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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第5章 名前のない夜明け

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2:井戸の底へ

2:井戸の底へ


 保管室の門は、これまでで一番静かだった。

 静かすぎるほどだった。

 六つの石片を嵌める前から、門はそこにあった。黒い輪郭を保ち、巨大な黒い太陽を中央に浮かべ、まるで何千年も前からこのホテルの地下に存在していたかのように、ただ沈黙していた。

 その沈黙の奥で、蓮は耳鳴りのような音を聞いていた。

 声ではない。

 まだ声になっていないもの。

 名前を探している音。

 机の上には、名前を書いた紙が並んでいる。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 マーカス・リード。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 名前を失った人。

 声になってしまった人。

 あなたには名前があった。

 それらの文字は、ただのインクのはずなのに、保管室の冷たい空気の中で、かすかに光を帯びているように見えた。

 黒瀬玄は、全員に同じ紙を配った。

「今回は、これを絶対に手放さないでください。落としたら拾う。破れたら読める部分だけでも読む。読めなくなったら、とにかく自分の名前を言う。いいですね」

 彼の声は、いつもの軽さを少し残していたが、目は真剣だった。

 ナディア・ハッサンは、紙を胸ポケットに入れた。

「わかりました」

 マーカス・リードも静かに頷いた。

 彼の右手の掌に残る聞き手の印は、かなり薄くなっていた。だが、完全には消えていない。耳の形をした黒い線は、まるで古い傷跡のように皮膚の上に残っている。

 ナディアの耳の後ろの印も同じだった。

 蓮の右手には、今のところ黒い太陽の印は出ていない。

 だが、だから安全だとは思えなかった。

 黒い太陽は、最後の聞き手を選ぼうとしている。

 誰が選ばれてもおかしくない。

 蓮は胸元の白い石に触れた。

 セティの名前の石。

 そこには、セティの名、カーエムセトの名、そしてまだ完全には読めない「小さな夜明け」の細い線が浮かんでいる。

 温かい。

 その温かさだけが、蓮の中で現実に近かった。

「セティ」

 蓮が小さく呼ぶ。

 石はかすかに震えた。

 声は返らない。

 それでも、そこにいるとわかる。

 セティは、名の井戸の底に近い場所で待っている。最後の鎖に縛られたまま。けれど、以前よりずっとこちらに近いところで。

 ナディアが全員を見た。

「確認します。今日の目的は、名の井戸の底へ到達し、小さな夜明けの名を呼ぶこと。そして、セティの最後の鎖を確認し、可能であれば外すことです」

 黒瀬が続ける。

「ただし、誰かを聞き手として差し出さない。名前を落とさない。黒い太陽の目を直接見ない。声が何を言っても、その場で一人で判断しない」

「はい」

 蓮は答えた。

 マーカスも、低く言った。

「同意します」

 その言い方に、蓮は少しだけ安心した。

 以前のマーカスなら、「同意」ではなく「私が導く」と言っただろう。今の彼は、自分の危うさを理解している。

 それでも、危険は残っている。

 いや、危険が残っているからこそ、彼はここにいるのだ。

 ナディアが言った。

「名前を結びます」

 五人分の名が、保管室に響いた。

「蓮」

「ナディア」

「玄」

「マーカス・リード」

「セティ」

 続いて、蓮が言った。

「カーエムセト」

 マーカスが続ける。

「小さな夜明け」

 ナディアが言った。

「名前を失った人」

 黒瀬が紙を見て、声を張った。

「あなたには名前があった」

 その瞬間、保管室の門が静かに震えた。

 今までのような轟音はない。

 開く音もない。

 ただ、黒い太陽がゆっくり沈み込み、門の奥に黒い太陽の神殿が現れた。

 道は暗かった。

 水路の光はない。

 蓮たちは、光のない神殿へ足を踏み入れた。


