(5)
砂埃が立つ。熱風に煽られ、外套の裾が膨らんだ。
クテシフォンから馬を走らせること数刻。澄んだ空気に硝煙の臭いが混じり始めた頃、荒涼とした沙漠の景色が一変した。
荒野のあちこちに、正体の分からない炭化した物体が落ちている。目を凝らして見て、私は初めてそれが大破した遺構の瓦礫だということに気づいた。視界の中央には、黒く焦げた遺構そのものが鎮座している。
その周囲では十数人の軍人が作業をしていた。その中の一人が、私たちの到着に気づいて振り返る。――その顔には見覚えがあった。
「……ヒュー。戻っていたのですね」
馬から飛び降りたクラエスは、彼女に駆け寄るなり、喜びとも落胆ともつかない声で喋った。ヒューはクラエスに笑みだけを返し、副官から受け取った書類を彼に手渡す。そして、使い物にならなくなった遺構を振り返った。
「今回被害にあったのは、遺構第一〇三。ファランドール家所有のものですが、数年前に遺失技術のサルベージは完了しており現在は稼動していません。爆発こそありましたが、人的被害はありません」
「廃墟同然、という訳ですか。それを爆破する意図が分かりませんね。稼働中の遺構を狙うならともかく、遺失技術の残っていない遺構を爆破しても何の益もない」
「打ち捨てられていたような物ですから、警備が無いにも等しかったのです。我々に対する威嚇がてら、そこに狙いをつけたとも考えられますね」
ヒューは穏やかに言う。その横で、書類を捲っていたクラエスが表情をしかめていた。
「――ああ、やっぱり。あいつらの仕業ですか」
「ええ。今回は犯行声明が出るのが早かった。前回の駅で起きた自爆テロと合わせ、犯人は大英帝国解放軍のようです」
「……大英帝国解放軍?」
耳慣れぬ言葉に首を傾げれば、ヒューが解説を加えてくれた。
このガザーラ=ハディージャ帝国連邦が、長らくヨーロッパ大陸を支配していたのは知っているでしょう、と。現在欧州各国は一部地域を除き独立しているが、当時の怨恨は根強い。その代表が大英帝国で、彼らは長い支配期間で悲惨な歴史を背負うことになった。そのために、彼ら国民の帝国に対する感情は決して良いものではない――その一部の過激派が、大英帝国解放軍と称し、たびたび帝国にテロ行為を行っているそうだ。
「彼らは十年以上昔に、我々皇帝直属軍が手酷く叩いたおかげで一度壊滅しています。今回の行為はその残党によるものでしょう」
「残党、ね。それがどうして今更?」
何か理由があってのことだろうか。新聞などを見ていても、特にここ最近英国側との摩擦があったとは書いていない。
「おそらく、ですが。何かしらの火付け役がいますね」
すると、難しい顔をしたクラエスがそんなことを言った。彼はその言葉と共に遺構の残骸へと向かって歩き出す。
彼は白衣を着た軍人に話しかけると何かを受け取り、こちらに戻ってくる。その手の中には透明なケースに入った、何か細々とした金属片が収まっていた。
「これですね」
彼は手袋を嵌めた指先でそれらを選り分け、中から小さな金属片を取り出す。砕けた上にひび割れたそれには、しっかりと文字が刻まれていた。――ファランドール、と。
無意識の内に、私はクラエスの掌からそのプレートを拾い上げていた。薄く金属を伸ばした長方形のそれは、未だ熱を帯びている。厳しい陽光を受け、擦りきれた金属の面が鈍く耀く。爪先で一文字一文字を辿ると、私はぎゅっと目を瞑った。
「……火付け役って。ファランドール家が、このテロに加担しているとでも言いたいの?」
囁くような言葉は、思ったよりも芯を持って響いた。
「どうでしょうね。それはわかりませんが」
「それでも何かしら関係していると、言いたいのでしょう」
「まだ詳しい解析をしてみないと分かりません。もしかしたら、ファランドール家産を偽っただけの可能性もある」
そう言いながらも、クラエスには確信があるようにしか思えなかった。私はスカートの裾をぎゅっと掴むと、胸の中で持て余した感情を抑えこむ。
私はこの状況を悲しむべきなのか、それとも憤るべきなのか。“後継”らしく、責任を感じるべきなのだろうか。それとも、家のやることだから仕方ないと思えばいいのだろうか。私は私の立ち位置すらわからない。
――父も卑怯だ。いきなり、私をこんな立場に投げ出すなんて。
