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Lost Corner  作者: 八束
クテシフォン騒乱
15/42

(6)

 翌日、帝都の広場では定期市(スーク・ル=ジュムア)が開かれていた。

 定期市とは、常設市場では取り扱えない生き物や武器などを売り捌くための市場だ。私は朝早くからクラエスに連れ出され、人の賑わう広場へと足を踏み入れていた。

 人混みの中でもクラエスのマイペースは健在だ。人を顧みずにずんずん進むその背を追っているうちに、私は徐々に彼から引き離されていった。そもそも歩幅の差があるのだから当然だろう。彼が武器商人の方向に行くのを見て、溜め息をつく。


「帰ろうかしら」


 外套の襟を寄せて、私は一人ごちた。

 人の流れに押されるまま、広場の隅まで行く。建物の日陰になっているため、多くの人がそこで涼んでいた。朝方とは言え、クテシフォンの陽光はやはり厳しい。

 さてどうするかと腕組みをした瞬間、不意に私は背後から軽い衝撃を受けた。身を硬直させ、恐々と背後を振り返る。


「……貴方は」


 私にぶつかってきたのは、どこかで見たことのある少女だった。

 豪奢な金髪に、淡翠色の双眸。その容姿を手がかりに記憶を手繰り寄せて、そして思い出す。――やけにクラエスに絡んできた、あのお茶売りの少女だ。名前はたしかアンジェリカ。


「っ……」


 アンジェリカはお茶売りの格好をしていなかった。頭にターバンを巻き、無雑作に長い髪を纏めあげている。服も砂埃にまみれ、以前とはまるで異なるいでたちだ。彼女は一瞬私を見たが、すぐに横を通りすぎようとする。

 咄嗟にその細い腕を掴んだのは、彼女の足が血で汚れていたからだった。突然触られて驚いたアンジェリカは、訝しげに振り返って私を見る。


「貴方、誰?」


 その問いに私は言葉を詰まらせた。おそらく彼女は私のことを覚えていないだろう。


「……誰でもいいじゃない。それよりそんな足で、こんな不衛生なところを歩くと悪化するわよ。ここからなら医術院が近いわ」

「あらそう。わざわざどうもアリガトウ」


 彼女の態度は冷淡で、クラエスを相手にしていた時とはまるで正反対だ。その軽蔑のこもった翠の瞳に私は苛立つ。

 そういうつもりなら、こっちもそれ相応に対応するまでだ。私はぐっと彼女の腕を引っ張ると、そのまま歩き出した。今までにない強引な態度は、もしかしたらクラエスの影響かもしれない。そう思うと少し腹立たしいが、このままアンジェリカを放っておくのも後味が悪い。

 クテシフォンの誇る医術院の一つは、広場につながる大通りに面している。金字の看板を掲げた石造りの建物は、他とはどことなく一線を画す雰囲気で佇んでいた。

 アンジェリカを連れて、その中に足を踏み入れる。彼女がここまで無抵抗だったのは、おそらく怪我をした足が相当痛むのだろう。怪我の程度は確認していないが、足を引きずって歩くあたり、軽症という訳でもないはずだ。


「すみません、受診――――」


 受付まで行き、白衣の女性に声をかける。手元の書類と睨めっこをしていた女性が顔を上げた瞬間、私は声を詰まらせた。


「……あれ、えっ、……うわ、これは」


 翡翠色の双眸と、視線が重なる。

 イカルガ、だ。彼女はばつの悪い顔をして、当惑した瞳で私を見た。何か言い訳を探しているらしい。

 意外すぎる、そして最悪な人物との再会だ。私はどうするか考えあぐね、それから漸く本来の目的を思い出す。


「足を怪我している子がいるの。受診したいのだけど」

「ああ、うん。そうだね。じゃあこの名簿に名前を書いて」

「はい。どれくらい待てばいいの?」

「この混み具合だと三十分くら……ああ、うん。そうだね。いいよ、僕が診るからこっちに来て」


 その言葉に私は逡巡し、頷いた。公的な目がある場所だし、そもそもクテシフォンは皇帝直属軍の監視下にある。下手なことにはならないだろう。

 ぶすっとしたアンジェリカを連れ、一旦奥の扉を通って中庭に出る。庭の四方を取り囲む部屋ごとに、外科や内科といった役割が与えられているのだ。


「んー、まあ縫うまででもないかな。血の量はすごいけど」


 水場で一度足を洗い、室内で怪我の様子を見てもらう。イカルガの手つきはさすがに手馴れたもので、てきぱきと彼女は処置を施していった。

 アンジェリカはその間もずっと黙ったままだ。ただ時折何か言いたげにこちらを見る以外、ずっと不機嫌そうな顔をしていた。


「はい、これでいいよ。……でも君、ちょっと気になることがあるんだけど」


 イカルガは包帯を巻き終わった彼女の足をぺしっと軽く叩くと、自分よりも幾分か高い位置にあるその顔を見上げる。


「君、硝煙の臭いがすごいよ。まあ、ここは僕たちの縄張りじゃないからどうでもいいけどさ」

「……何が言いたいの?」

「別に。君みたいな可愛い女の子が、怪我をこさえているから心配しただけだよ。他意はないから」


 イカルガは意味深に笑むと、私へと視線を向ける。そして、言い訳をさせてほしいんだけど、と言った。

 イカルガの胸元では、青いトルコ石の徽章が光っている。それは正規医師が揃ってつけるもので、決して贋物には見えない。――彼女はまだ医学生だったはずだ。それがどうして、カイロを遠く離れた帝都になんかにいて、医師として働いているのか。