     *


 列柱室は、ほとんど崩れかけていた。

 物理的に崩壊しているのか、それとも記憶の構造が揺らいでいるだけなのかはわからない。柱は傾き、壁画は剥がれ、床を走る水路は黒く干上がっている。

 以前は青白く流れていた水路の光が、今は途切れ途切れにしか見えない。

 その代わり、壁には無数の名前が浮かび上がっていた。

 読めるものも、読めないものもある。

 ヒエログリフに似た記号。

 アラビア文字。

 ギリシア文字。

 ラテン文字。

 知らない線。

 途中で途切れた名前。

 黒く塗り潰された名。

 母親の呼び名らしき短い音。

 それらが壁の上で震えている。

 声が名前へ戻ろうとしている。

 だが、戻りきれていない。

 黒瀬は壁を見ないようにしながらも、端末を構えた。

「壁、すごいことになってます。でも見すぎると危ないので、カメラ任せにします」

 ナディアが頷く。

「記録は最低限で」

「わかってます。今回は記録より帰還優先です」

 マーカスは壁の一部を見て、足を止めかけた。

 そこには、エドワード・リードの名があった。

 その横に、黒い染み。

 少年の名があった場所。

 蓮はすぐに呼んだ。

「マーカス」

 マーカスははっとした。

「大丈夫です」

「見すぎないでください」

「はい」

 彼は自分の紙を握り直した。

「私はマーカス・リード。私は声ではない」

 その言葉に、壁のエドワードの名がわずかに揺れた。

 まるで、聞こえたかのように。

 王の間は開いていた。

 耳と口の像は、完全に崩れていた。

 口の部分が割れ、耳の形をした石片が床に散らばっている。聞き、語る門番は、もう役目を保てないのかもしれない。

 王の間に入ると、黒い太陽は半分だけ目を開けていた。

 見るな。

 蓮はすぐに視線を落とした。

 だが、視界の端にあるだけで、全身に圧力がかかる。

 黒い太陽の目は、直接見なくてもこちらを探している。視線ではなく、名前を探している。呼びやすい名、揺らぎやすい名、聞き手になりやすい名を。

 玉座には、ネフェル=カーが座っていた。

 いや、カーエムセトと言うべきか。

 王冠は半分砕け、黒い衣の下に少年の姿が重なっている。王と子どもが、同じ場所に不安定に存在していた。

 彼は蓮たちを見ると、かすれた声で言った。

「井戸へ行くのか」

 蓮は答えた。

「はい」

「小さな夜明けの名を呼ぶために?」

「はい」

 王の顔が歪む。

「名なき者を呼べば、井戸の底が開く。底が開けば、黒い太陽は最後の聞き手を選ぶ」

「選ばせません」

 ナディアが言った。

「声を名前へ返します」

 王はナディアを見た。

「ナディア。お前の耳はまだ開いている」

 ナディアの耳の後ろの印が、少し濃くなる。

 蓮が呼ぶ。

「ナディア」

 黒瀬も。

「ナディアさん」

 マーカスも続けた。

「ナディア・ハッサン」

 印は薄くなる。

 王は、苦しそうに目を閉じた。

「呼び合う名は、強い」

「あなたにもあります」

 蓮は言った。

「カーエムセト」

 王の肩が震えた。

「その名は……もう遠い」

「遠くても、消えていません」

 マーカスが静かに言った。

「あなたも、声ではない。王だけでもない。カーエムセトです」

 王はマーカスを見た。

「リードの名を持つ者よ。お前はよく戻った」

「戻されました」

 マーカスは答えた。

「私一人では戻れなかった」

 王は小さく笑った。

「それを認められる者は、王には向かぬ」

「今は、それでいい」

 マーカスの声は静かだった。

 蓮は王の横を通り、玉座の背後の階段へ向かった。

 黒い太陽の視線が、背中に刺さる。

 半分開いた目が、こちらを追っている。

 それでも、蓮たちは階段へ進んだ。


     *


 名の井戸へ続く階段は、前より長く感じられた。

 いや、本当に長くなっていたのかもしれない。

 何もなかった黒い壁に、今は細い文字が浮かんでいる。

 途中で途切れた名前。

 親が呼んだ愛称。

 墓に刻まれなかった名。

 口に出されなかった呼び名。

 忘れられた祈り。

 階段そのものが、井戸の底へ沈んだ名前を浮かび上がらせているようだった。

 黒瀬が小声で読み上げる。

