(2)
扉の向こうには、黒い鎧兜で顔を覆った甲冑姿の軍人が控えていた。
その男に連れられて学院に併設する寄宿舎に戻り、私はおとなしく荷造りをした。生徒達は夕食の時間帯のため、部屋に私以外の姿はない。日は沈みかけ、気温も昼間とは一転して下がり始めていた。
私はクローゼットの中をひっくり返し、旅装にもなる厚手の外套を羽織った。下着とランプとその燃料、薬と幾ばくかのお金。それらを慌てて皮袋に詰めると、今度は音を立てないようにそっと窓の両扉を開いた。
窓から下界を確認する。外に人影はない。やはり小娘相手に警戒はしていないようで、私はほくそ笑んだ。
しかしここは寄宿舎の二階である。寄宿舎の建物によりかかるようにして植えられた木があるので、それを伝えばなんとか降りられるだろうか。あまり運動神経に自信はなかったが、恐怖に身を竦ませている場合ではない。
意を決し、私は窓枠に足をかけた。そして木の枝を掴もうとした瞬間―――話は、冒頭に戻る。
「まあ、こうなると思ってはいたんですけどね」
床上で転がされたまま、私は深く息衝いたクラエスを睨んだ。打ち付けた後頭部が痛い。視界は明滅し、ともすれば意識もすぐに遠のいてしまいそうだった。
「荷物はこれだけですか。沙漠の旅は中々に辛いものですよ」
「……余計なものを持っていく方が無駄よ」
「それは重畳」
このアズハル女学院が位置するアレクサンドリアは、地中海に面した街である。帝都に向かうならば、船旅かと思っていたが――どうやらクラエスの口ぶりだと、陸路で帝都のあるアラビア半島へ向かうらしい。
私は歯噛みした。こうなってしまえば、もう逃げられない。これ以上の反抗はもう無駄だろう。絶望的な未来を思うと、心に鉛が流し込まれたような心地がした。
「残念ながら、私は女も子供も嫌いでして。ああ、ついでに言うと遺構を大量に所有してふんぞり返っているファランドール家もね。だから今後また逃げ出そうとしたときは、今みたいに穏便な方法は取れないかもしれません」
「思いっきり蹴りつけといてその台詞?」
「まだ手加減したほうですよ? 上からは生きていればいいというお言葉でしたので、腕や足の一本や二本くらい」
そう言いながら、クラエスは私の左腕をひねりあげた。痛みに呻くと、腕はさっと離される。どうやら今は本気ではなかったらしいが、散々痛めつけた上で謝罪もなくこの仕打ちだ。どうやら私は本気で嫌われているようだった。
「荷物はこれでいいですね? それでは出発しますよ。貴方の名誉のために、学院側には別の用件だと言っておきましたから」
「……お気遣いどうも」
憎たらしいほどの笑みをクラエスは浮かべ、私に向かって手を差し出した。
身を起こすのを手伝ってくれるらしい。……よくわからない人間だと思いつつ、正直フラフラだった私はおとなしくその手を借りた。華奢な見た目に反して、その手の皮は厚く、いたるところに胼胝があった。
クラエスに連れられて学院の外に出ると、青鹿毛の美しいアラブ馬が四頭、柵沿いに並んでいた。全部の馬に鞍が設えられ、そのうちに一頭には既に荷が積まれている。
「ラクダは慣れないかと思いまして。馬を用意しました。乗馬の経験はありますね?」
「学校の授業程度なら……」
淡々と受け答えしながら、私はやはり帝都に連れて行かれるのだな、としみじみと実感してしまった。先ほどの仕打ちで、反抗する意欲は根こそぎ奪われている。
「少々用がありますので、帝都には直行せず、一度カイロに向かいます。今の時期はナイルも穏やかですから」
私は頷き、言われるままに馬の手綱を握った。
