【折られた剛直:廃墟における最後の審判】
エッセン小鎮の郊外に広がる黒い森。夜は濃霧と呪いに飲み込まれた禁区となる。 廃墟と化した風車小屋が、暴風雨の中で死にゆく老人のように「ギィ、ギィ」と軋んだ声を上げていた。巨大な木製の水車はとうの昔に止まり、泥に半分埋もれている。 ケインは片手にランタンを掲げ、もう片方の手で佩剣の柄を固く握りしめていた。鎧の隙間から刺すような冷たい雨が浸入するが、彼の胸に燃える、自殺行為にも等しい使命感を冷やすことはできなかった。
「出てこい! そこにいるのはわかっている!」 ケインが風車小屋の暗い内部に向かって叫んだ。 声は虚ろな建物の中で反響し、滴る雨音と風の音を除けば、窒息するような静寂だけが返ってきた。腐敗した穀物袋をいくつかひっくり返してみたが、逃げ出すネズミとカビの跡以外には何もなかった――異端も、伏兵も。
ただの悪質な嫌がらせかと思い、彼が背を向けようとしたその時。暗紫色の光が、二階の回廊で一瞬だけ閃いた。
「ケイン、想像以上に鈍いのね。これが聖教軍の言う『エリート』かしら?」
クリアが二階の横梁に優雅に腰掛けていた。足を組み、手に持った漆黒の杖を無造作に肩に立てかけている。彼女はあの重々しい騎士のコートを脱ぎ、動きやすい濃色の戦闘服に身を包んでいた。風にたなびく衣の裾は、まるで食屍鬼の翼のようだ。
「団長……」 ケインがランタンを掲げると、そこには戯れに満ちた笑みを浮かべるクリアの顔があった。 「ここには異端などいない。この巡回は、私を駐屯所から引き離すための策ですか?」
「引き離す? いいえ、心外だわ」 クリアは軽やかに跳躍し、ケインの三メートルほど手前に音もなく着地した。その着地と同時に、目に見えるほどの重力波が周囲の雨粒を瞬時に叩き伏せ、一瞬の真空を作り出した。 「あなたが求めていた『真実』をあげに来たのよ。あの子たちのことが、ずっと気になっていたのでしょう?」
彼女は懐から一本の古びた赤いリボンを取り出した。それは失踪した少女が最も大切にしていた遺品だった。彼女はそれを泥濘の中に無造作に投げ捨てた。
「あの子たちは今、エッセンの『生命力』として、みんなの胃袋の中を流れているわ。骨は砕かれ、血肉は煮込まれ、この死に体の街を動かす燃料となった。そして、あなたの敬愛する聖女アリアこそが、その屠殺場の料理長シェフなのよ」
ケインの瞳が激しく震え、ランタンを持つ手が激しく揺れた。 「貴様、この悪魔め……! 帝国の民を食糧にするなど、正気か!」
「狂気? いいえ、これは『効率』よ」 クリアは悠然と木杖を縛っていた皮帯を解いた。安っぽい木製の外装が剥がれ落ち、内側から暴虐な紫電を放つ漆黒の金属が姿を現す。 「そこまで正義を語るのなら、あなたの最後の『余剰価値』も活用してあげましょう。実直な騎士の魂をアリアの本に喰わせれば、彼女の魔力も一段上の次元へ進化するはずだわ」
「貴様の首を掲げ、この暴行を告発してやる!」 ケインは怒号と共に長剣を抜いた。剣身がランタンの微かな光を反射する。それは、彼の最後の矜持だった。
「勇気だけは認めてあげる」 クリアは低く、神経質な冷笑を漏らした。右目の奥で紅い光が爆発的に輝く。 「けれどケイン、忘れているようね。絶対的な重力の前では、あなたの言う正義なんて……直立する権利すら持たないのよ」
「女神の栄光のために、死ね! 魔女め!」 ケインが咆哮し、聖なる輝きを纏った長剣が風車小屋の腐った床を粉砕した。聖教軍出身の彼は、精緻かつ豪胆な剣技を持っていた。一振りごとに風を切り、クリアを死角へと追い詰めていく。
クリアは珍しく「防戦一方」に見えた。漆黒の杖は昨夜のような恐怖の重力を振るうことができず、ケインの嵐のような猛攻を辛うじて支えているに過ぎない。