「蓮、ナディア、玄、マーカス、セティ、カーエムセト、小さな夜明け……」

 彼は何度も繰り返した。

 自分を落ち着かせるためでもあり、全員を結ぶためでもある。

 マーカスは途中で何度か足を止めそうになった。そのたびに蓮やナディアが名前を呼んだ。

 ナディアの耳の印も濃くなったり薄くなったりを繰り返している。

 黒い太陽は、まだ選ぶのを諦めていない。

 階段の最後に、井戸の部屋が見えた。

 中央の白い井戸。

 以前よりも深く、広く見える。

 井戸の縁には無数の名が光っていた。前回、王の名を呼んだことで、黒い染みの一部が剥がれたのだろう。白い線が増え、名前らしき形がいくつも浮かび上がっている。

 しかし、井戸の底はまだ黒い。

 その黒の中に、黒い太陽の半眼が映っている。

 天井ではなく、井戸の底に。

 蓮は視線を逸らした。

 目を直接見てはいけない。

 ナディアが言った。

「ここからは慎重に。井戸の底へ意識を引かれないようにしてください」

 黒瀬が頷く。

「紙、読みます」

 彼は大きな紙を広げた。

「蓮。ナディア。玄。マーカス。セティ。カーエムセト。小さな夜明け。名前を失った人。あなたには名前があった」

 その言葉が、井戸の部屋に響く。

 井戸の底がかすかに揺れた。

 蓮は白い石を取り出した。

 セティの名前。

 カーエムセトの名前。

 黒い染み。

 その染みの中に、前よりはっきりとした線が浮かんでいる。

 まだ文字ではない。

 けれど、呼び名としての輪郭がある。

 蓮は井戸へ向かって呼んだ。

「小さな夜明け」

 井戸の底から、かすかな泣き声がした。

 マーカスが目を閉じる。

「Little Dawn」

 ナディアが、アラビア語の呼び名を続けた。

 黒瀬も紙を見ながら言った。

「小さな夜明け。君には名前があった。お母さんが呼んでいた名前があった」

 泣き声が少し大きくなる。

 井戸の縁の黒い染みが、白く光り始めた。

 蓮は続けた。

「本当の名前はまだわからない。でも、君は名前のない声じゃない。小さな夜明けと呼ばれていた。誰かに待たれていた。誰かに愛されていた」

 その瞬間、井戸の底から映像が浮かび上がった。

 砂漠。

 発掘現場。

 母親の声。

 小さな少年の背中。

 黒い壁。

 返事をしてしまった瞬間。

 蓮は見すぎないようにした。

 だが、映像は井戸の部屋全体へ広がる。

 ナディアが叫んだ。

「これは記憶です。全員、名前を確認!」

「蓮!」

「ナディア!」

「玄!」

「マーカス・リード!」

「セティ!」

 名前を呼び合う。

 映像の中で、少年が振り返った。

 顔はまだ見えない。

 砂と黒い影が、顔を隠している。

 マーカスが震える声で言った。

「私は君の本当の名前を知らない。でも、曾祖父が守れなかった名を、もう一度探しに来た」

 井戸の底から、エドワード・リードの声がした。

「記録した……私は記録した……」

 マーカスが顔を上げる。

 ナディアが警戒する。

「マーカス、引き込まれないで」

 マーカスは頷き、井戸へ向かって言った。

「エドワード・リード。あなたは記録した。でも守れなかった。今は、隠さないでください」

 井戸の底が震える。

 白黒のようなエドワードの姿が浮かび上がった。

 彼は若く、疲れており、恐れていた。

 蓮がこれまで想像していた傲慢な探検家の姿とは違った。目の前のエドワードは、何か取り返しのつかないことをしたと気づいている人間の顔をしていた。

 彼は手帳を抱えている。

 そのページには、黒い塗り潰しがある。

「私は名を書いた」

 エドワードの声が震えた。

「しかし翌朝、文字が黒くなっていた。誰も読めなかった。母親も、私も、誰も……」

 マーカスが言った。

「あなたは、なぜ消したのですか」

「消していない」

 エドワードは答えた。

「消えた。名が、紙から井戸へ落ちた」

 ナディアが息を呑む。

「物理的に塗り潰したのではなく、名前そのものが記録から抜け落ちた……」

 蓮は井戸を見た。

 つまり、あの黒い部分はインクではない。

 名前が落ちた穴なのだ。

 エドワードは続けた。

「だが、母は呼んでいた。小さな夜明けと。私はそれを書き残した。せめて、その呼び名だけは」

