(3)
父と別れ、中庭に出る。既に兄の姿はなく、庭は閑散としていた。私は無言のまま、建物に併設された外階段を登り、半ばまで歩みを進めたところで、背後のクラエスを振り返った。
薄光の中、ぼんやりと彼の姿が浮かび上がっている。私は目を細め、ふと彼の襟元が汚れていることに気がついた。部下らしき軍人が言っていた事を思い出し、私は黙ってクラエスの袖を引っ張った。
「何ですか?」
「怪我。それくらい手当てするわよ。こっちに来て」
訝しげなクラエスに無愛想にそう返し、私は彼を引っ張って二階に上がった。久しく足を踏み入れてなかった自室の扉を開く。
中はきれいに整頓されていた。室内をぐるっと見回したところで、違和感を覚える。――あるはずのない物が、ここには揃っていた。それは教科書だったり書物だったりと、私が学院に置いてきたはずの物ばかり。慌てて衣装棚を漁れば、真っ先に控え用の制服が目についた。
「……どういうこと」
「さあ? 私にはわかりかねますが、貴方のお父上が中途退学でも申し出たんじゃないですか。ああ、貴方は高等科までのプログラムを実質修了していましたから……退学というよりは、早期卒業になりますね」
「ともかく、もう学院には戻れないってことでしょう。――どうして」
呆然とした私の呟きに、クラエスの小さな溜め息が重なる。
分かっているでしょう、なんて言いたげな様子だ。私は柔く唇を噛む。――きっと父は、私を追い込もうとしているのだ。もう後戻りのできない場所まで。
苛立ちも露に、乱暴に机の周りにある飾り棚を開く。記憶の限りでは、ここに救急用の諸々がしまってあったはずだ。
「そこ。座って」
「随分と丁重な扱いですね、涙が出ます」
「貴方が今まで私にしたことを考えれば、泣いて感謝してほしいくらいだわ」
おとなしくクッションの上に座ったクラエスを見下ろし、私は言い放つ。
襟は思ったよりも血で汚れていた。血で固まった釦を苦労して外すと、その白い首筋が剥き出しになる。
血の原因は、首に出来た裂傷だった。主要な血管は避けているものの、存外深そうだ。それなのに平然としているのだから、この男には痛覚というものが無いのだろうか。今までの恨みも篭め、消毒薬を含ませた脱脂綿を無造作に傷口にあてがう。
「ねえ、痛くないの?」
「痛いですよ。ユリアナ、貴方も淑女ならもう少し丁寧にしたらどうですか」
それを無視して、私は包帯をぐるぐると彼の首に巻きつけた。まあ、生命力は強そうだし大事には至らないだろう。そう思って荒療治を終了する。
やることも無くなって手持ち無沙汰になると、私は膝を抱えてクラエスに向き合った。クラエスは部屋を出て行くつもりはないらしく、ふてぶてしい態度で座ったままだ。ひたすら沈黙が続く。私の頭の中では、幾度となく父の言葉が鳴り響いていた。
――結局、私がこの家の後継であることは事実だった。それも、抗いようのない。私は自分の知らぬうちに、この国の暗部へと足を踏み入れていたのだ。
カナン同砲団と帝国の争いに巻き込まれ、学院という最後の居場所も奪われた。思い返せば、私の中で処理し尽せないことばかりが起きた日々だった。
「私はこれから、どうすればいいの?」
「アレクサンドリア、カイロには戻らない方がよいでしょう。あそこはカナン同胞団の勢力範囲ですから。出来れば時が来るまでは帝都にいて頂きたい、というのが帝国側の思いであり要請です」
「……そう。本格的に、ファランドール家の後継として扱われるのね。クラエス、貴方が学院にやってきた時から、“そういうこと”だったの?」
冤罪を叩きつけられた時から、そう決まっていたのだろうか。そう思ってクラエスを見上げれば、彼はやはりいつもと同じ無表情だった。
「……それは」
しかし珍しく、彼は私の問いかけに言葉を詰まらせたのだった。
一瞬だけ、長い淡金色の睫毛が伏せられる。色濃い影が、その白い肌に落ちた。
「――そうではなかった、としか今は言えません。結果的に、こうして帝国の思惑の内側へと組み込まれてしまいましたが。……いえ、この話は止めましょう。詮無き話だ」
「何よ、結局何が言いたいの?」
「すみません、私としてもどう言っていいのか分からないのです。……ただ、そうですね。ユリアナ、私が貴方を護衛するのは皇帝直属軍としての職務であり、私個人の意思でもあるということです。そして、きっと貴方はもうどこにも味方がいないと思っているでしょうが」
クラエスの言葉は要領を得ない。しかし彼の声音は、普段よりも僅かに上ずっているようだった。
「見えない所に、貴方の絶対的な味方はいる。それだけは、忘れないでください」
――たとえこの先、どんなことがあっても。
クラエスの声はそこで途切れた。私は目を瞬き、投げかけられた言葉をゆっくりと胸の中で反芻する。――味方、なんて。
