夫婦の間で
結婚5年目にして、ユリアとアルベルトの夫婦仲は冷え切っていた。正確には、アルベルトはユリアを愛していたようだが、ユリアはそうでなかった。そしてアルベルトも、愛し方が下手だった。
結婚前。当時22歳だったユリアは、当時35歳だったアルベルトに恋をした。ユリアの想いは純粋な恋心であったが、アルベルトはそれを心から信じることが出来なかった。若く美しい娘が、年の離れた自分を愛するはずがないと、思ってしまったのである。特に、アルベルトに経済力があることが、その思い込みを強くした。
一方、アルベルトにとっても、ユリアは魅力的だった。海のように青い瞳。ウェーブのかかったブロンド。小さくてキュートな唇。細くくびれた体。ユリアのアプローチに、アルベルトはすぐに落ちた。落ちながらも、本当にユリアが自分自身を愛しているのかどうか、判断できなかった。
だから、ユリアと親密になればなるほど、アルベルトは仕事に励んだ。アルベルトの仕事熱心な姿はユリアの心を確かに打ったが、それも結婚するまでだった。
ユリア25歳、アルベルト38歳のとき、アルベルトがこの小さな島に転勤することが決まった。そしてそれを機に、2人は結婚した。
結婚すれば、アルベルトは仕事を減らし、私に捧げる時間を増やすだろうと、ユリアは思った。
しかし、実際は逆だった。アルベルトはますます仕事に励み、朝早くから夜遅くまで会社に出るようになった。経済力を増すことで、ユリアに愛されようとしたからであり、それがアルベルトの愛情表現でもあった。
そこがユリアに不満を募らせた。自分は愛されていないと感じた。同居しているのに、丸1日顔を合わせない日もある。さらに、この島に移り住んだことで仲の良い友人にも気軽に会えなくなり、新しい環境にも馴染めなかった。
1年、2年と年数が経つにつれ、2人の仲は冷めていった。
そんな中、今夜の事件が起こった。
そろそろ寝ようか、とユリアがリビングから寝室へ向かおうとしたとき、アルベルトが彼女の前に立った。ユリアはそのとき、久々にアルベルトを正面から見た。5年前は働き盛りの若々しかった彼は、少し老けたようだ。働き過ぎのせいかもしれない。溌剌としたイメージを与えていた刈り上げた茶色い髪は、今は若白髪が混じり始めている。この年齢の男性は腹が出ていることが多いが、彼はむしろ痩せていた。部屋着のシャツの上からも、そのことが良くわかる。鍛えられていたはずの厚い胸板も、薄くか弱いものになっている。
しかし彼の茶色い目には、妙に力がこもっていた。
「なに?」
とユリアは聞いた。いまさら話すことはない、と言うけんもほろろな声。だがアルベルトの方も、何かを話すつもりはなかったようだ。
彼はいきなり、実力行使で来た。
ユリアの体を突然抱きしめると、ソファへ押し倒そうとした。
「やめっ…!」
ギリギリのところで足を後ろに下げ、ユリアは踏みとどまった。それでもアルベルトは怯まない。両腕でユリアの動きを封じると、無理やりキスをした。ユリアは顔を背けて唇を離したが、アルベルトは執拗に追ってきた。
そうするうちに、アルベルトの右腕がユリアの体の前に来た。胸を触ろうとしているらしい。チャンスだ、とユリアは思った。左腕一本なら、ユリアの力でも引き剥がせる。
「やめてっ!」
ユリアは両腕で力強く、アルベルトの胸を押した。
「!」
突然の反撃に驚いたアルベルトは、そのまま体勢を崩した。後ろに倒れ、テーブルの縁に後頭部を強打した。
ドサ、と雪が落ちるような音を立てて、アルベルトが床に落ちた。そのまま、静止。
「…………」
乱れた服と息を整えながら、ユリアはアルベルトを見下ろした。気絶したのだと思い、何も言わずに立ち去ろうとした。
しかし、後頭部から血が出てきていることに気付き、ユリアの中が急に冷えた。足元から、何かが這い上がってくるような気がした。
自宅に帰り着くと、ユリアは真っ先に脱衣所に向かった。着ている服が、すべて血に染まっている。ユリアは服をすべて脱ぎ捨てると、それらを洗濯機に突っ込んだ。洗剤を大量に入れて、まわし始める。
別な服に着替えると、雑巾を濡らしてリビングに持っていく。リビングのテーブルや床には、まだ殺人の痕跡が残っている。ユリアは雑巾で、アルベルトの血を拭き始めた。
赤かった血は、すでに黒くなり始めていた。ユリアは何度も何度も、雑巾で拭いた。
いずれ誰かが、アルベルトの失踪を警察に知らせる。
そうすれば、警察が必ずこの家に来る。
そのとき、殺人の痕跡があってはいけない。逆に、殺人の痕跡がなければ、警察はアルベルトが殺されたことにすら気付かないかもしれない。
湯で拭いたり、石鹸や洗剤をつけて拭いたり、様々な方法で、ユリアは血を拭いた。