 マーカスの目に涙が浮かんだ。

「あなたは、完全に忘れたわけではなかった」

 エドワードはマーカスを見た。

「リードの名を持つ者。私の失敗を継ぐな」

 その瞬間、マーカスの掌の聞き手の印がさらに薄くなった。

 マーカスは深く息を吐く。

「はい」

 エドワードの姿が薄れていく。

 だが、消える直前、彼は井戸の底を指さした。

「母の声を追え」

 その言葉を残し、エドワードは消えた。


     *


 井戸の底から、女性の声がした。

 少年の母親の声。

 蓮はその言葉を理解できなかった。古い現地語なのか、方言なのか、あるいは記憶の中で崩れた音なのか。

 しかし、意味は伝わった。

 帰っておいで。

 小さな夜明け。

 帰っておいで。

 ナディアが涙をこらえるように言った。

「母親の呼び声です」

「名前は?」

 蓮が聞く。

「まだ聞こえません。でも、呼び名ははっきりしています」

 母親の声が、何度も呼ぶ。

 小さな夜明け。

 小さな夜明け。

 小さな夜明け。

 井戸の底の黒い染みが、ゆっくりと白くなる。

 その中から、小さな手が伸びた。

 子どもの手。

 セティの声が聞こえた。

「蓮、今」

 蓮は白い石を井戸の上にかざした。

「小さな夜明け!」

 ナディアも。

「小さな夜明け!」

 黒瀬も。

「小さな夜明け!」

 マーカスも。

「Little Dawn!」

 母親の声も重なる。

 言葉はわからない。

 でも、それは確かに同じ子を呼んでいた。

 井戸の底から、少年の姿が浮かび上がった。

 砂をかぶった小さな体。

 発掘現場で着ていた粗末な服。

 顔はまだ影に覆われている。

 彼は泣いていた。

 しかし、今度は声があった。

「……かあさん」

 蓮の胸が締めつけられた。

 少年は母親の声に向かって手を伸ばす。

 その瞬間、セティの名前の石に刻まれた黒い染みが、白い線へ変わった。

 完全な本名ではない。

 けれど、呼び名としての形が石に刻まれる。

 小さな夜明け。

 セティの声が震える。

「鎖が……見えた」

 蓮は白い石を見た。

 石の表面から、細い黒い線が伸びている。

 それは井戸の底へつながっていた。

 セティの最後の鎖。

 その鎖は、小さな夜明けの呼び名と絡まっていた。

 蓮が手を伸ばす。

 だが、その瞬間、黒い太陽の目が井戸の底で開いた。

 完全に。

 全員が、見てしまった。


     *


 目は黒かった。

 黒いというより、光のない全てだった。

 それを見た瞬間、蓮は自分の名前を忘れかけた。

 いや、忘れるというより、名前が遠ざかる。

 蓮という音が、たくさんの声の中に沈んでいく。

 ナディア。

 玄。

 マーカス。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 エドワード。

 母親。

 水路に沈んだ無数の名。

 全部が同じ重さで押し寄せる。

 誰が誰なのかわからない。

 黒い太陽の声が響いた。

 聞け。

 今度は、全員に向けられていた。

 聞け。

 聞き手になれ。

 声を受け取れ。

 名前を捨てろ。

 声になれ。

 中心になれ。

 マーカスが膝をついた。

 ナディアもよろめく。

 蓮の右手に黒い太陽の印が浮かぶ。

 黒瀬が叫ぶ。

「名前! 名前を読め!」

 彼は自分の紙を広げ、震える声で読み上げた。

「蓮! ナディア! 玄! マーカス・リード! セティ! カーエムセト! 小さな夜明け!」

 その声が、蓮を少し引き戻す。

 蓮は自分の名前を叫んだ。

「蓮!」

 ナディアも、苦しげに。

「ナディア・ハッサン!」

 マーカスが。

「マーカス・リード!」

 黒瀬が自分の胸を叩くように。

「黒瀬玄!」

 そして白い石から、セティの声。

「セティ!」

 井戸の底から、少年の声。

「小さな……夜明け……」

 その声は小さかった。

 けれど、黒い太陽の命令に穴を開けた。

 黒い太陽が揺れる。

 目が全員を見ている。

 誰を聞き手にするか、迷っている。

 蓮は理解した。

 今、黒い太陽は全員の名前を同時に掴もうとしている。

