【崩壊の序曲:愚昧なる審判と裏切り】
【刻印の代償:『汚濁』と見なされた帰還者】
朝霧がいまだ晴れやらぬ頃、シールは、刺すほどに濃厚な晩香玉の香りを全身に纏い、村の入り口へと足を踏み入れた。その足取りは軽く、顔には昨夜の余韻による羞恥が残っていた。しかし、井戸の周りに集まる人々の姿を見た瞬間、その軽やかさは粘りつくような沈黙に飲み込まれた。
老村長が先頭に立っていた。かつて、震える手でエルビアの薬草を受け取ったあの節くれだった手は、今や腰の鉈の柄を強く握りしめている。
「村長おじいちゃん……みんな、どうしたの?」シールは不安げに襟元を引き寄せ、朝光の中で翡翠色に微光を放つ、首筋の刻印を隠そうとした。
「シール、こちらへ来なさい」老村長が口を開いた。
その声は、乾いた落ち葉を石で擦り合わせたかのように掠れていた。彼は一歩歩み寄り、鼻翼を激しく震わせた。「この匂い……森の匂いではない。これは、呪われた場所にしか漂わぬ死の香りだ。昨夜、一体どこにいた?」
「エルビア様のところにいました。彼女は、狼に襲われた私のショックを治すために……」
「治すだと?」傍らにいた若い猟師が、激しく「ペッ」と地面に唾を吐いた。
「『食われた』の間違いだろう! 村長、あいつの首を見てください! あれは人間が付けた跡じゃない、妖魔の噛み跡だ!」
群衆の中に不安な動揺が走った。かつてエルビアに病を治してもらったはずの人々が、今は最悪の猜疑心に満ちた眼差しを交わし合っている。
「村長、あいつは聖母だなんて言っていたが、猟犬さえ近づかない禁区に娘を連れ込む聖母がどこにいる?」一人の農婦が叫び、我が子を強く抱き寄せた。「あの女が村に来てから、うちの牛乳は酸っぱくなったわ! 絶対に呪いをかけているのよ!」
老村長の頬が引きつり、瞳の中の信頼は、恐怖という毒によって一滴、また一滴と腐食されていった。シールの首筋で異様なほど美しく光るその微光は、もはや救済ではなく、死を招く呪符にしか見えなかった。
「わしは信じたかった……」老村長はシールを見つめ、冷酷な決意を込めて言った。「もしあいつがエルフなら、村に百年の豊作をもたらしてくれるかもしれん、とさえ思った。だがシール、今の自分を見てみろ。目は虚ろで、人を狂わせるような香りをさせている。あいつはあんたを救ったんじゃない。あんたを自分と同じ『怪物』に変えようとしているんだ!」
「違うわ! 彼女は優しいの、あなたたちの誰よりも……」
「黙れ!」老村長は悲憤の咆哮を上げ、杖を「ドンッ」と力任せに地面に叩きつけた。「その『優しさ』こそが最も恐ろしいのだ! 薬草でわしらを買収し、美貌であんたを誘惑し、最後には何だ? 村中をあの黒い蔓の餌食にするつもりか!」
「村長の言う通りだ! 魔女は魔女だ!」
「あの跡を見ろ! あれは汚濁の証だ! 災厄を村に持ち込ませるな!」
かつての炊き出しの煙のような温かな隣人愛は、恐怖によって完全に焼き尽くされた。老村長は苦渋に満ちた表情で目を閉じ、再び開けた時には、そこには残酷な自保本能だけが宿っていた。「シール、恨むなよ。村のため、あんたの身の『汚れ』を清めねばならん……。そして、あんたを唆した根源も、根こそぎ絶たねばならんのだ」
彼が手を振ると、数人の壮年たちが縄と松明を手に、シールを取り囲んだ。シールは、見知ったはずの長老たちの顔が、霧の中で「幽影の鬣狼」よりも醜悪に歪んでいるのを見た。
【教団の介入:『救済』という名の狩り】