私はぐっと顔を上げると、荒れ果てた沙漠の光景を視界に入れた。使い物にならなくなった遺構が、瓦礫が、硝煙の匂いが、私の五感を刺激する。武器を使うのは使う人間の意思だ。けれども、生まれる犠牲を知ってそれを与える側の意思とは一体何なのだろう。
無言で俯く私を前に、ヒューが空を見上げる。それからぽつり、と独り言のように言った。
「……今日は気温が高い。毒風が吹く前に帝都に戻りましょう」
そして調査員や数人の軍人を遺構跡に残し、私たちは帝都に戻った。
そのまま散会になるのかと思いきや、何を思いついたのかヒューが急に私をお茶に誘った。彼女は軍部の寄宿舎ではなく、そこからほど近い街区に住んでいるらしい。そういう訳で、私とクラエス、ヒューというよくわからない三人組で私達は彼女の住居に向かうことになってしまった。
「ほとんど軍部に詰めているので、あまり帰らないのですが。埃ばかりだったら申し訳ないです」
「そう言って、貴方はきっちり掃除をなさっているのでしょう」
クラエスが欠伸まじりに答える。
辿りついたのは石造りの二階建ての長屋だった。背の高い木々の生い茂る中庭を共有するそれは、クテシフォンでは一般的に見られる形態だ。こんな庶民的な所に皇帝直属軍の頭目が住んでいるのかと思うと、少し意外な感じがする。
外階段をのぼり、彼女の部屋に到着する。ヒューは懐から真鍮製の鍵を取り出すと、扉を開いて私たちを中に招いてくれた。
「どうぞ、つまらないところですが」
そう言って通された一室は、思ったよりも生活感のある場所だった。
蔓草模様のペルシア産絨毯、白い壁には手作りらしきタイルが嵌めこまれ、木製の戸棚には真鍮製のランプやいくつもの写真立てが置かれていた。それらを視界にいれ、ふと私は既視感を覚える。
「ヒューは、二人暮らしなの?」
ヒューは台所にお茶を淹れに行ってしまったため、部屋に残されたのは私とクラエスだけだった。
問いと共に何気なくクラエスを見やり、私は目を瞬く。彼はどうしてか苦々しげな顔つきをして、絨毯の上に膝を立てて座っていた。
「一人暮らしですよ。そこに写っている男は、とうの昔に死にましたから」
そう言われ、再び私は写真立てに視線を移した。
写真に写っているのはどれも二人だ。ヒューらしき女性と、アジア系の男性。ヒューは今よりも年若く、そこに浮かぶ表情にも今のような影はない。とうの昔に、とクラエスは言ったが――写真のどれ一つとして埃は被っておらず、未だに手入れが欠かされていないことを伺わせた。
「ねえ、クラエス。貴方とヒューって、どういう関係なの?」
「……私たちですか?」
どうもこの二人には、奇妙な距離感があるように思えてならない。そう思って問いかければ、クラエスはすっと目を伏せた。
同時に部屋の扉が開かれる。姿を現したのは、お盆に硝子製の茶器一式を乗せたヒューだ。彼女は私たちの会話を聞いていたらしく、少しばかり悪戯っぽく笑んでみせる。
「私とクラエスですか? ……ああ、クラエス。言っていないのですね。私たちは姉弟ですよ」
―――きょうだい。それは意外な単語に思えて、すっと私の胸に落ちた。なんとなく、そんな予感がしていたのかもしれない。確かに二人は顔立ちも、瞳の色もよく似ている。性格はクラエスの方がやや難有りだが。
「ヒュー、」
「別に黙っておくことでもないでしょう。……まあ、そうは言っても、私は妾腹ですが。いわゆる異母姉弟ですね」
手のひらにすっぽり収まるほどのコップに、ヒューが紅茶を注ぐ。ゆらゆらと揺れる琥珀色の液体に目を留めながら、私はヒューの言葉に耳を傾けた。しかし次の瞬間、クラエスが急に立ち上がる。彼は床に落ちていた自分の外套を拾い上げると、ばさりと乱雑にそれを羽織った。
「もう帰るつもりですか、クラエス」
「ええ。――貴方は良いかもしれないが、私は家の話が大層嫌いなもので。それについてはよくご存知でしょう」
ヒューはその行動を大して気にした風ではなかった。淡青色の瞳を伏せると、「では任務放棄ということになりますね、」と囁くように言う。
クラエスは彼女の言葉に一瞬声を詰まらせた。そして私を一瞥すると、強引に腕を引っ張ってきた。加減を知らない力に、私は顔を歪ませる。
「ちょっと、急に何するのよ! 痛いから離して」
「……いいから。いいから、ついてきなさい」