ばさり、と外套の裾が翻る。この手綱を操って、どこかにまた逃げ出してしまおうか。――けれども逃げ出したところで、結局はどうにもならない。こんな小娘一人が沙漠に放り出されたところで、生きてはいけない。現実とはかくも厳しい。
クラエスが先導して、しんがりにはあの黒い兜の部下が。隊列の真ん中に入った私は、静かにため息をこぼした。学院はすぐ傍にあるのに、日常が急速に遠のいていく。
「……ああ、日没だ」
ふいに、クラエスが呟いた。
その言葉に誘われるまま、私は面を上げた。アレクサンドリアの街並みに、覆いかぶさるような広い空。沙漠に灼熱をもたらす巨大な太陽が、朱色の尾を引きながら地平線に消え行こうとしていた。落日は、沙漠にひとときの安息を与える。
今日は格別に美しい日没だ。沙漠の民にとっての一日が、始まろうとしている。
◇
夜の帳が落ちきれば、地上を照らす光は星だけになる。
クラエスが腰布から下げたカンテラが、ほのかな灯りで行く先を照らしている。その燃料の燃えるかすかな音と、馬の足音以外、すべての音が夜の静寂に溶け切っていた。
アレクサンドリアを出発して以来、クラエスも彼の部下も何ひとつと言葉を発していなかった。私は気を張り詰めているおかげで、眠気も吹っ飛んでしまっている。そのおかげで、少しは物を考えることができたように思う。
まずはヨクトシアの件だ。
断言するが、私は謀反の件には関わっていない。容疑はやはり何者かによって仕組まれたものだろう。誰が、何の目的で? そのことはわからないが、私自身に何の問題もない限り、おそらく家を恨む者だと思う。
あまり考えたくはないが、ヨクトシアが仕組んだ可能性も捨てきれない。彼のことは誠実な人間だと思っていたが、謀反を起こしたというなら、その人間性も疑わなければいけない。――彼に関してはもう少し気になることがあるが、今は考えても仕方ない。それよりも自分のことだ。
正直、帝都で身の潔白を証明することは難しい。女で子供である限り、私の立場は弱い。家も、いざとなったら後継でも何でもない私なんか切り捨てるだろう。
そうなると残された選択は一つ。やはり逃げ出すしかないだろう――この先どうなるかはわからないが、帝都に死にに行くよりはよっぽど賢明だろう。次のチャンスはカイロだ。カイロは大規模な地方都市であるし、一度その中に紛れてしまえば中々見つからないだろう。
「……ああ、そういえば」
ふと、思い出したように前方のクラエスが口を開いた。
彼が背筋をすっと伸ばして馬の手綱を握っている格好は、癪だがひどく様になっていた。
「夜旅のつきものは何だか知っていますか」
「……知らないわ」
「沙漠をさすらう民は、夜旅をしながら順番に作り物語をしたり、即興で歌を歌い上げたりするそうですよ。どれ、貴方も少女ですから、そういうものに興味があるかと思いまして」
「残念ながら、この状況で言われても何も心惹かれないわ」
そうですか、と残念そうにクラエスは言った。
「まあ確かに、貴方はそういうものから縁が遠そうですものね。でしたらひとつ、怖い話をしましょうか」
クラエスの声はどこか愉しげだ。怖い話をして私を怖がらせようという魂胆だろう。
「ドヴッジャイラという沙漠の魔物をご存知ですか。……知らないでしょうね。片足は老婆の足、片足はロバの足。全身は真っ黒で獰猛な牙を持ち、ものすごい速さで沙漠を駆け抜けてゆく。どうです? 想像したら怖ろしくはなりませんか」
「逆に滑稽ね。笑えてくるわ」
「それは結構。私は小さい頃この話を聞いて、ひどく怯えたものですが」
苛立ちも露に、そう、と私は短く答えた。捕まえにきた人間相手によくそんな雑談ができる。女と子供とファランドール家が嫌いと言い切っていたのに、それでいてこの男は妙に気安い態度を取るようだ。