「自慢の重力魔法はどうした! なぜ使わない!」 ケインの重い一撃が杖を捉え、クリアの手のひらから血が滲む。彼女はよろめき、残骸の穀物槽に背を打ちつけた。
「ふふ……この……脳筋め……」 クリアは肩で息をしていた。整っていた黒髪は乱れ、口角からは血が伝う。その瞳には、稀に見る「恐怖」の色が浮かんでいた。 「あのような規模の結界を維持し続けることに……代償がないとでも思ったの……」
その姿を見たケインの心に、一つの確信が生まれた。救済院の秘密を守るための結界維持に魔力を使い果たしたのだと。彼は呼吸を整え、全身の聖気を剣先に集約させた。この大罪人たる魔女に、最後の一撃を見舞うために。
剣先がグリアの胸を貫こうとしたその瞬間――クリアの手から力が抜け、漆黒の杖が地面に落ちた。彼女は泥の中に崩れ落ち、震える手を差し出した。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。それはアリアのそれと瓜二つの、胸を打つような偽善の演技だった。
「待って……ケイン……」 彼女の声は弱々しく、後悔に満ちていた。 「私の負けよ……アリアが……あいつが《魂の沈黙》で私の心を操っていたの……私はただの……操り人形だったの……」
ケインの剣先は、クリアの喉元わずか数センチのところで止まった。 彼は目の前にいる、かつての傲岸不遜な姿からは想像もつかないほど矮小で卑小に見える上官を見つめた。彼の正義感は、その瞬間に致命的な過ちを犯した――帝国法にある「被支配者」への減刑条項、そして騎士規章の「降伏者を殺さず」という教条が頭をよぎったのだ。
「私と共に戻り……審判を受けろ」 ケインは歯を食いしばり、怒りながらも、その瞳から殺意は消え失せていた。 「もし操られていたのなら、法がお前を……」
「法?」
俯いていたクリアの顔が、影の中で空気を凍りつかせるような笑みを浮かべた。
「法はこう言っているわ……『愚かであること自体が死罪』だとね」
――オンッ!
岩をも粉砕するような重力場が、ケインの頭上で爆発した。反応する間もなく、彼はその恐怖の力に叩きつけられ、片膝をついた。全身の骨がひしめき合い、砕ける音が響く。彼は驚愕した。聖気を込めたはずの自らの長剣が、グリアの細い指にあっさりと奪い取られていた。
「綺麗な剣ね。惜しいわ、持ち主が馬鹿で」
クリアは軽やかに立ち上がった。「衰弱」も「涙」も跡形もなく消え去り、そこには戦慄を覚えるほどの狂気が宿っていた。彼女は片手でケインの聖剣を提げ、もう片方の手を猛然と押し下げた。ケインは泥の中に完全に釘付けにされ、身動き一つ取れなくなった。
「な……貴様、卑怯な……!」 ケインは目を血走らせ、狂ったように足掻いた。
「卑怯? いいえ、これは『正義』の精密な利用よ」 クリアは悠然とケインの背後に回り込み、彼の首筋に聖剣を添えた。冷たい刃が肉を圧する。 「慈悲をありがとう、ケイン。さっきそのまま刺されていれば、少し面倒なことになっていたかもしれないわね」
クリアは低く神経質な冷笑を漏らすと、ケインの耳元に顔を寄せ、絶望的なまでに優しい声で囁いた。
「さようなら、騎士様。あなたの首は、明日のアリアの食卓を飾る、最高のオブジェになるわ」
――グチャリ。
寒光が走る。 ケインが一生守り続けてきた聖剣によって、彼の正義と憤怒に満ちた首は、滑らかに、そして残酷に断ち切られた。
鮮血が噴水のようにクリアの冷酷な笑顔に飛び散った。彼女は手の中の邪魔な聖剣を放り捨て、戦利品を拾い上げるかのようにケインの髪を掴み、驚愕の表情を浮かべたままの頭部を高く掲げた。
「お姉様、きっとこのプレゼントを喜んでくれるわ」
断頭に向かって、クリアは軽快な狂笑を上げた。その声は豪雨と黒い森を突き抜け、廃墟となった風車小屋の中にいつまでも響き渡っていた。