村人たちが縄を手に、抗うシールを祭壇へと引き立てようとしたその時、村外れの曲がりくねった土道から「パカッ、パカッ」と、極めて規則正しく重々しい馬蹄の音が響いてきた。
その音に乱れはなく、むしろ息を呑むような粛粛たる威圧感を孕んでいた。全身雪白の戦馬に跨り、純白に金縁の長袍を纏った三人の騎士が、緩やかに村へと入ってきた。彼らの胸元に刻まれた金色の天秤十字の紋章が朝露に輝く。それは「聖教団」異端審問局の標章であった。
先頭の審問官が馬を降り、金属靴が乾いた土を叩く「カツン」という音が響くと、騒めいていた村人たちは一瞬で静まり返った。彼は白い手袋を脱ぎ捨て、氷塊のように感情の欠落した瞳を露わにした。
「『汚濁』の気配が、すでに森から溢れ出しているな」 審問官の冷徹な声が空曠な村の入り口に木霊し、拒絶を許さぬ審判の重圧を撒き散らす。
老村長は震えながら跪き、額を地面に擦りつけた。「閣下……よくぞお越しくださいました。あの魔女が……森の怪物が、我らの子をたぶらかし、この土地に呪いをかけようとしているのです!」
審問官は泥の中に押さえつけられたシールの前へと歩み寄った。二本の指で嫌悪感を露わにシールの顎をしゃくり上げ、その首筋で翡翠色に脈打つ、生命の輝きを湛えた刻印を凝視した。
「翡翠の刻印、そしてこの異香か……」 審問官は冷笑を浮かべると、乱暴に手を離し、シールの顔を泥の中へと突き戻した。彼は従者から受け取った銀の聖水を指先に滴らせる。それは「ジュッ」と浄化の音を立てて蒸発した。「これは癒やしではない。『魂の侵蝕』だ。この娘はすでに魔女の宿主となり、その心智は森の穢れた囁きに満たされている」
「違う……そんなんじゃない! 彼女はみんなを助けてくれたのに……」 シールは泥を噛みながら、絶望に満ちた声で哀願した。
「卑しき供物よ、その呪われた口を閉じよ」 審問官は集まった村人たちに向き直り、銀色の権杖を高く掲げた。「聞け、迷える子らよ! 慈悲深き救済とは、甘やかすことではない。徹底的な焚上こそが救いなのだ。あの魔女はお前たちの弱さに付け込み、森に巣を喰った。今、神はお前たちに贖罪の機会を与えられた――鎌を、松明を手にせよ! 聖教の旗の下、あの汚らわしき巣穴を浄化するのだ!」
「浄化を! 浄化を!」 村人たちの感情に火がついた。恐怖は集団的な狂気へと変貌し、農作物を刈り取るための鎌が「シャッ、シャッ」と研ぎ澄まされ、松明の油が「ゴォッ」と音を立てて燃え上がる。
「閣下、我らは何をなすべきでしょうか?」 老村長が顔を上げた。その瞳に慈悲はなく、教団から与えられた「正義」という名の狂信だけが宿っていた。
「造作もないことだ」審問官は森林の深淵を見据えた。その瞳には、すでに破滅の火光が映っている。「この娘を餌にする。エルフという傲慢な生物は、己が愛でる『愛玩物』のためなら、必ず影から這い出してくるものだ。あの秘密の花園で、魔女に相応しい盛大な葬儀を執り行ってやろうではないか」
シールは乱暴に鎖の付いた囚人馬車へと押し込められた。「ギィィ、ギィィ」と軋む車輪の音と鉄鎖の触れ合う音が、死への伴奏となって響く。彼女は、かつて見知ったはずの近隣の人々が、興奮した面持ちで松明に聖油を注ぐ姿を眺めていた。鼻を突くタールの臭いが、彼女の体から晩香玉の最後の残り香を一滴ずつ、無慈悲に消し去っていった。
【翡翠の戦慄:森林凋零の予兆】
山谷の晩香玉は、月が落ちた後の微光の中でなお揺れていた。しかし、かつてシールを心酔させたあの香りは、今のエルビアの鼻腔にはひどく重く、粘りつくような澱み(よどみ)として感じられた。