クラエスは吐き捨てるように言った。
抗議の声を上げながら見上げた彼の表情は、苦悩が色濃く滲んでいるように見える。――変だ、と直感的に私は思った。ヒューを相手にすると、クラエスの表情は良くも悪くも崩れる。どうもこの二人の関係は姉弟という一筋縄では片づけられないらしい。
しかし折角お茶に誘ってくれたのに、こんな態度では彼女も気を悪くするのではないか。私は困惑して二人の顔を交互に見比べた。すると、薄笑いを浮かべるヒューが視界に映る。
「……そうですね。意地の悪いことを言ったことは謝ります。けれども、クラエス。お前は、何をしようとしているのですか?」
「何も、忠実に任務を果たそうとしているだけですよ。……貴方に不利益なことなど、何一つ私は」
そうですね、とヒューが感情の篭もらない声で相槌を打つ。
「何一つ、私はしない。前にもそう言ったはずです」
「……その言葉が本当でしたらよいのですが。貴方はファランドール家の後継を預かっている。国益を損なうことはないようにしてくださいね。――私は単純に、貴方が私に報復をしたいのかと思いましたが」
「報復?」
クラエスはその言葉こそが寝耳に水だと、あからさまに苛立った口調で答えた。報復というその言葉自体が、唾棄されて然るべき存在だとでも言うように。
私は居心地の悪さに口を挟むことができない。そのまま場を濁したクラエスに彼女のアパートの外に引っ張り出されてもなお、私は無言だった。少し歩いてクテシフォンの喧騒に包まれてから、漸く酸素を取り戻せたような気がする。
「……クラエスは、ヒューと仲が悪いの?」
疑問を口にすれば、弾かれたようにクラエスが私を見る。その様子に、ああまただ、と私は思った。やはり、ヒューの存在は彼にとって何かしら特別な意味がある。
クラエスは暫くの間無言だった。その間、ただひたすら雑踏を掻き分ける。焚き染めた練り香水の匂いがあたり一面に漂っていた。しゃらしゃらと、人ごみを駆け抜ける踊り子の装飾品が音を立てる。
「悪くは、なかった。けれども、今となってそう言うにはあまりにも複雑に物事が絡み合ってしまったのですよ。……貴方にはわからないでしょうが」
「……そうかしら」
―――頭に浮かんだのは、兄の顔だ。
イェルド・ファランドールは私の血を分けたきょうだい、だ。クラエスの言うように、仲が悪くはなかった。けれども、私たちの間には決定的に埋められない溝が作られてしまった。――今まではその理由がわからなかった。けれども、今は少しだけ推測がつく。
「兄さん――イェルドは、自分が後継になれないと知って、私を憎んでいるのよ。きっと」
十年前を切欠に、本来ならその予定のなかった私が後継に指名された。自分自身を顧みても原因が分からないなら、対外的な理由を探せばいい。そして単純に思いついたのは、後継問題だった。
それは驚くほどに、自分を納得させられる理由だった。きっと兄はその事実を告げられ、そこではじめて、信じて然るべきすべてが壊れたのだろう。
「肉親の繋がりは強いって言うけれども。その分、こじれてしまえば大変なことになるのね」
「……随分、淡々と言うのですね。貴方はイェルド殿に怒ってもよいと思いますが」
「だって、兄さんはその権利があったのよ? それを政略の道具として使われるはずだった妹が、呆気なく横取りしたんだもの。憎んで当然だわ」
私だって、兄に対して罪悪感を覚えたりもするのだ。勿論理不尽だという思いもあるが、本来ならば正当な後継者は兄だ。彼の怒りの矛先が向くのも当然だろう。
「クラエス、貴方もよく分からない人間ね。自分から事を抉らせようとしているように見えるわ」
「今更ですよ。私はそんな生き方しかできませんから」
薄い瞼を伏せて答えるクラエスの横顔を、じっと私は見つめた。彼は今、ヒューのことを考えているのだろうか。私が兄のことを考えているのと同じように。
――兄のことが嫌いかと聞かれたら、分からない、と私は答える。
自分に向けられる悪意に気付けないほど鈍感ではないから、やはり好きではない。しかし実家が憎くとも、それに従順な兄が憎くないのは――きっと過去に、彼が優しかった記憶があるからだ。彼が私の手を取って、笑いかけてくれた時代があるからだ。
――後継の立場が欲しいなら、いくらでも差し出すのに。