(4)
ファランドール家の敷地を出ると、クラエスの足はクテシフォン内に散在する市場の一つへと向かった。市場はまだ開いたばかりという頃合で、行き交う人も疎らな中、軍服姿の彼は異質だ。目についた食料を買い、次に向かったのは通りを抜けた先にある大きな門だった。その影に入り、漸くクラエスが足を止める。
「まったく。この国はどこもかしこも暑い。乾燥しているのがせめてもの幸いですね」
階段に腰を下ろして、溜め息交じりにクラエスが言う。
異国出身の彼には暑さが堪えるのだろう。確かに気温は高いが、砂漠地帯は乾燥しているために木蔭に入ればそれなりに涼しい。
私はクラエスの隣で、先ほど買った朝ごはん代わりのスープを啜った。大量の豆をトマト味のスープで煮詰めた物で、味はかなり濃い。
しかし考えてみれば、この光景も大分異様だろう。制服姿の少女と軍人――傍から見ても、よく分らない組み合わせだ。それを置いても、あんな風にしこたま痛めつけてくれた男と食事をしている。そしてもはや、それについて文句を言う気にもならないのだ。
「……それで、今後の身の振り方って。結局、私はどうすればいいの?」
「まあ、そうですねえ。短期的そして緊急の目的としては、遺構問題の解決をしていただかなくてはいけない」
「解決って。具体的にどうすればいいのかとか、まったくわからないのだけれども」
散々追い詰められたせいで、私は自分が直面している問題と嫌でも向き合わざるを得なくなっていた。心の問題とは別として、だが。
クラエスが返答しようとした所で、人混みの中からお茶売りが寄ってくる。話は中断され、クラエスがお茶売りをあしらう横で、私はぼんやりと市場を行き交う人々を眺めた。
「ああもう、しつこいですね」
ふと、クラエスが苛立ちも露に声を荒げた。どうやら適当にあしらおうとしたお茶売りが、中々食い下がらないらしい。
私は人混みを眺めていた視線を、彼の前方へと移した。すらっと伸びた白い足が視界に入る。そして、瞠目した。
お茶売りは、私よりも幾つか年上かというくらいの少女だった。それ自体は珍しいことではない。私が驚いたのは、彼女が滅多にいないような美人で、その見事な金髪は明らかに純粋な帝国人の物では無かったからだ。
「お兄さん、ワタシの好み。ワタシと遊ばない?」
腰ほどまでの緩く波うつ髪が、陽の光を受けて煌々と耀いている。白皙の肌、淡翠色の瞳は悪戯っぽく細められていた。蠱惑的な雰囲気を纏う少女が白い腕を絡めようとしたところで、クラエスは冷たくそれを振り払った。
「ふふ。お兄さん、奇麗な金髪だね。帝国人じゃないでしょう? どこの人かしら……」
「やかましいですね。ほら、金はやるからあっちに行きなさい。鬱陶しい」
耳に纏わりつくような甘い声は、アラビア語を喋ってこそはいるが訛りが強い。クラエスは不機嫌そうに目を眇めると、紙幣を握らせて少女を追い払おうとした。
すげないクラエスの態度に少女はむうっと唇を尖らせると、懐から抜き出した紙片をクラエスに渡した。それから長衣の裾を翻すと、雑踏の中へと消えてしまう。
「……まったく」
「何のカードだったの? お茶売りでしょう」
「ああ。……娼館ですよ。大方ああいうのは自分の手元に残る金が少ないから、お茶売りなんかの副業で高等教育の学費を稼ぐんですよ」
さらっと言葉を返したクラエスに、思わず私は顔を赤らめた。――娼館。そのような存在は知っていたが、改めて言われてしまうと戸惑ってしまう。そんな私に気がついたのか、クラエスはにやにやと底意地の悪い笑みを浮かべた。
彼が差し出したカードには娼館の名と、少女の名前が揃って刻まれていた。アンジェリカ。天使を意味する言葉ですよ、とクラエスが囁く。かつて技術と共に高度な宗教も失われたこの国では、それはひどく異質な響きのように思えた。
「移民、なのかしら」
「そうですね。あの調子だと、大英帝国出身かもしれない」
「大英帝国……。貴方も、そこの出身なのでしょう?」
私の問いかけに、クラエスは曖昧に笑った。
「出身は、ね。しかし実際のところ、私は人生の大半をこの国で過ごしました。そういう決まりでしたから」
「決まり……?」
「私は英国人であって英国人ではない。複雑な生い立ちなんですよ。……もはや狂った人生だ」
クラエスは言葉の先を言わない。私も詮索する気にはなれず、気まずい沈黙が二人の間に蟠った。暫くしてクラエスは階段から腰を上げると、移動しましょうか、と素っ気なく言って歩き出してしまう。
再び迷路のようなクテシフォンの路地へと入りこむ。しかしクラエスの足取りに迷いはなく、複雑に路地を行き来した後、辿り着いたのは図書館だった。