 誰か一人に決められないなら、全員をまとめて聞き手にするつもりだ。

 それは、マーカスがかつて語った構想に似ていた。

 全員で聞く。

 しかし、それは救いではない。

 全員で壊れるだけだ。

 蓮は叫んだ。

「聞かない!」

 黒い太陽が震える。

「僕たちは聞き手にならない!」

 ナディアが続く。

「声を受け取るためではなく、名前へ返すために来た!」

 マーカスも叫んだ。

「声は誰かの所有物ではない! 私のものではない!」

 黒瀬が紙を読み上げる。

「声になってしまった人! あなたには名前があった! 戻れる名前があった! まだ見つからなくても、名前があった!」

 セティの声が重なる。

「小さな夜明け!」

 井戸の底の少年が、泣きながら手を伸ばす。

 蓮は白い石を握り、鎖へ触れた。

 冷たい。

 黒い太陽の目が、蓮を見た。

 直接。

 全身が凍る。

 名前が剥がれそうになる。

 だが、その瞬間、ナディアの声がした。

「蓮!」

 黒瀬が。

「蓮さん!」

 マーカスが。

「蓮!」

 セティが。

「蓮!」

 小さな夜明けが、たどたどしく言った。

「れん……」

 その呼び声で、蓮は戻った。

 自分は蓮だ。

 聞き手ではない。

 器ではない。

 黒い太陽を持つ者という役割だけではない。

 蓮は叫んだ。

「セティの鎖を返す! 小さな夜明けの名へ!」

 白い石が強く光る。

 鎖が震え、井戸の底へ伸びる。

 小さな夜明けの手が、その鎖に触れた。

 セティの声が聞こえた。

「もう、大丈夫」

 蓮は鎖を握りしめた。

「セティ!」

 全員が叫んだ。

「セティ!」

「小さな夜明け!」

「カーエムセト!」

「名前を失った人!」

「あなたには名前があった!」

 声が重なる。

 黒い太陽の目が、初めて怯えたように揺れた。

 声が一つの中心へ集まれない。

 名前へ帰ろうとする流れが、黒い太陽の形を崩していく。

 鎖にひびが入った。

 一本。

 また一本。

 最後の一本。

 蓮は力を込めた。

 セティの名前の石が、白く燃えるように光った。

 そして、鎖が切れた。


     *


 音はなかった。

 ただ、世界が軽くなった。

 名の井戸の底から、無数の光が浮かび上がる。

 声ではなく、名のかけら。

 完全な名前になったものもある。

 呼び名だけのものもある。

 まだ形を持たないものもある。

 それでも、それらは黒い太陽へ戻らなかった。

 井戸の縁に、壁に、水路に、そしてどこか遠い場所へ、それぞれ散っていく。

 小さな夜明けの少年は、母親の声の方へ歩いていった。

 顔は最後まで完全には見えなかった。

 でも、彼は振り返り、小さく手を振った。

 マーカスが泣いていた。

「さようなら」

 彼は言った。

「小さな夜明け」

 少年の姿が光に溶けた。

 白い石の黒い染みは消えた。

 そこには、細く優しい線で、「小さな夜明け」を示す印が刻まれていた。

 そして、セティの姿が井戸の上に現れた。

 鎖はない。

 白い布。裸足。黒い瞳。

 けれど、もう囚われた影ではなかった。

 彼は蓮を見て、少し戸惑ったように笑った。

「軽い」

 蓮の喉が詰まる。

「セティ……」

「声が、遠い」

 セティは自分の胸に手を当てた。

「まだ聞こえる。でも、僕の中じゃない。外にある」

 ナディアが静かに涙を拭った。

「あなたは、もう器ではありません」

 セティはナディアを見た。

 そして頷いた。

「うん」

 その瞬間、井戸の底から黒い太陽が大きく震えた。

 目はまだ開いている。

 だが、焦点が合っていない。

 聞き手を失った。

 中心を失った。

 名前を取り戻した声が、黒い太陽から離れ始めている。

 けれど、完全に消えたわけではない。

 王の声が、遠くから響いた。

「まだ終わらぬ」

 カーエムセト。

 彼の声だった。

 蓮は顔を上げた。

 井戸の奥に、王冠の砕けた少年が立っている。

 カーエムセト。

 彼は泣いていた。

「私は、何をすればいい」

 蓮は答えられなかった。

 セティが、そっと言った。

「聞かなくていい」

 カーエムセトはセティを見る。

