海の上で
夜の海は、静かだった。かすかに陸から吹く風の音がするが、波はない。海水が凍りついているためだ。
ユリアはスノーモービルを降りると、マフラーに顔をうずめた。気温はマイナス10度を下回っている。
塩分の多い沿岸付近は、雪が積もるのが内陸に比べ遅い。実際、海の上にはまだ数cmしか雪が積もっていなかった。これなら、かんじきがなくても歩けそうだ。
ユリアは後部座席から、アルベルトの死体を引きずり出した。外気に触れ、アルベルトの体は見る見る冷えていった。寒さに歯を鳴らしながら、ユリアはアルベルトを引きずって海へ向かう。スノーモービルのライトだけを頼りに、沖へと歩いた。
冷たい雪が、容赦なくユリアの顔に当たった。両腕が塞がっているユリアは、顔を振ってその雪を払う。自分の行く先の氷が、上に乗っても割れないほどの厚さを持っているか、慎重に確かめながら進む。
足を一歩進め、軽く踏む。雪の下に氷の感触を確かめたら、足をゆっくりと下ろす。自分とアルベルト、2人分の体重を支える余裕がありそうだと思ったら、その足に体重を預け、もう片方の足を先に進める。
10分もそれを続けたが、スノーモービルからは100メートルも離れていない。
海に捨てようというのは、無謀だったか。
ユリアは後悔してきた。これなら、庭先に埋めた方が楽だった。歩いても歩いても、前へ進めない。体も冷えてきたし、腕に力も入らなくなってくる。
そもそも、どうやってアルベルトを氷の下に沈めるというのだ。
〔ツルハシでもないと、氷は割れないか……〕
しかしそのとき、福音が聞こえた。どこからか、ミシミシという音が聞こえてきた。首を回して、音の発生源を探す。
ほんの数十メートル先、ヘッドライトに照らされる範囲の中に、かすかに氷が上下しているところがあった。氷が割れ、波打っているのである。ミシミシという音は、氷同士がこすれる音だ。
しめた、とユリアは思った。あそこなら、アルベルトを沈めることができるかもしれない。
あと少しで、この死体を手放せられる。ユリアは歯を食いしばって、先へ進んだ。
さらに10分歩いたところで、ようやく割れ目にたどり着いた。2枚の氷が擦れる境目に、ところどころ隙間が開いている。その隙間を、ユリアは長靴で踏んだ。何度も何度も足を打ちつけるうちに、氷が少しずつ削られていく。
そしてついに、アルベルトを入れられそうなほどの穴が開いた。
ユリアはアルベルトの足を持って、穴へ向かって頭から押し込んだ。顔が氷の下にもぐる。肩が引っかかった。アルベルトの肩を足で踏み、無理やり隙間に押し込める。
肩が入れば、後は一息だった。胸、腹、腰が入り、最後に足。かんじきが隙間に引っかかったが、足で踏むと円盤が歪み、簡単に落ちた。氷の下に潜り込ませようと、ユリアは腹ばいになって、腕を隙間に突っ込んだ。コートや手袋が濡れ、背筋が凍えた。歯の動きが止まらず、体中が震える。
それでも何とか、アルベルトを押し込むことができた。ユリアは立ち上がると、荒い息を吐いた。後は、春になるまで、見つからないことを祈るのみだ。
ユリアはヘッドライト目指して、歩き出した。身軽になれば、その距離は短かった。
スノーモービルに乗り込むと、濡れたコートと手袋を外す。エアコンの吹き出し口の前で、両手をこすり合わせる。手が真っ赤だ。指先の感覚が、まったくない。しかも温まるにつれ、指から強烈な痛みがこみ上げてきて、ユリアは身悶えた。
しかし、早く帰らなければいけない。リビングから、殺人の痕跡を消さなければ。
アルベルトがいなくなったことは、すぐに誰かが気付くだろう。アルベルトはごく普通の、いや少し働き過ぎの会社員だ。明日は月曜日だから、会社の同僚たちが彼の不在を不審に思うだろう。警察に通報するのは、いつだろうか。明日すぐ、ということはないはずだ。なら、明後日か、その次か……。
逆に、夫の不在にユリアが気付かなくとも、誰も不審には思わないだろう。だから、ユリアが通報しなくとも、誰も不審には思わないはずだ。
そもそも、それが、ユリアがアルベルトを殺した理由なのだから。