「……話が途中でしたね。遺構問題の解決のために、貴方はいくらか学ぶ必要がある。少なくとも制御言語を一つ習得しなければ、遺失技術の制御はでいない。それとカナンの民についても知っておいた方がよいでしょう」
「制御言語?」
「遺失技術には、三つの制御言語が使われています。その内の一つは、アラビア語。そして今や残存地域の限られる、英語とフランス語。そして遺構第二〇二は、英語が基本制御言語として設定されています」
制御に言語が必要、と言われてもいまいち分らない。クラエスは実際にやればわかりますよとだけ言って、一人でさっさと図書館の中に入ってしまう。どうも一般解放された図書館ではないようだったが、入口にいた軍人に止められることはなかった。
足を踏み入れた図書館は、遺失文明時代の建物を流用したドーム型の建築だった。天井までびっしりと古今東西の書物が覆い、薄暗い室内ではゆらゆらとガラス製のランプが揺れている。色とりどりのタイルを嵌めこんだ壁には染織が打ちかけられ、図書館というよりも美術館のような独特の雰囲気がある。
「軍部管理下の書庫です。私と一緒にくれば、自由に使ってくれて問題はありません。他言語の書物がここには多いですから」
「……他言語、ね。英語を学べばいいの?」
「ええ。英語は私の母語でもありますから、私がお教えしてもいいのですが。まあ、あまり人に教えるのが得意ではないので」
そう言いつつ、クラエスは本棚の梯子に手をかけた。それをひょいと登ると、天井まで埋め尽くす書物を見上げ、その中の幾つかを手に取る。そのまま投げ落としてくるものだから、避けられなかった私に容赦なく本の雨が降り注ぐ。
「ユリアナ、貴方は意外と運動音痴ですね。いや、見た目通りと言うべきか」
「……うるさいわね」
新聞も避けられませんでしたしね、と言って笑うクラエスはやはり性格が悪い。
しかし反論できる余地もないので、私は唇を尖らせたまま彼の周囲から離れた。乱暴に落とされた書物を手に取ると、目についたテーブルに重ねておく。そして試しにその中の一冊を開いた。
ぱらぱらとページを捲る。アラビア語と比べ、英語とやらは言語体系のまったく異なる言葉のようだ。眉間に皺を寄せる私の背に、クラエスの一ヶ月で習得してくださいね、と鬼のような声が降りかかる。
そういうわけで、この日から私の勉強という名の強制的な受難が再び始まったわけだが――これが帝都における騒動の、ほんの発端に過ぎないことを私はまだ知る由もなかった。
◇
革張りの書物は、経た年月相応に綻んでいた。ページの一枚一枚を丹念に押し開きながら、横に広げた紙に羽根ペンを走らせる。英語を学ぶことは文字に始まり、徐々に単語や文法などにまで広がった。会話はまだにしても、文献の読解程度ならそこそこのレベルになったと思う。我ながら、短期間でよくここまで学べたものだ。
勉強は嫌いではない。――けれども私がここまで熱中したのには、また少し違う理由があるように思えた。
私は重くなった肩をほぐしながら、書物から身を起こした。ざっと周囲に視線を走らせるが、ここ二週間ほどで馴染んだ景色に変わりはない。軍事管理下というのは本当らしく、この図書館は時たま軍関係者が訪れるくらいで、私とクラエス以外の誰もいないことも多かった。
「……おや」
ふと、隅にいたクラエスが書類から目線を上げる。淡青色の双眸は、堅く閉じられた扉を見つめていた。
何事かと思って私も扉を注視すると、突如としてそれが開かれた。姿を現したのは、まだ年若い軍装の青年だ。彼はクラエスを視界に入れるなり、足早にその傍へ歩み寄る。
「まったくお前は無作法ですね。もう少し大人しく入ってきたらどうですか」
「はあ、すみません。……っ、そうじゃなくてですね。緊急事態です、クラエスさん。クテシフォン郊外の遺構でまたテロが」
不機嫌そうに顔を顰めたクラエスもおかまいなしに、青年は何事かを彼に耳打ちした。私は遠目から、彼の顔がますます歪んでいくのを観察する。
青年に急かされ、クラエスはようやく重い腰を上げた。本棚に立てかけていた半月刀を身に付け、外套を羽織ると、そこで初めて彼は私を見た。
「ユリアナ、お前も来なさい」
「は? ……理由を聞かせてもらいたいわ」
「社会勉強です。ほら、行きますよ。……まったく、なんでこの私がわざわざ郊外まで足を運ばなくてはいけないんですか」
愚痴を向けられた青年は困り顔で眉を下げ、それから思い出したように言った。
「肝心なことを言い忘れていました。貴方を呼びつけたのは頭目です。――――ちょうど今日の未明に、カイロから帰還なされました」