エルビアは独り泉のほとりに立ち、修長な指先で水面をなぞった。広がる細かな波紋に映し出された彼女の顔――その翡翠色の瞳の奥で、微かな黒い影が不穏に跳ねている。それはシールに刻んだ「標記」から伝わる反応だった。本来なら温かな潮騒のように届くはずの生命の鼓動が、今は鋭く、砕け散るような、恐怖に満ちた痙攣となって伝わってくる。
「シール……?」 彼女は低く呟いた。その声は死寂とした山谷の岩壁にぶつかり、空虚な残響を返した。 森の空気が変わった。
エルビアの魂と繋がっていた古木たちが、「ギィ、ギィ……」と低く沈痛な悲鳴を上げ始めた。樹根が土の深層で、尋常ならざる震動を感知したのだ。遠くでは、夜明け前の闇を切り裂いて鳥の群れが飛び立ち、羽が空気を打つ「バサバサバサッ」という音が、急き立てる太鼓の連打のように鳴り響いた。
エルビアは身を屈め、掌を湿った苔に押し当てた。地脈のうねりを通じて、彼女は魂を戦慄させる音を聞き取った。それは重苦しい金属の衝突音、草木を蹂躙する馬蹄の鈍い響き、そして彼女が最も忌み嫌うもの――大勢の人間が集まった時の、あの濁り、貪欲で、悪意に満ちた呼吸の音。
何より彼女を凍りつかせたのは、それらの喧騒の中に混じる、火油が点火された際の「ゴォォッ、ゴォォッ」という咆哮だった。それは数百年前の悪夢の再来に他ならない。
「彼らは結局、正義という名の松明を手にやってきたのですね」
エルビアは緩やかに立ち上がった。周身の魔力が激しく波打ち、乳白色だった晩香玉の花びらが一瞬にして枯れ果て、黒い煤となって風に散った。
感じ取れる――シールの微弱な気配が、聖水の匂いを纏った冷酷な魔力の障壁によって隔絶されていくのを。刻印を強引に引き剥がされるような刺痛が、指先から心臓へと駆け抜ける。
「愚かな人間ども……」 エルビアの声は極地の氷の如く冷徹に響いた。
彼女が手を伸ばし、指先で空を裂くと、地底から数条の黒い蔓が「ヒュッ」という風切り音とともに飛び出し、彼女の足元でとぐろを巻いた。 「どうしてもこの平穏を焼き尽くしたいのなら、この森を、お前たちが永劫に逃れられぬ墓場として差し上げましょう」
風もない山谷で彼女の長髪が狂乱のごとく舞い上がり、翡翠色の瞳の深淵で、怒りと裏切りが絶望的なまでに鮮烈な紅い光を放った。
【裏切りの火種:禁域への進軍と血の洗礼】
林間の静寂は、乾いた枝が重い金属靴に踏み砕かれる「パキッ」という音によって完全に引き裂かれた。
かつて村人たちが「聖母の住まう地」と崇めた神聖な小道は、今やうねる火の龍に占拠されていた。数十人の壮年の男たちが、油脂の染みた松明を掲げている。火舌は湿った空気の中で「ゴォッ、ゴォッ」と音を立てて翠緑の葉を舐め取り、通り過ぎた後には焦げた無惨な残骸だけを残していった。
「遅れるな! 妖霧に惑わされるんじゃねえぞ!」 猟師たちが荒々しく声を張り上げる。彼らが手にしているのは、日常的に家畜を解体するために使われる猟刀だ。その刃は火光を反射し、嗜虐的な赤に染まっていた。
隊列の中心では、囚人馬車が凹凸の激しい林道で「ギィ、ギィ」と激しく揺れていた。シールは太い鉄鎖で両手を後ろ手に縛られ、檻の隅で丸まっていた。純潔の象徴であった白い麻のドレスは泥と茨に引き裂かれ、露出した肌には無数の血痕が刻まれている。
進軍が秘密の花園の境界に達した時、審問官が制止の合図を送った。彼はゆっくりと馬車へ歩み寄り、壊れた人形のようなシールを見つめた。
「刻印は洗浄されねばならず、汚れは剥ぎ取られねばならない」 審問官の声は、背筋が凍るほどに優雅だった。
