(4)
結局、私は自分がどうしたいのかわからず仕舞いだった。
人の死を判断する時間に長いも短いもないとは思う。それでも一瞬で相手を殺す判断をする軍人と、その何万倍もの時間をかけても決断することのできない私は、あまりにもかけ離れた存在だ。しかし悲しいことに、そのことを知った上で私は兄の処断を決めなければいけない。
イェルド・ファランドールは大英帝国解放軍という武装グループに武器を横流しした上で助力を得て、ファランドール家後継たるユリアナ・ファランドールの暗殺を企てた。それが今回の事の粗筋である。これがただのお家騒動であったならば私はここまで苦悩しなかっただろうが、問題はファランドール家が国家に影響力を持つ“死の商人”であり、兄がその権益を利用して外部勢力を引き込んだことである。そしてその被害は甚大。
皇帝直属軍は彼を処分したがっているが、その裁量はどうしてか私に委ねられた。それだけ、皇帝直属軍もファランドール家”への配慮をしているのだ。
――そして今、私は兄のもとへと向かっている。
考えに考えて、私はクラエスに兄と会わせてくれるように頼んだ。それがあっさりと了承されたのは意外だったが、どうやら兄は私兵も護衛も持たず、一人で帝都に潜伏しているかららしかった。
手駒も消え、一人ぼっちになって、彼は一体何を考えているのだろう。私への憎しみを募らせているのだろうか。順当ならば後継になるはずだった自分の地位を、妹に横取りされて、その上企てた暗殺も失敗した。知らず私たちの明暗は分かれてしまっていたのだから――きっと、彼は今更何を会いにきたのかと、顔を歪ませるに違いないのだ。
「このあたりは帝都の中でも治安が悪い。この前みたいに、ほいほい私から離れないでくださいね」
先導するクラエスの言葉に、私は素直に頷いた。
帝都に幾つかある街区の中でも、治安の高低差は存在する。帝都の街並みは総じて狭く閉塞感があるが、このあたりは余計それが目立つ。どこからか絶えず腐臭が漂い、地面に寝転がったり物乞いをしたり人間が、狭い路地でもあちらこちらに見受けられた。
左腕のない孤児を見かけ、私は目を細める。同じ帝国の人間であっても、実力主義は這い上がれる者にしか恩恵を与えない。そのことをまざまざと見せ付けられるのが、貧民街というものだった。
「……こんなところに、兄がいるのね」
「まあ、このあたりは戸籍のない人間も多くて、我々も把握がし辛いですからね。しかしそうであっても、れっきとした共同体は存在しますから――部外者が現れたら、それだけ目立つでしょうねえ」
そういう私たちも部外者なのだが、私を挟むようにして歩くクラエスとヨルガが軍人姿であるためか絡まれることはない。遠巻きな視線を感じるだけだった。
やがてクラエスは一つの建物の前で立ち止まった。古びた石造りのそれは、周囲に立ち並ぶ他の建物とほとんど変わらない姿形をしている。背の低い建物を見上げ、ここに兄がいるのかと思うとなぜか不思議な心地がした。
「異常はありません。対象は中に」
どこからか他の浮浪者と変わらないような格好をした男性が現れ、すっとクラエスに歩み寄って声をかける。クラエスは彼に視線を向けず、一度頷いただけだった。
そしてクラエスが私の背を押す。
私たち三人が足を踏み入れると、背後の扉が音もなく閉まった。建物の内部は薄暗く、板を打ち付けた窓から微かに光がこぼれ落ちるだけである。あちこちの素地がむき出しで、どう見ても人が暮らすような環境ではない。太陽から遠ざかってもむっとするような熱気に満ち、空気はひどく澱んでいる。
おどろおどろしい雰囲気に戦慄しつつ、私はクラエスを追った。彼の足取りに迷いはなく、入ってすぐの廊下の突き当たりにある階段へと向かっている。外部から見たらこの建物は二階建てだったから、おそらく上階に兄がいるのだろう。
この先に、兄がいる――私の胸は今にも緊張で張り裂けそうだった。それだけではなくて、あまりにも複雑な思いが渦を巻いていた。ともすれば、無意識のうちに叫び出してしまいそうだ。