 セティは続けた。

「もう、一人で聞かなくていい」

 カーエムセトの顔が歪む。

 黒い太陽の目が、最後の力で彼を見ようとする。

 次に狙われるのは、カーエムセトかもしれない。

 王としての名を失いかけた彼を、黒い太陽が再び中心にしようとしている。

 ナディアが叫んだ。

「戻ります! ここは崩れます!」

 井戸の部屋の壁に亀裂が走っていた。

 黒瀬が叫ぶ。

「床も危ない!」

 蓮はセティに手を伸ばした。

「来て!」

 セティは、その手を取った。

 初めて、蓮の手に感触があった。

 温かい。

 本当に、子どもの手の温度だった。

 蓮は息を呑んだ。

 セティが少し驚いたように言った。

「触れる」

「行こう」

 蓮は彼の手を握った。

 マーカスがカーエムセトへ手を伸ばす。

「あなたも」

 カーエムセトは動かない。

「私は王だ」

「違います」

 マーカスは言った。

「あなたはカーエムセトです」

 ナディアも呼ぶ。

「カーエムセト」

 黒瀬も叫ぶ。

「カーエムセト! 置いていきません!」

 蓮も叫んだ。

「カーエムセト!」

 少年は震えた。

 そして、王冠の残骸を床に落とした。

 彼はゆっくり歩き出す。

 黒い太陽が叫んだ。

 声なき叫び。

 井戸の底が崩れる。

 蓮たちは走った。


     *


 階段を駆け上がる間、神殿全体が揺れていた。

 セティの手は蓮の手の中にある。

 カーエムセトはマーカスに支えられながら進んでいる。

 ナディアは先導し、黒瀬は最後尾で名前の紙を読み上げ続けた。

「蓮! ナディア! 玄! マーカス! セティ! カーエムセト! 小さな夜明け!」

 名前が、崩れかけた神殿に響く。

 王の間に戻ると、黒い太陽は半分崩れていた。

 完全には消えていない。

 目はまだ開いている。

 だが、その周囲の闇が剥がれ、無数の名前の光が外へ流れている。

 カーエムセトは一度だけ振り返った。

 その目には恐怖があった。

 セティが言った。

「見ないで」

 カーエムセトは頷いた。

 そして走った。

 列柱室では、壁の名前が一斉に輝いていた。

 誰かの名。

 誰かの呼び名。

 まだ読めない名。

 けれど、声ではなく名前へ戻ろうとする光。

 門が見えた。

 ホテル地下へ戻る門。

 黒瀬が叫ぶ。

「急いで!」

 全員が門へ飛び込んだ。

 保管室の床に転がり出た瞬間、背後で神殿の音が遠ざかった。

 門はまだ開いている。

 しかし、その奥は揺らいでいた。

 蓮はすぐにセティを見た。

 彼はそこにいた。

 完全な実体ではない。けれど、以前のような幻でもない。半透明の体で、床に座り込んでいる。息をしているように肩が上下していた。

 カーエムセトもいた。

 王冠を失った少年の姿で、壁際に膝をついている。彼は自分の手を見つめ、震えていた。

 マーカスはその隣に座り込んだ。

 ナディアは信じられないという顔で二人を見ていた。

「戻った……」

 黒瀬が呟いた。

「本当に、戻りましたよね?」

 蓮はセティの手をまだ握っていた。

 温かい。

「戻った」

 蓮は言った。

 その瞬間、保管室の門に黒い文字が浮かび上がった。

 蓮は読んだ。

 小さな夜明けは名へ帰った。

 小さき耳は器を離れた。

 王は王冠を落とした。

 黒い太陽は、最後の夜に沈む。

 そして、最後にもう一行。

 夜明けを見よ。

 蓮は顔を上げた。

 外はまだ夜明け前だった。

 窓のない地下にいても、なぜかわかる。

 もうすぐ、朝が来る。

 セティが小さな声で言った。

「蓮」

「うん」

「空、見たい」

 蓮は頷いた。

 今度は言葉に迷わなかった。

「行こう」

 約束ではなく、今できることとして。

 彼らは、地下を出る準備を始めた。

 黒い太陽はまだ完全には消えていない。

 最後の夜は、まだ残っている。

 だが、名前のない少年は小さな夜明けとして帰った。

 セティは器を離れた。

 カーエムセトは王冠を落とした。

 そして蓮たちは、初めて地下の外へ、夜明けを見に行こうとしていた。

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