(3)
「……っ、」
不意に肩に手を置かれ、私は身を揺らした。慌てて背後を振り返ると、ヨルガが顔を覆う兜越しにこちらを見ている。
その時の私は顔面蒼白で、ひどい表情をしていただろう。しかし彼は相変わらずの無言で、私の手を取った。長椅子に座ったままだった私を立たせ、彼は目的を持って歩き出す。
抗うことも頭に無く、私は俯き加減でそれに従った。頭の中が先ほどの光景で一杯で、他のことを考える余裕はなかったのだ。おぼつく足取りで、手を引く彼に従う。
「……ここは、」
そして辿りついたのは中庭だった。
真っ赤な花弁を開くデザートローズが咲き誇り、背の高い木々が清かな影を落とす庭は、さすが皇帝直属軍の本拠地ともあって美しい。しかしその景観を楽しむ余裕もなく、私は隅に置かれた椅子に力なく腰を降ろした。ヨルガは無言のまま、ただ背後に立っている。
私は鼓膜にこびりついた彼らの声に、耐え切れず耳を覆った。そのまま膝を抱きこむようにして身を屈める。
あそこにいた人間の、どれ程が命を落としたのか――その命を奪う仕事をしている軍人は、やはり私とは住む世界が違う。私はファランドール家の娘ではあっても、今まではそこから隔絶されて生きてきたのだ。たった一人の兄の生死ですら、天秤にかけられないままなのだ。
――そんな私が、どうして彼らに銃の引鉄を引かせることができるというのか。
いくら私が、家の築いた栄光という名の屍の山を踏みしめていても――そのことを認めても、まだ私はそこに座り込んだままだ。覚悟のできない、幼い少女のままだ。 そう煩悶していると、ふと、私は頭に何かが降りかかるのに気付いた。驚いて顔を上げると、髪から膝へと何かが落ちる。――赤い花びら。
「デザートローズ……」
ローズ、という名は冠されていてもその姿は一般的な薔薇とは似ても似つかない。膝上に散らばる肉厚の花びらは赤だったり白だったり、その二つが混ざり合っていたりしていて色とりどりだ。
無風なのに、どうやってこの花たちは飛んできたのだろう。そう思って前を向けば、私は正面にヨルガが立っているのに気がついた。彼はこの熱気の中においても甲冑を着込み、腕の中にデザートローズの花を抱え込んでいる。正直に言ってしまうと、かなり奇妙な光景だ。
「あまり花を取っては駄目よ。花がかわいそうだわ」
彼はこくりと頷いただけだった。
クラエスといい彼といい、皇帝直属軍の人間はコミュニケーションが苦手なのだろうか。彼はほとんど喋らないし、ジェスチャーで何かを伝えるということもしない。
「きれいね、この花。こんなところで、誰が育てているのかしら」
答えがないのをわかっていながら、私は一人囁く。
「この花も、いつかは枯れてしまうのね……」
指先で、柔らかい花びらを弄ぶ。膝上の花びらを掻き集めると、両の手のひらがすぐに埋まってしまった。
私は一思いに、それらを握り潰した。柔らかな花びらが、皺くちゃになって指の隙間から落ちて行く。そしてまた、先ほどのように膝の上に広がる。
そんなことを繰り返していると、突然、私は無性に悲しくなってしまった。手のひらで顔を覆うと、微かな花の香りが漂う。
「花も人間も、同じように朽ちて死ぬけれども。貴方達はその未来すら断ち切ってしまうのね。そのことに、苦しくなったりはしないの? いつかは貴方達も、貴方達が殺した相手と同じように、弾丸を身に受けて死ぬかもしれない」
クラエスや、ヨルガや、他の軍人たち。アンジェリカや解放軍の人たち。彼らは何を思って銃や剣を手に取るのだろう。国のためという大義名分を背負いながら、そうやって生きることが苦しくなったりはしないのだろうか。
そして私もまた、そうやって生きていくしかないのか。私の手こそは汚れなくとも、私のために、死ぬ人は沢山出てしまうのだろう。ファランドール家が武器商人として存続する限り、その因果は未来永劫変わらない。
「私は、いいえ、私が、兄さんの生死を決めることができるのかしら。そんな風に容易く、決めていいものなのかしら。少なくとも、私は貴方たちのように強くはない。貴方たちほどの覚悟がない」
私の独白を、ヨルガは身動きもせず耳を傾けてくれていた。その空気が優しいものに感じられたのは、きっと私の願望でしかないけれども。
◇
その後は一仕事を終えたクラエスに連れられ、ファランドール家の屋敷に戻った。その道途、空は落日の尾が紫色にかすかに残るだけで、ほとんど暮れている。青黒いヴェールに銀砂を撒いたように星が耀き始めていた。
私は無言だった。とは言っても、普段からそう積極的に話しかけるわけではないが――今私は口の中に溜めた言葉を吐き出せないまま、少し先を行くクラエスの背を見つめるばかりだった。