その響き自体は甘美だ。窮地に追い込まれた私にとっては、喉から手が出るほど欲しい物のはずだ。しかしそう冷静に頭の中で分析するのに反して、私の心は乾ききっていた。
そう、と小さく囁くように言葉を返す。
そんな人間がいるのなら、どうして今の私はこんな所にいるのだろう。現実が、責任が、私の双肩に圧しかかる。私は目を瞑り、父の言う最も穢れた台というものを夢想した。
――この家に生まれてきた。それだけで、私の存在も悪となるのだろうか。屍の山から、もう降りることはできないのだろうか。分からない。しかし、胸の中で苦しみだけは蟠った。
◇
懐かしい夢を見た。
あの悪夢ではない。荒涼とした沙漠の風景も、星のない夜空でもない。もっともっと優しい、私の記憶の破片だった。
清涼な空気に満ちた、クテシフォンの郊外。青空をすうっと円を描くように飛ぶハヤブサが、ヨクトシアの掲げた腕に降りてくる。砂埃が立ち、彼の身につける外套が風に翻った。
『クテシフォンの空は故郷の空に似ているんだ』
僅かに笑って、ヨクトシアは私を見た。
『故郷は美しかった。街は白と青に彩られて、他のどんな街よりも鮮やかに耀いていた。空と街の青は一緒だった。……懐かしい。今となっては中々帰れないから、一層』
『シャウエン、だったかしら。貴方の故郷は』
『ああ。アレクサンドリアやカイロよりも、もっと、もっと遠くにある。……俺が生まれ、育った場所だ。いつかユリアナも来ればいい。あの街は、本当に美しいから』
ヨクトシアの腕から再びハヤブサが飛び立つ。餌を探しに行ったんだ、と彼は言った。
――ああ、なんて懐かしい記憶だろう。
ほんの少し前の思い出であるはずなのに、胸が強く締めつけられる。彼はあの時はあんなにも近くにいたのに、今はもう手が届かない。
そんな思いと共に、私は目を覚ました。眩い光が、照りつけるように小窓から射している。ぐっしょりと汗で濡れた寝着を指先でつまみ、私は溜め息をついた。
夢の中で抱いた感情の名残を感じ、もどかしい心地がする。気を紛らわすために着替えることにして、私は衣装棚を漁って制服を手に取った。少し迷ってからそれらを身につけた所で、クラエスが問答無用で部屋に入ってきた。
「ノックぐらいしなさいよ……。というか、何で朝っぱらからいるのよ。皇帝直属軍の本部に帰ったんじゃないの」
「一応護衛ですから。ヴィンセント殿の許可が出たので、今日からこちらで寝泊りもしますよ」
「……本気?」
肩を落とした私に、何かが投げつけられる。避けられず衝突してしまってから、私はその正体を確かめた。紙の束――新聞だ。
しかも今日付けだ。まだ刷り立てのインクの香るそれと、クラエスの顔を交互に見比べる。それから新聞の1面を見て、私は目を見開いた。目玉記事として特集されているのが、昨日の自爆テロのことだったからだ。
汽車が到着したばかりのホームを狙った自爆テロ。死傷者百四十二名。犯行声明は未だ出ず。読者の同情を掻き立てんとする扇情的な書き方だから、全てが真実かは微妙だ。
「犯行声明が出てないってあるけど、カナン同胞団の仕業じでは無いのよね?」
「ええ。おそらくは、英国の過激派集団でしょう。ですが、今回の問題はそれでは無い。解析班に急がせたところ、愉快な事実がわかりましてね」
クラエスの声音はまったく愉快そうではない。
「今回自爆テロに使われたプラスチック爆弾。どうも、それがファランドール家の流通させた物のようで」
「ファランドール家が。でも、……驚くことじゃない、のでしょう」
「そうですね。……そのはずなのですが、どうもきな臭いところがある。ファランドール家の武器は幅広く、移民の末端にすら流通しますが――それは複雑なルートを辿り、幾人もの商人を媒介した上で辿りついた結果です。その中でファランドール家が商品に施した刻印も消される。ですが」
「そうじゃなかったってこと?」
「まだ事実確認をしていないので、不確かではあります。たまたまその刻印が消されなかったのかもしれない。けれども、疑う余地はある」
「何が言いたいの? それじゃあまるで、直接ファランドール家が流通させたみたいじゃない」
自分で口に出してから、私はクラエスが言わんとしていることに気がついた。しかし、そのことが事実だったと仮定したところで、それが意味する所は分からない。それを問い質そうとした矢先、クラエスは私の手から新聞を取り上げた。
「まあ、貴方の小さい耳にも挟んでおいた方が良いと思っただけです。あまり気にする必要はない。……それより、朝食がまだでしょう。朝から気の滅入る話をしたところで、外に出ませんか」
「それは別にいいけれど……」
「そのついでに今後の話といたしましょう。貴方も身の振り方が分からないでしょうし」
ばさっと外套の裾を翻したクラエスの後を、私は慌てて追った。