 私の疑問を鋭く感じ取ったイカルガは、どことなく決まりが悪そうな表情をした。


「いやー、卒業研究をちょっぱやで終わらせたのはいいんだけど、研修期間が足りてなくて。そういう訳で帝都の医術院で研修中なんだよ、今。これが終わらないと卒業できないし、医師免許ももらえないんだよね」

「よく堂々と帝都に来られたわね。このまま軍人に突き出されたいの? そもそも指名手配されていそうな物だけど」

「そこはまあ、単純に僕を泳がせておきたいんだと思うよ。僕は“あれ”に干渉こそできないけど、あの遺構の情報にハッキングできる数少ない存在だからね。――十年前ならともかく、そんな逸材はいまや帝国にはいないから」


 随分と自己評価が高いことだが、反論はできなかった。

 薄々と感じていたことだが、このイカルガという少女は底が知れない能力がある。十六歳で既にアズハル高等学院を修了間近なのだから、それは当然なのかもしれないが。


「ああ、君はもう帰っていいよ。せいぜい、あまり危ないことに頭を突っ込まないことだね」


 イカルガは正面のアンジェリカに向かって、ごく軽い調子でそんなことを言った。 彼女は憤然とした態度でターバンを振りほどくと、長い金髪を指で乱暴に梳かした。それから鋭い視線で私を見据える。


「ここまで連れてきてくれたコト、感謝しないでもないわ。……帝国人なんてキライだけど」

「そう。なら勝手にすればいいわ」


 アンジェリカの態度に、私も冷たく言い返した。彼女が移民である事情もあるのだろうが、そこまで斟酌してあげるほど私の心は広くはない。その華奢な背を見送って、私も腕に抱えていた外套を被り直した。帰るの、とイカルガの気の無い声がかかる。


「長居する意味が無いわ」

「ふうん。まっ、そうだよね」


  イカルガの返答は生気に欠けていた。何となくそれが気になって、次の瞬間、私はふと湧いた疑問を口にしていた。


「貴方の目的って、一体何なの? カナン同胞団に加担しているかと思えば、一端でただの医学生をしているし、遺失技術の技術工でもあるみたいだし。何をしようとしているの?」

「別に。ただの生きるための術だよ」


 すげない答えは冷たく響いた。しかし翡翠色の双眸はかすかに揺らいで、どことなく言葉を選んでいるようにも思える。


「貴方の部屋で見た写真の男性。ヒューの部屋でも同じ人を見たわ。見間違いかもしれないけれども」


 私の言葉に、弾かれたようにイカルガは面を上げた。

 その瞬間、私が彼女の核心をついたことは確かだった。桜色の唇が震えている。黄色みがかったちいさな手が、ぎゅっと白衣の裾を握った。

 あの写真の中で、昔のヒューの隣にいた男性。イカルガと同じ黒髪に、翡翠色の目。その姿が、イカルガを目の前にして私の脳裏では鮮明に蘇っていた。


「……滅多なことを言うものじゃないよ。ユリアナ・ファランドール」


 イカルガの声は怒りに打ち震えているようでいて、悲しみがありありと滲み出ていた。彼女は今、あきらかに動揺している。

 私は無意識に後ずさっていた。後ろ手に、背後の扉の取っ手を確かめる。


「言っていたわよね。貴方の兄は研究員で、十年前に死んだって。――もしかして、貴方のお兄さんは」

「……っ、君って子は……」


 かすれるような声でイカルガは何事かを囁いた。それから、観念したように肩を落とす。


「ミナツキだ。ミナツキ・オギューは僕の兄で、帝国所属の研究員だった。そして君の推測するように……十年前の遺構爆発事件の被害者だよ」

「だったら。だったら、貴方がしようとしていることは、復讐なの? ファランドール家、もしくは帝国に対する」

「復讐? そんな大それたことは考えていない。僕は単純にね、」


 ――あそこに兄さんの死体を捜しに行くだけだ。

 イカルガは薄く笑っていた。まだ十代も半ばというのに、その表情にはまつごを見据えた老人のような静けさがある。


「もういいでしょう? これ以上の詮索は無用だよ、ユリアナ。……君も早くお家に帰るといいよ」

「そう、ね」


 そう答えるのが精一杯だった。

 触れてはいけない部分に触れてしまったような、後味の悪さが胸の中で蟠る。浅慮だった。私は勢いで口にしたことが、こんな事実を引き出すなど思ってもいなかったのだ。

 そして同時に気づかされたことがあった。十年前の事故は、おそらく――私の想像する以上に、多くの人間の心中に深い根を張っている。

 棘のような沈黙を引きずり、私は部屋の外に出る。中庭に潤沢に降りそそぐ陽光のもと、私は走り去るハニーブロンドを見た。

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