重い足を叱咤して錆びた階段を上りきると、部屋がいくつか並ぶ廊下に出る。クラエスが指差したのは、その一番奥の扉だった。足音は響いているはずだが、兄が出てくる気配はない。私は止まることを許されず、そのまま廊下を進んだ。
永遠のようにも感じられた時間が終わる。私は無骨な扉を前にして、生唾を呑みこんだ。
「尻込みしているような暇はありませんよ、ユリアナ」
次の瞬間、クラエスは囁くようにそう言ったかと思うと――その長い足で、乱暴にも扉を蹴った。金属の軋む音が響き、扉が勢いよく開け放たれる。
あらかじめ腰のホルスターから抜いていた銃を構え、クラエスが内部へと踏み込む。軍靴の踵が床に打ち付けられる、小気味よい音が響いた。
「ごきげんよう、イェルド・ファランドール殿。こちらは皇帝直属軍所属、第一旅団戦闘団長クラエス・イーグルです。本日は――」
クラエスの声は明瞭だった。
彼の視線はまっすぐ、窓際の椅子に座る人物へと向けられている。
「ファランドール家後継ユリアナ・ファランドールの暗殺未遂容疑で、貴方の処断をしに参りました」
黒い長髪が揺れ、その白いかんばせが、ゆっくりと前方を向く。彼がこちらを見るまでのその短い時間、息を詰め、何かを考えることも忘れ――私は、彼を、兄を見つめていた。
光を封じた窓際に置いた椅子に、兄は足を組んで座っていた。その姿は記憶の中よりも少しやつれたようだった。帝国官僚の制服を着崩し、常に整えられていた髪も乱れている。兄は私たちの存在を感知しても無感動で、一度私を見た瞳もすぐに伏せられてしまった。
「……皇帝直属軍のイーグル。それも、影のほうか。ずい分な大物が出てきたものだな。……そうか、そうか。俺の圧倒的劣勢など、所詮火を見るよりも明らかだったというわけだ」
浅く頷き、兄は自嘲するように笑ったようだった。
「殺すなり捕縛するなり、自由にするがいい。どうせ俺は失敗したんだ。……負けたんだよ。さあ、早く。お前の言う処断を行うといい」
「残念ながら、それを決めるのは私ではありません」
銃を下ろし、クラエスは肩を竦める。
訝しげな顔をした兄は、そこでクラエスの横に立つ私へと目を向けた。深海を彷彿とさせる濃い青の瞳が、何の遠慮もなく私を射抜く。それだけならば、いつもと変わらなかった。――けれども次の瞬間、彼はふっと私から目を逸らし、諦めたように笑ったのだった。
「ユリアナ、お前にとって俺の今の姿などとんだお笑い種だろう。散々お前を蔑み憎んだ俺が、結局はお前にひれ伏すんだ。俺はお前が後継であることを知り、それが容易に動かせないものと知りながら、それでもなお、お前に勝てると思っていたのだから」
「……勝てる?」
「女のお前など取るに足らない存在だと考えていた。いつかは俺が、ファランドール家の、その業も権益もすべて手中に収められると思っていたんだ。そして、事実そうしようとした。――だが結果はこのザマだ」
兄はどこか投げやりに、淡々と言葉を紡いでいた。しかし次の瞬間、その双眸は一気に突沸した激情によって変貌してしまう。
「俺は負けた! あの日、あの場にいたかいなかったの違いだけで! お前はスヴェンと左腕を引き換えに、ファランドールの全てを手にした! ――そして今になっても、お前から全てを奪うはずだった俺が、お前によって全てを奪われた!」
叩きつけるような怒声が、部屋中に反響する。
私はその激情を一身に受けて、微動だにすることができなかった。今までは遠巻きに蔑む言葉を投げるだけだった彼が、全てを露にして、私へと憎しみをぶつけている。――そのことに、私は無性に悲しくなってしまった。
血を分けたきょうだいであるはずなのに、どうしてここまで憎まれなくてはいけないのだろう。結局、私はここに来るまで、肉親という頼りない縄に縋りつこうとしていただけなのか。そう願うことすら、罪深いのだろうか。――だって、私は心の底では兄を信じていたのだ。いつか、優しかった頃の兄がまた戻ってくることを淡く期待していたのだ。
