(1)
不規則な振動に、微睡みから意識が呼び起こされる。
車窓に目をやれば、景色は眠る前からちっとも変わってはいなかった。吹きつける砂のせいで、窓は薄汚れている。延々と続く砂漠の風景。空は一点の曇りもない、鮮やかな瑠璃色。地平線に目を凝らせば、ぽつぽつと遺失文明以前の遺跡が荒野に浮かび上がった。石材を積み上げ、細かに色づけたタイルも剥がれ落ちた――遠い遠い、誰も覚えていないような歴史の痕跡。
アラビア半島を横断する長距離列車は、帝都までの長い道のりの中にある。汽車は一般に還元された遺失文明の中でも特に代表的なものだ。乗車料金は依然として高額だが、沙漠の過酷な道程を画期的に変えたため、一般民衆の利用頻度も高い。
「あと二時間ほどですかね。まったく帝都は遠い」
不意に響いた声に、私は視線を前方へと向けた。
クラエスだ。彼は長い体躯を狭そうにして座席に収まっていた。今は軍服ではなく、生成りのシャツにリボンタイ、ズボンというごく普通の格好だ。軍人姿を見慣れた私にとっては、いっそ奇妙にすら思えたが。
――何故私がこの男と列車で同席しているかと言うと、話は二週間ほど前に遡る。拠点でヒューと対面した、あの時のことだ。
その後のヒューの言葉を簡単に要約すると、時間的猶予ができた、というようなことだった。最初から話を整理すると、大昔の文明の遺構には、ドヴッジャイラと呼ばれるものが安置されている。それはカナンの民にとっての“神”であり、帝国にとっても何らかの意味がある物らしい。二つの勢力は平行線を辿りながら対立し、その摩擦の象徴たるものが十年前の遺構爆発事故。ドヴッジャイラはそれ以来、ヒューの言葉を借りれば一時停止状態にあるそうだ。
そして何故その因縁に私が巻き込まれているのかと言うと、問題は件の遺構がファランドール家の管理下にある事にある。停止状態が解けたらほぼ間違いなく暴走するドヴッジャイラを制御するには、管理者権限という物が必要で――今その権限とやらを持っているのが、何故か私なのである。
『元々、十年という期間にはあまり信憑性がありませんでした。そしてやはりその予測が間違っていた。……こちらも確認を急ぎますが、おそらく数ヶ月から半年はずれこむかと。まあ、これも誤差の範囲内でしょうけれども』
そして確認が終わり、イカルガの言葉が正しいことが証明された。そこで突如私に突きつけられたのは、一度帝都――実家に戻れ、という家からの命令だった。そういう訳で学院に戻ることも許されず、私は帝都に出戻りすることになり現在に至るのである。
膝上で組んだ手を見下ろす。胸の中で凝った重いものを吐き出すように、深い溜め息を落とした。戻ることは仕方が無いとはいえ、実家はそう良い思い出のある場所ではない。
「……そういえば、クラエス。貴方最初に、私を謀反の共謀罪で帝都まで連行するって言っていたはずだけれども」
「ああ、あれですか。信じていたのですか? 真っ赤な嘘ですよ」
「そうもあっさり言われると、怒気も抜けるわ……」
クラエスが底意地の悪い笑みで答えたのに、私は怒りを通り越して呆れた。この男、私を散々に扱ったことも覚えていないのか、それすら気にしていないのか――どちらにしろ、性格が破綻しているのには間違いない。
「だとしたら、そう偽って私を連行したのには別の理由があったの?」
「ええ。……ま、言いませんが」
「ドヴッジャイラに関することじゃないの?」
帝国がドヴッジャイラを巡ってカナンの民と争っているならば、そう考えるのも不思議ではないだろう。しかし、クラエスは首を振った。
その後どんなに問い質してみても、彼はのらりくらりと答えを濁すだけだった。ますます彼が何を考えているのか分からない。――今だってそうだ。彼は帝都に戻るようヒューに言われた私に、護衛を名目に同伴すると言い出したのだから。
不承である事はさておき、私はこの件の重要参考人だ。だから帝都に帰還するに当たって、外部勢力の襲撃から守るために護衛が必要なのは分かる。しかしそれがクラエスである必要性は無い。むしろ私に対する嫌がらせとすら思えてしまう。
「大体貴方、私がイカルガの所にいるのを分かって見逃したでしょう」
「飛んで火に入るナントカとは、この事かと思いましたね」
「そこまで分かっておいて、……まあいいわ。どうせ貴方、私を助けてくれるように思えないもの。護衛を名目にまた別の目的があるんでしょう」
「さて、ね。……いえ、少なくとも私は貴方に生きて貰わねばいけません。その点については安心してください。カイロであの少女を見逃したのも、早急に貴方が殺されるという事態がないと解釈したからで。それに、一応助けには行ったはずですよ」
「……生きて、ね。……生死の選択すら自分の手の中に無いなんて、嫌よ」
「そうですね。でも、そういうものですよ」
クラエスは伏し目がちに答えた。その表情がいつになく思案に暮れているようだったので、私も言葉を挟む余地をな無くしてしまう。
溜め息をまた一つ落として、私は居心地の悪さに身をよじった。外を見ようと思ったが、砂埃で窓が曇っている。仕方無しに、私は正面のクラエスへと視線をずらした。
私の黒髪とはまったく違う、光に透ける金髪。――そう言えば、彼は英国出身だったはずだ。かつて征服された経験から、彼らの帝国に対する感情は決して良い物では無いと聞く。それなのに何故彼は帝国に暮らし、しかも帝国直属軍などという特殊な組織にいるのだろう。