アンジェリカの怨恨に満ちた瞳が、網膜に焼きついて消えない。私は人間の相互理解だとか、世界の恒久的平和を信じるような人間ではない。けれども同胞であるはずの二人が、こうも隔たった場所にいるのには胸が痛んだ。それが勝手な同情であることは承知している。――だってクラエスは、はっきりと言いきったのだ。故国に今更どんな感慨もないと。
そう言い切ってしまえる彼は、今までどんな人生を歩んできたのか。
「……そういえば」
最初に口を開いたのはクラエスだった。太陽の残光を浴び、彼の髪は淡く紫がかっている。
「ダマスクスの方の処理も無事に終わったようです。皇帝直属軍側に戦死者はなし。さすがヒューは手際が良い」
「そう。じゃあ、また近いうちに戻ってくるのね」
「やけに無感動ですね。わざわざ立体映像で中継を繋いだはずですが」
なんとなく予想していたことだが、あの映像を見せるように指示したのはクラエスだったらしい。悪趣味なことをすると思ったが、次の瞬間彼が言い放ったことに――私は呼吸を呑み込んだ。
「今回の作戦で使われた武器は、すべてファランドール家産のものです。さらに付け加えるならば――正規軍・皇帝直属軍ともに、使用武器の占有率は9割以上をファランドール家産が占めますよ」
路地に足を踏み入れたところで、クラエスの姿は薄暗がりに隠れてしまう。しかしその声はよく通り、確実に私の耳朶を打つ。
「私の家の作った銃で、貴方はアンジェリカを殺したのね」
「アンジェリカ? ……ああ、そういえば見た顔だと思ったら、あの娼婦の少女でしたか。そうですよ、その彼女を殺した銃です。――貴方の家の“商品”がどんな使われ方をしているか、これでよく分かったでしょう」
クラエスの言葉に、私はスカートの裾を掴んで俯いた。この胸に巣食う虚無感はなんだろう。
「そうね、よくわかったわ。同時に、貴方たち軍人がどれほど非情な人間なのかも。人一人殺す判断ができない私なんかよりもよっぽど冷酷で、覚悟があるってことが」
「……覚悟? 確かに私たちは、殺すからにはいつかは殺されるのでしょう。現に私の父も、その父も、そのまた父も……多くは戦場で死にましたからね。しかしそれは覚悟というよりも、私は必然の運命だと思っています」
運命。そんな単語がクラエスの口から出るとは思わなくて、私は目を細めた。
「運命は抗うことができない。私の根底にあるのは覚悟ではなく、諦観なのでしょうね」
「諦観? 貴方って、思っていたより暗い人間なのね」
「そうでしょうか。サイルには適わない、という言葉があるでしょう。雨が降った時に、脅威へと変貌する涸河……。あれは抗えぬ摂理に対する諦めの言葉なのです。そして時に諦めは、受け入れることに繋がってゆく」
「受け入れる? そうね――私たち沙漠の民は、そうやって生きてきたものね」
「そうです。沙漠は自然も人も、何一つとして愛さない。その過酷な環境に縋りついて生きる私達は、そのことを受け入れ、許すしかないのです。……許すしか、ないのですよ。ユリアナ」
いつのまにか前を歩いていたクラエスは足を止め、こちらを振り向いていた。
壁と壁に挟まれた路地の、狭い空。私たちの頭上では、大きな月がきらりと蜜色に耀いていた。それは清かな光を沙漠に生きる人間に浴びせ、一時の安息を与えてくれる。
「……ヒューからの連絡が一つ。イェルド・ファランドールはまだ帝都にいるそうです」
クラエスが何を言いたいのか、その瞬間、私はようやく理解した。
「貴方は決断をしなくてはいけない。ユリアナ」
月明かりのもとで、彼の白魚のような指がすっと伸び、半月刀の鞘を撫ぜる。
その光景は、どうしてか胸を突かれたような思いを私に与えた。衝動のままに、叫んでしまいたくなる。
クラエスは暗に私に諦めろと言っているのだ。私はファランドール家の人間として生きていくしかない。そして私が生きるために、イェルド・ファランドールは障害となってしまった。だからそれを排除しなければならない。
――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。私は、そんな決断なんてしたくはない。
諦めろ、受け容れろ、そしてそのことを許せ。そうすれば楽になる。少なくともこれから、もう後ろを振り向く必要はない。しかしそれは本当に、正しいのだろうか。
私が彼を殺しても殺さなくとも、きっとこの胸の蟠りは残るだ。諦めて、受け入れて許す。そんなことはただの建前だ。しょうがなかったと自分に言い聞かせるための方便に過ぎない。
相手が沙漠であればそうならざるを得ないだろう。それはあまりにも大きすぎる存在なのだから。でも私が立ち向かうのは同じ人間で、血を分けた兄だ。そのことを思うと、胸を満たす感情はあまりにも辛くて、苦しかった。