彼は長袍の袖から、禁錮の呪文が刻まれた三寸ほどの銀釘を取り出した。怯えるシールの眼前で、彼は檻の中に手を差し入れ、翡翠色の刻印が脈打つ彼女の首筋を冷酷に掴んだ。
「あ、あああああああ――ッ!!」
鋭い悲鳴が林間を貫いた。審問官は刃物を使う代わりに、その銀釘を翡翠の光が最も強いシールの項へと直接打ち込んだのだ。銀と魔力の印が接触した瞬間に放たれた「ジュッ」という激しい焼灼音とともに、吐き気を催すような焦げた肉の臭いが大気へと拡散した。
「これは序曲に過ぎん」 審問官は冷笑を浮かべたまま、手を止めなかった。彼は従者から、強酸と聖水が混合され、煮えくり返った「浄化の油」を受け取った。
彼はその熱液を、鉄鎖に食い込み血みどろになったシールの両手へと、ゆっくりと注ぎかけた。激痛にシールは全身を激しく悶えさせ、骨が檻の鉄格子に叩きつけられる「ガシャン、ガシャン」という音が、死寂とした山谷に異様に響き渡る。聖水の腐食によって彼女の両手からは白い煙が立ち上り、生命力に満ちていた肌が一寸ずつ崩壊し、炭化していった。
「お願い……来ないで……エルビア……」 絶叫で枯れ果てた喉から、血の混じった吐息とともに、彼女は途切れ途切れにその名を呼び続けた。
審問官の眼差しはより一層冷酷さを増した。彼はシールの褐色の長髪を掴み上げ、強引に森の深淵を見据えさせた。「見よ、お前の救済は現れぬ」彼は塩水の染みた茨の鞭を取り出した。「パァンッ!」という乾いた音とともに、鞭の先が昨夜エルビアが口づけを落としたシールの鎖骨を正確に捉えた。その一撃は肉を引き裂き、白い骨を露わにさせ、鮮血が清らかな晩香玉の上に噴水のように降り注いだ。
「もっと大きな声を出せ、シール」審問官は彼女の耳元で囁き、項の銀釘を指先で強く圧迫した。「お前の『愛する者』に聞かせてやるのだ。凡人の手の中で、お前がいかなる『救済』を享受しているかをな。彼女が出てこなければ、次の鞭はお前の両目を二度と月光を拝めぬように潰してやろう」
シールの頭は力なく垂れ、鮮血がドレスを伝って苔の上に「ポタ、ポタ」と重い音を立てて落ちる。この刺すような紅は、濃厚な晩香玉の香りと混ざり合い、病的で絶望的な祭典の色彩を形作っていた。
「エルビア様……逃げて……お願い、逃げて……」
しかし、その哀願に応えたのは看守の暴力だった。一人の村人が木棒で檻の鉄格子を「ガーンッ!」と力任せに叩き、シールの鼓膜を震わせた。 「黙れ! 化け物に舐められた売女め!」 男は忌々しげに彼女に唾を吐いた。彼の瞳にはかつての慈しみなど微塵もなく、宗教的な恐怖に歪められた狂信だけが宿っていた。「お前は最高の囮だ。あの魔女が助けに来たら、まとめて灰にしてやる!」
審問官は白馬に跨り、聖石の埋め込まれた提灯を掲げた。その灯火は刺すように冷たい銀の光を放ち、エルビアが張っていた迷霧を強引に追い払っていく。彼は森の奥で不安げに蠢く蔓を見つめ、残酷な笑みを浮かべた。
「感じているか? あの魔女の憤怒を」 審問官は低く冷笑し、権杖を山谷の入り口へと向けた。「あそこだ。生命の気配が最も汚濁している場所は。この娘を最前線へ押し出せ。あの『聖母』に、己の愛玩物が守護のなかでいかに破滅していくかを、特等席で見せてやろうではないか」
村人たちは獣のような低い唸り声を上げ、囚人馬車を押し進めた。踏みつけられた花々を越え、松明の光は海となって森林の陰影を隅へと追いやる。これはもはや行軍ではない。「裏切り」と「無知」によって編まれた狩猟であり、獲物と狩人の間には、もはや一片の憐れみすら残されてはいなかった。