「何なの、そんな話をして……私をからかっているの? 私を容疑者だというなら、もっとそれらしい態度を取ったらどうなのよ?」
女学院を出る前に一度折られた私の反抗心が、再び頭をもたげる。刺々しくそう言えば、突然前方のクラエスが馬の足を止めた。
慌ててそれに続くと、背を向けるクラエスの纏う空気が一変したことに気がついた。彼を怒らせたのかと思ったが、次の瞬間、私はそれが思い違いであることを悟る。
クラエスが馬から飛び降り、腰布から半月刀を抜く。カンテラを片手で掲げると、闇の中で蠢く人影をおぼろげに把握できた。――夜盗の類だろう。頭にターバンを巻いた、褐色の屈強な男たちの集団が光に浮かび上がる。
「ドヴッジャイラが出たならよかったのですが。……残念、人間ですね。それ、お前たち。私が帝国軍だとわかっていないなら、まだ許して差し上げますよ?」
「はん、ガキを連れておきながら何を言ってやがる。引き下がるわけないだろ。そのお嬢ちゃんを――――」
夜盗の頭らしき人物がそう言いかけた瞬間、私はもの凄い力で馬の上から引きずり下ろされた。咄嗟のことに瞑目し、私は歯を食いしばった。
しかし恐れていた衝撃はこない。ぼたぼたと頭上に降りかかる液体を不思議に思い目を開けた時、私は砂上に座り込んでいた。さらにあの黒い鎧兜の軍人が片腕で私を抱えている。訝しげに彼を仰げば、彼のもう片腕が振り上げた半月刀が、月影に照らされて赤く滑っていた。
横を向けば、夜盗の一味らしき人物の首が落ちている。――背後から不意打ちをして、私を人質に取ろうとしたのだろうか。それをおぼろげながら理解したが、私の頭はまだ混乱の中にあった。
「ヨルガ、お前はそのまま彼女の護衛をしていなさい。ちょこまかされても困りますし、ここで死なれても計画がうまくいかない」
その声に弾かれたように顔を前方に向ければ、馬を背にクラエスが布で半月刀の血をぬぐっていた。星影に照らされるその姿は、どこか神秘的な雰囲気すら放っている――その足元に屍が転がっているのも、何か奇妙な調和を醸し出していた。
「……お前、まさか……」
一瞬にして戦力の大半を削られた夜盗の頭が、顔面を蒼白にして後ずさる。
「おや、貴方のような田舎盗賊でもご存知なのですか? 私をそこらへんのぺーぺー軍人と一緒にしないでいただきたい」
「はっ、とんでもねえ僥倖だ。噂には聞いていたが、まさかこんな辺境で、帝国最強の……」
気を取り直したように、夜盗が大振りの円月刀を構えた。
二人の会話に耳をそばだてていると、私の頭上から溜め息が聞こえた。ヨルガという名前らしいクラエスの部下は、どうやら呆れているようだった。
「皇帝直属軍様に会えるなんてなあッ!!!」
――それからのクラエスは凄かった。この一言に尽きる。
彼は襲いかかる夜盗を、必要最低限の動作だけでなぎ倒していった。しなやかな身のこなしで、剣を振るい、骨を砕き、肉を断つ。皆殺しだった。そこに慈悲なんてものはなく、まさに地獄絵図が繰り広げられた。クラエスは十分とかからず、その細身で大の男たちの集団を全滅させてしまったのだ。
皇帝直属軍が何なのかはわからないが、彼が他の軍人とは一線を画す存在であることは私にもわかった。しかしそこで湧き上がるのは別の疑問だ。何故そんな大層な人間が、私を捕まえにきたのだろう。しかも皇帝直属ということは、つまり。彼の言う“上”とは―――。
「……どうしよう、事態は思った以上に深刻かもしれないわ」
ヨクトシアの謀反。私にかけられた共謀罪の容疑。私を迎えにきた高位の軍人。どうも、これは単純な問題ではない。何か私には計り知れない事情が絡んでいるような気がするのは、考えすぎだろうか? そうして、私は新たな疑問を抱えることになってしまった。