◇
ガザーラ=ハディージャ帝国連邦が都、クテシフォンは千年にいたる歴史を孕む古都でもある。
石を積み上げた壁が円形に都を取り囲み、街自体が非常に緻密な作りになっているために汽車は都の中を走ることができない。そのため、私たちを乗せた汽車は壁の外にある駅に到着した。
「このままファランドール家に直接向かいます」
降車口からどっとプラットホームに吐き出される人ごみに混ざり、私はぼんやりと応じた。汽笛が鳴り、背後で汽車が走り去ってゆく。
クラエスがやって来て、予想だにもしないことに巻き込まれ、しかし当初の予定通りに私はこの都に戻ってきてしまった。いつもこのプラットホームに降りるたび、私は故郷に帰って来てしまったという暗い気持ちに沈んだものだ。アレクサンドリアのように潮の匂いも届かず、不毛な沙漠に囲まれるだけの都に。今までなら、ヨクトシアがいたからよかったが――もうその彼も、この都にはいない。
「……おや」
ふと、隣のクラエスが声を上げた。
何となく気になって彼の様子を窺うと、クラエスは人混みの一点を凝視していた。視線の先を辿り、その正体を確かめる。
――子供だ。金髪の少年が両腕で荷物を抱え、人の流れに逆らいながら走っていた。それ自体は特に不審な点はない。しかし彼を見つめるクラエスの目は何故か厳しかった。
その理由を問い質そうとした矢先、異変は起きた。クラエスが私の腕を引っ張る。不自然に周囲のざわめきが途絶え、私の視界がクラエスの外套に遮られた瞬間――耳を劈くような爆音が、プラットホーム中に響き渡った。
激しい熱風にクラエスの外套が煽られる。何が起きたか理解なかったが、クラエスに腕を取られ、私は立ち止まることも許されず走り出した。
煙に喉が焼かれる。ごうごうと炎の吹き上げる音が、焦げた匂いが、私の五感を刺激する。そうして走っているうちに、私はおぼろげながらも周囲を把握した。――きっと爆発が起きたのだ。視界は外套に覆われて分からなかったが、逆に冴え渡った他の感覚器官が如実にその惨劇を伝えてくる。
外に出た、とわかったのは砂漠特有のあの澄み渡った空気を感じたからだ。クラエスが外套を取り払ったことで回復した視界。真っ先に目に飛び込んだのは、無残な姿になった駅の姿だった。爆発後の炎は沈化する様子も無く、いっそう激しさを増してうねっている。
駅の外であっても、あたりは煙が立ちこめて昼間だというのに薄暗い。ぱらぱらと数少ない難を逃れた人々が、火に包まれる駅を呆然と見上げていた。
「入り口近くにいたのが幸いしましたね。あの少年の近くにいたら、確実に死んでいるところでした」
「あの少年って……」
「走り方が不自然でしたから、もしかしたらと思ったのですが。……自爆テロですよ。壁を越えてしまえば帝都の警備も薄くなりますし、それで駅を狙ったのかと」
淡々と言葉を並べるクラエスの声を、その時私は殆ど聞いていなかった。砂の上に膝を落とし、先ほどまで自分がいた駅をただ凝視する。
一体どれほどの命が失われたのだろう。クラエスがいなかったら、私もその無残な犠牲の一つになっていたかもしれない。まず覚えたのは命があることへの安堵だ。しかしそれはすぐに思考の渦に呑み込まれる。
自分の事情で一杯だった頭が真っ白になり、その後湧き上がるのは疑問と恐怖だ。どうしてこんなことが起きてしまったのだろう。あんな子供が何故犠牲になったのだろう。どうして他の人が死に、私が生き残っているのだろう。胸を埋め尽くす虚無感に、私は茫然自失としたまま視線を地面に落とした。
「ユリアナ。立ちなさい」
頭上に降りかかるクラエスの声に、私は身を捩って彼を見上げた。――さすが軍人、と言うべきなのか。彼は平静だった。
周囲は騒がしさを増しつつある。急遽駆けつけた正規軍人から、騒ぎを聞きつけた野次馬までが集いつつある。クラエスは鬱陶しそうに辺りを見回すと、私の腕を取って強引に立たせる。
すると人混みを掻き分けるようにして、漆黒の軍服姿の青年がクラエスに駆け寄ってきた。彼らが纏う外套にはクラエスの物と同じように、皇帝直属軍を示す竜の模様が縫い付けられている。
「クラエスさん、お久しぶりです。いやー、とんだ騒ぎで」
柔らかそうな癖毛をした青年が、軽い口調に反して強張った面持ちでクラエスに話しかける。彼は他の軍人と同じように救出作業には当たらないようだ。
「犯行声明は出ましたか?」
「いいえ。ですが、カナン同砲団では無いようです」
「そうでしょうね。今頃彼らは別のことで手一杯でしょうから」
クラエスは頷くと、長い長い溜め息をこぼした。まるで面倒事がまた増えたとでも言いたげだ。
私はその様子を眺めると、ふと思い出してスカートの煤を払った。惨劇が起こった後でも冷静な彼らのせいで、私も動揺するに動揺し切れない。何故そんなにも平静なのかと詰るべきかもしれないが、それ以上に私の精神力は磨り減ってしまっていた。涙すら流せず、遣る瀬無さだけが胸を埋める。
「クラエスさん。怪我をしていらっしゃいますが、手当てをしていかれますか?」
「いりません。私はこのままファランドール家の方に向かいますから、貴方方は報告をヒューに上げてください。それと、正規軍とは別に爆弾の出所を………」
滔々と喋り続けるクラエスの声も、今は遠い。そして私は会話を終えた彼に連れられ、久方ぶりに帝都の門をくぐることになった。