「……そうね。もし私と貴方の立場が逆なら、こんなことにはならなかったわ」
苦しい。あんまりにも、苦しい。痛みに軋む胸を押さえつけ、私は兄を見据えた。偽りであろうとも、弱みを押し隠し、敢然と彼を睨み据える。
「素直にそのことに同情するわ。私も、何度も何度も貴方と立場が逆だったらということを願った。でも、それは一生叶わない願いだったみたいね。少なくとも、今、私は貴方がファランドール家の当主に値する人間だとは思えないわ。私一人の命を奪うために、貴方が使った手は姑息で、汚すぎた」
「ファランドールの後継たるお前がそれを言うか? この先、お前はその手でどれほどの人間を犠牲にすることか。分からない訳ではないだろう」
「そうよ。現に、私が生きるために死んだ人間がいるわ。たくさん、たくさんね」
瞼がじんわりと熱を帯びて、視界の中の兄の姿がぼやけてくる。
「私はそんな自分も、ファランドール家も肯定しないし、許すつもりはない。必要悪だなんて言葉、私は信じないもの。……でも、それでもここから動けないならば。私はこの業を引き受けて、前に進むしかないのよ」
狭い世界に閉じ篭っているだけでよかった学院時代が、今は遠い。その頃よりもずっとみじめな気持ちで、私はここにいる。望まぬ未来を受け入れなければいけない、そのことを悲嘆している。しかし同時に、そうしなければならないと思う自分がいることも確かだった。
「私はね、教師になって、家から離れて自活することが夢だったの。高等科のプログラムを終えても学院に留まっていたのは、教員試験の規定年齢になるのを待っていたから。同時に、家にも戻りたくなかったから。……そうして、私はずっと、ファランドール家の娘であることから逃げていたのよ。でも、もう逃げるのもおしまい。兄さんにこの地位を預けるくらいなら――私が当主になるほうがよっぽどマシよ」
「お前に耐え切れるというのか? ファランドール家の座は、お前が思うよりもずっとずっと重い」
「分かっているわ。分かっているし、もう、どうにもならないわよ。平凡に生きることは諦めたわ」
私の言葉に、兄はようやく押し黙った。
――もう誰かに責任を押しつけて生きるのは、止めにしなければいけない。
誰かが必ずこの業を背負わなければならないなら、私が引き受けてしまおう。そうすれば少なくとも兄や他人がこの地位を引き継ぐよりも、ずっと心は穏やかだった。責任を放棄した、という変な負い目に追われながら暮らす必要はない。
それでも涙が出てくるのは、まだ辛いからだ。いつかはこの痛みも和らぐといい。そう思いながら、私は薄く笑んだ。袖で涙を拭い、横のクラエスに声をかける。
「決めたわ。イェルド・ファランドールは捕縛しなさい」
「……それでよろしいのですか、ユリアナ」
「彼一人を殺したところで、失われた命が蘇るわけでもない。だったら生きて償ってもらった方がいいわ。貴方は甘いと思うかもしれないけれどもね」
私の言葉に、ふっとクラエスは表情を緩めた。
ヨルガに指示をし、おとなしく投降の意思を見せた兄に縄をかけようとする。――かけようと、した。
それが叶わなかったと知ったのは、次の瞬間、突然響いた破壊音を聞いてからだった。ハッとして顔を上げようとするが――後頭部をクラエスによって押さえつけられ、床に伏せた私に状況は把握できなかった。しかし床に散らばった木片を見て、私は窓の羽目板が破られたことを知った。
「――悪いな、お嬢さん」
沈黙の中、響いたのは男の声だった。
すぐ傍でクラエスの舌打ちが聞こえる。私が呆然として顔を上げると同時に、乾いた発砲音が空を裂いた。
兄の体が不自然にかしぐ。
スローモーションで、兄が静かに倒れてゆく。そして、私の視界は真っ赤に染まった。床に広がる赤い液体。誰かが叫んでいる。それが血だまりで、たった今まで生きていたはずの兄のものだと認識し――叫んでいるのが自分自身だと気付くまで、私は絶叫し続けていた。