。


「……そうね。食べなくちゃ、ね」


 クラエスは私を騙そうとその甘言を吐いたのだろうか。彼に女学院を連れ出されて以来、散々な目に遭ってきた私は彼の言葉を単純に信じこめない。――しかしその反面、その不透明な味方に縋りつきたい自分もいる。

 陶製の白い皿から、平べったいパンを手に取る。まだ微かな温もりが残っているそれを手のひらの上に乗せ、小さくちぎっては口に運ぶ。ほのかに塩っぽいそれを噛みしめているうちに、私は徐々に悲しくなってきてしまった。俯いたまま、膝に視線を落とす。頭の中でぐるぐると、この短期間の記憶が駆け巡っていた。

 共謀罪の容疑をかけられ、女学院を連れ出されたこと。イカルガに騙されたこと。カナン同胞団のこと。ファランドール家の後継と知らされたこと。帝都に戻ってきたときのこと。アンジェリカのことや、ヒューやクラエスの関係の話。そして私が今ここにいるために、死んでいってしまった人たちのこと。――思い返しても、この状況は本当に底なし沼だ。事態はどんどん悪くなっていって、私の首はじわじわと真綿で締め上げられてゆく。


「どうして、こんなことになってしまったのかしら。……私が悪かったの?」


 食事を半分ほど減らしたところで、部屋の隅で不機嫌そうに私を見るクラエスに問いかける。彼は目を細め、間を暫く置いたところで答えた。


「それはわかりません。ただ一つ言うのならば、全ての元凶は十年前の遺構爆発事件でしょう。あれがなければ、貴方の一番上のお兄様は死ぬことはなかった。カナン同胞団も貴方を狙うことはなかった。貴方がファランドール家の後継となることはなかった。それだけは確かです。……あの事件は、あまりにも多くの人の心に影を落としすぎたのですよ」


 クラエスの声は淡々としていて、ひどく穏やかだった。

 淡青色の双眸は私を視界に入れてはいるが、もっと遠くの、なにか透明なものを見つめている。それは彼の知る十年前の事故なのか、それとも別の何かなのか、私にはわからない。

 ただその言葉が、私に一種の安息を与えたのは確かだった。

 十年前、あそこでどれほど凄惨な出来事があったのか私は知らないし、覚えてもいない。しかしそれが全ての元凶だと言うならば、私はこの状況に対する理由を見つけることができる。全て私が悪いのではなかったと、自分を納得させることができる。


「……十年前の事故さえなければ、イェルド兄さんも死ぬことはなかったのね」

「そうですね。でもユリアナ、私がそう言ってしまったことで、貴方は怒りの矛先を十年前に求めようとするかもしれない。けれども十年前の事故の問題が片付いても、貴方はファランドールの後継のままです。いつかは家を継がなくてはいけない」

「わかっているわよ。もう私の夢見た平凡な未来がどん詰まりだってことは。イェルド兄さんが死んだのも、本当は私が原因だってわかっている。――それでも、そうならざるを得なかった理由があることを知って自分を納得させたかっただけよ」


 それはただの悪足掻きなのかもしれない。

 しかし私にとってこの短期間で起こった出来事は、すべてを背負うにはあまりにも重過ぎた。どうにかして自分を納得させなければ、私はその重みに耐え切れなくなってしまう。だから、今だけはこれでいいと思う――そう、今だけは。

 果物を持つ手が震えた。私は堪えるように唇を噛み締め、瞼を硬く瞑る。そうしないと、今にもみっともない弱音を吐いてしまいそうだった。

 どうか今だけは泣くことを許してほしい。今まで辛いことは沢山あったが、この男の前だけは決して弱味を見せまいと思っていた。でも、それを貫き通すには私はあまりにも幼かった。涙は堰を切ったように流れ出す。


 ――泣き終わったら、また、前を向こう。この先に希望があるかどうか私にはわからない。それでも尚、闇の中を進む勇気を、私は持たなくてはいけない。


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