(1)
サイルには敵わない、という言葉がある。
サイルとは沙漠に雨が降った時、枯河に一時的にできる川のことだ。一気に氾濫するのでよく洪水を起こし、人が死ぬこともままある。つまりこの言葉は沙漠の厳しい自然に対する諦観の言葉なのだが、では、人や権力に対するどうにもならない事態はどう言い表したらよいのだろう。
ユリアナ・ファランドール。今年で十四歳になる私は、今、そのどうにもならない事態というやつに陥っている。――背中を足で踏みにじられ、床に倒れ臥しながら。
「ユリアナ・ファランドール。貴方を共謀罪の容疑で帝都まで連行します」
頭上に降りかかる男の声は甘美だった。
足先で床上をごろりと転がされる。仰向けになり、ようやく圧迫感から解放された私は咳き込んだ。涙に滲む視界で、私はおぼろげにこちらを見つめる一人の男を認識する。
残光に薄ら輝く金髪、白皙の肌。少女が夢見るそのままの容姿、しかし長い睫毛に縁取られた眸は酷薄に私を見下ろしていた。
一章 ◇カイロ逃亡
夢を見る。何度も同じ夢を。
私は沙漠の荒野に佇んでいる。何にも遮られることのない天涯は黒ずみ、暗い紫のヴェールに覆われていた。夜であるはずなのに、星の耀きはそこにはない。
胸に広がるのは強い虚無だ。視界に広がる荒野にはなにもない。私は唇を噛み締め、何も残らない大地を凝視し続けている。何がそこにあったというのか、私には何も思い出せない。ただひどい喪失感ばかりがつきまとう。
その夢を見るたび、決まって私は夜中に目を覚ます。寄宿舎の二段ベッドの上で、自分の荒い呼吸で覚醒するのだ。暗い天井がはっきりと目に映り、徐々に意識が冴え渡ってゆく。下の方からはルームメイトの穏やかな寝息が響き、その場所がようやく自室だということに気づく。身体は冷え込む沙漠の夜でもぐっしょりと濡れ、私は恐怖に喘いでいる。
―――その、繰り返し。
◇
「ファランドール! 目を覚ましなさい」
甲高い女の声が響いた。
同時に教鞭が手の甲に打ち付けられ、弾かれたように私は顔をあげた。――どうやら、らしくもなく居眠りをしていたらしい。
微かな笑い声が周囲に響く。ここは教室だ。今は現代歴史学の授業中で、目の前にはブロンドをひっつめた厳しいと評判の教師。その顔が怒りに染まっているのを見て、すみません、と私は思い出したように言った。
「私の授業で船を漕ぐだなんて、良いご身分だこと。今までの授業の内容を要約してごらんなさい」
教壇に戻り、その女性教師は鞭で机を叩いた。どうやら大層ご立腹らしい。
私は自分の記憶をさっと洗った。寝ていたのはほんの数分だし、内容もさほど進んではいないと思われる。椅子から腰を上げて、悪びれもなく私は言った。
「十年前、カイロ郊外で起きた遺構爆発事件は研究員の全滅という多大なる被害を催した。このことは遺失技術の危険性に関する議論を白熱させ、現在もその遺構は閉鎖されている。……ですね?」
「おおむね正解ね。予習をしているのなら、授業もきちんと聞くように」
はい、と返事をして私は座った。
――正直、こんなくだらない授業、聞く価値もないのだけれども。
遺構も遺失技術も、私の嫌いなもののひとつだ。かつて存在し、何らかの理由によって滅びた大文明。その技術を残す場所が遺構や遺跡と呼ばれるもので、遺失技術は遺構の解析によって得られた、かつての大文明の技術のことだ。
その一部は一般に汎用され、私もその恩恵を受けている一人なのだけれども――それはそれ。遺失技術は別の面も持つのだ。
しかし嫌いだからといって、授業をおざなりにすることもできない。私はすまし顔で板書を写しながら、あくびを噛み殺した。授業はあと数分で終わる。そうすれば、あとは放課だ。今日は何の用もないはずだから、夕食前に少しだけ睡眠を取ろう――そんなささやかな計画が打ち壊されるなんて、まだその時の私は知るよしもなかった。
授業終了を知らせる鐘が鳴ると同時に、私は別の教師に呼び出された。
黒髪の女性教師は、気まずそうに私を教室の外まで連れ出した。その気弱そうに竦められた肩を見て、何か嫌な予感を覚える。人気のない中庭に面した廊下で立ち止まり、教師は私を振り返った。
「ファランドールさん。貴方にお客様が来ているの」
◇
応接室の扉の前に立ち、私は小さな溜息をこぼした。
黒髪の女性教師には、ここへ来るよう指示されただけだった。この女学院は良家子女が多く通う性質上、立ち入る者も厳しくチェックされるはずなのだが、客人の用件や素性すらも知らされることはなかった。釈然としないものを感じつつも、目の前の戸を叩く。そして中から響いた了承の言葉に重い扉を開き、私は顔を引き攣らせた。
革張りのソファーに足を組んで座る男。その男が着込んでいるのは、悪名高き帝国軍の制服だったのだから。
「初めまして。クラエス・イーグルと申します。中央政府から派遣されてきました」
クラエスと名乗ったその人物は、美しい青年だった。
堅苦しい帝国軍の制服をさらりと着こなし、透き通るようなプラチナブロンドを後ろで緩く結んでいる。白磁のような肌、淡青色の双眸は西洋の血を思わせたが、アラビア語の発音は朗々として淀みがない。
相手がこんな若い男だなんて、想像もしていなかった。気圧されそうな自分を押し留め、私は入り口に突っ立ったままクラエスを見据えた。