暴雨が去った後の清晨せいしん、エッセン駐屯所の広場には粛然とした、重苦しい空気が漂っていた。 ケイン副官の遺体――正確には、「不明の異端」によって無残に斬首され、四肢を不自然にねじ曲げられたその骸が、帝国の十字旗に覆われて霊柩の中に横たわっている。
「ケイン副官は高潔な騎士であった! 彼は正義への偏執ゆえに、影に潜む卑劣な異端の手にかかって命を落としたのだ!」
クリアは喪服に身を包み、胸元には哀悼の白い花を飾っていた。目元は微かに赤らみ、その声は適切に掠れ、震えている。優秀な部下を失った深い悲しみに耐えているかのように。
「治安騎士団魔法術士団長の名において誓う、ケインの血を無駄にはさせないと!」 彼女は猛然と人差し指を天に向け、口調を鋭い殺意へと変えた。 「今日より、黒い森の周辺全域を封鎖する! 不審な動きをする者は老若男女問わず、すべて捕らえ尋問せよ! 我ら英雄の魂を鎮めるため、百倍の異端の血を捧げるのだ!」
周囲の騎士たちはその激昂した復讐心に煽られ、次々と武器を掲げて叫び声を上げた。だが、追悼のために頭を垂れたクリアの口角に、一瞬だけ浮かんだ嘲弄に気づく者は一人もいなかった。
(完璧な幕引きね、ケイン。あなたの死は、捜査権を拡大するための絶好の口実になってくれたわ)
しかし、観礼台の影から、一筋の鋭い視線がグリアを捉え続けていた。 治安騎士団の最高責任者――ギル団長。彼は数多の戦場を潜り抜けてきた老将であり、その顔の傷跡は死線を越えてきた証だった。彼は熱狂する部下たちを見やり、そして「見るも無惨な」死体に目を落とし、深く眉間に皺を寄せた。
「クリア、ちょっと来い」 葬儀が終わった後、無人の廊下でギルは彼女を呼び止めた。
「団長、何かご用でしょうか?」 クリアは悲嘆の表情を崩さぬまま、恭しく頭を下げた。
「ケインの傷跡だ」 ギルの声は地鳴りのように低く、その眼光はクリアの瞳を射抜こうとしていた。 「首の切断面があまりに滑らかだ。おまけに聖教軍特有の聖気の残滓がある。犯人はケイン自身の聖剣であいつを殺した。これは並の異端にできる芸当ではない。……完全に制圧された状態で、至近距離から処刑された跡だ」
ギルは言葉を切り、危険な試問を投げかけた。 「それに、ケインが消えた夜、お前も駐屯所を離れていたようだな。これはただの偶然か?」
クリアの瞳に動揺の色はなかった。彼女はゆっくりと顔を上げ、ギルの詮索を受け止めた。 「団長。私が、自分の部下に手を下したとでもおっしゃりたいのですか?」 彼女は、悲痛でやりきれないといった風の苦笑を浮かべた。 「あの夜、私は救済院で姉と救済活動の打ち合わせをしておりました。修道女たちが証言してくれるでしょう。私の悲しみが偽りだと思われるのであれば、今すぐ私を武装解除なさるがいいわ」
長い沈黙が続き、空気は張り詰め、凝固した。やがてギルは視線を外し、鼻を鳴らした。 「……そこまでは言っていない。だがグリア、忘れるな。エッセンの秩序を守るのは私だ。お前のその『一斉検挙』、あまり調子に乗るなよ」
去りゆくギルの背中を見送るクリアの瞳から、哀しみは一瞬で氷結し、野獣のような冷酷さへと変わった。
「ギル団長……」 彼女は低く呟き、袖口に隠した魔法陣を指先でなぞった。 「どうやら、この駐屯所にも徹底的な『清掃』が必要なようね。次の霊柩の場所は、あなたのために空けておいてあげるわ」
第一章完結です。最後までお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。 正義を貫こうとしたギルでさえも、最後にはスープの一部として「救済」されました。 このエイゼンの街では、誰もが素材であり、誰もが共犯者なのです。 さて、 次章では、この「血の匂い」に魅了されたもう一人の少女、クレスタの物語が始まります。 次なる血の悦楽でお待ちしております。