「ユリアナ・ファランドールです。今日はどういったご用件でしょうか」
「……積もる話がありますので、少し座りましょうか」
クラエスは長い睫毛をそっと伏せると、そう言って私を向かいのソファーに誘導した。どうやら手短には終われないらしいことを悟り、私は内心溜息をつく。
「まず本人確認を。ユリアナ・ファランドールさん。かのファランドール家の末娘で、お兄様が一人いらっしゃいますね。帝都出身、アレクサンドリア在住。現在はこのアズハル女学院中等科二年に在籍。つい先月に十四歳になったばかり」
淡々と語るクラエスの言葉の端々には、さりげない棘が含まれていた。それが家に対するものなのか、私個人に対するものなのかはわからない。悶々としたものが胸中に膨らむのを感じつつ、私は頷いた。
「相違ないわ。私がそのユリアナ・ファランドール。最初に言っておくけれど、家のことを言われても私にはわからないわ。物心がつく前から、私はこの学院で暮らしているのだから」
「それは結構。正直、今回はファランドール家絡みではないのですよ。……そう、ユリアナ・ファランドールさん。貴方自身についての話だ」
そう言われてしまうと、ますます心当たりはない。私は正面に座ったクラエスを凝視した。膝の上に置いた指の端々から、緊張が徐々に全身へと浸透してゆく。
クラエスは間を置くように紅茶に口をつけた。既にその顔から笑みは消え、背筋が冷えるような無表情が浮かんでいるだけだった。
「……ヨクトシア・ルッガーフ・ファラディーン、という人物をご存知ですか」
彼は冷めた紅茶をまずそうに嚥下すると、一段低い声で私にそう問いかけた。
「ええ。兄の友人だったはずよ」
「そうですね。ヨクトシアは貴方のお兄様……イェルドさんのアズハル高等学院時代の同窓であり、官吏の同僚でもありました。貴方とも面識があったはずです」
「学院の長期休暇中によく家に来ていたわ。それが?」
「先月のことです。容疑者ヨクトシア・ルッガーフ・ファラディーンは帝国政府に対し、謀反未遂を起こしました。現在は帝国内を逃走中。そしてユリアナさん、貴方にはその共謀罪の容疑がかかっている」
「……は?」
私は目を見開いた。クラエスの言葉の意味が理解できない。
全身の血の気が引く。脈動を速めた心臓をぎゅっと押さえ、私は冷静に彼の言葉を噛み砕こうとした。……ヨクトシアが謀反を、つまり帝国政府にたいして歯向かった。そして謀反を起こした彼に私が加担していると――この男は、言ったのだ。
「嘘よ」
否定の声は慄きを隠せず、微かに掠れていた。
「しかし証拠が挙がっております。この」
そう言ってクラエスは懐から紙を取り出した。どうやら手紙らしく、流麗なアラビア文字で宛名が刻まれている。
「貴方が容疑者の逃走を手助けした。それだけでなく、この手紙には貴方が謀反に協力したことを仄めかすような内容が。……これは貴方が容疑者に送った手紙ですね」
「嘘よ! そんなもの、私は送ってない!」
「失礼ながら、貴方の授業中に筆跡確認をさせていただきました。筆跡は一致。……弁解は帝都で聞きましょう」
クラエスの口調には追求を許さぬ厳しさがあった。
しかし私に手紙を出した覚えはないし、そもそもヨクトシアとここ一年は会っていないのだ。彼がどこで何をしているかなんて、況してや謀反を起こしたなど知り得るはずがない。まったく知らずに、私はこの学院で平穏な生活を送ってきたはずなのだ――平穏な日常の崩壊する音が、どこからともなく聞こえてくるようだった。
「そんなの嘘よ。嘘よ! 私は何もしていない! そんなのおかしいわ!」
「しかし貴方が共謀罪を犯していない、という証拠もありません。それに私に与えられた任務は、貴方を処断することではありません。貴方を帝都に連れて行くことです」
ああ、と言葉にならない叫びを私はこぼした。これは仕組まれた罪なのだろうか。……誰によって? 誰か、私に対して悪意を持つ人物か?
わからない。わからないことだらけだ。
思考が縺れてゆく。汗で湿った手をぎゅっと握り、私は何とか平静を取り戻そうと努めた。――わからないことだらけのこの状況で、確かなことも僅かながらにあるではないか。それはこのまま帝都に連行されてしまえば、私のこの罪は覆せないだろうということ。
帝国こと、ガザーラ=ハディージャ帝国連邦の建前は実力主義。しかしその裏には男性優位型社会と、異民族蔑視の風潮がある。これが誰かの仕組んだものであるなら、結果は考えるまでも無く死刑だ。
きっとこれは、私の家を憎む誰かの仕組んだことなのだ。しかし私に家の事情なんて関係はない。責任だって何もない。
「荷造りをしなさい。夜には出立します」
容赦のないクラエスの言葉に俯き、私はぎゅっとスカートの裾を握り締めた。
泣きそうなのを必死に耐えた。奥歯を噛み締め、冤罪だと叫び出したい衝動を堪える。そう主張したところで、この決定はもう変わらない。私は共謀罪という覚えもない容疑で、帝都まで連行される。潔白を証明することは不可能だろう。“上”が私を容疑者だと決め付けた時点で、すべては予定調和なのだ。どう足掻いても無駄ならば、することは一つ。
――逃げ出そう。宛てはないけれども、みすみす死ぬよりはよっぽどマシだ。