表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/15

【聖女からの招待状:覚醒の余韻と血の契り】

【捕食者の目覚め】


クレスタが瞳を開いたとき、世界はもはや彼女の知る姿ではなかった。 乾燥した蒼白な地獄から、温かく粘り気のある紅宝石ルビーの深海へと墜落したかのような感覚。体内を数万の蟻が這い回るような「断絶」の焦燥は、前例のない「飽和感」によって完全に塗り潰されていた。それは血管を奔流する聖薬の余韻であり、父から移された薬液の侵略的な残り香が、彼女の神経末梢を執拗に舐め回していた。


「はぁ……っ、あぁ……」


細く長い指が、無意識に自らの胸元を押さえる。そこにある鼓動は、もはや弱々しい脈動ではない。重いドラムを叩きながら目覚める野獣の足音だ。 感覚は数倍に跳ね上がり、異常なほどに鋭敏で飢えていた。 シルクの寝衣が肌を擦る微かな振動さえも、普段の優雅さを通り越し、皮膚を焦がすような痺れ(しびれ)をもたらす。壁の奥で木材が爆ぜる微音、廊下の向こうで従者たちが刻む規則正しい呼吸音——それらはもはや人間の存在証明ではなく、脈動する温かな「食材」の気配として彼女の脳に響いた。

クレスタは身体を起こし、夜露のような黒髪を滑らせた。舌先を出し、父に奪われ、今も熱を帯びている唇をそっとなぞる。 そこにはまだ父の味が残っていた。高慢さと煙草、そして朽ちゆく権力の苦み。それは今の彼女にとって、世のいかなる珍味よりも甘美であった。


鏡の中の少女は、白磁の如き美しさを保ちながら、その紅宝石の瞳の奥にどろりと濁った、それでいて鮮烈な「欲火」を灯していた。それは肉欲ではなく、対象を「解体し、略奪し、占有する」という絶対的な病質。


「もっと……もっと欲しい……お父様の匂い、そして、あの女の……」


その時、極めて微かだが、強烈な「人肉の甘さを隠した晩香玉チュベローズ」の香りが鼻腔を抜けた。クレスタの鼻翼が微かに動き、視線は枕元に置かれた一通の封書へと吸い寄せられた。


【魔女の共鳴】


クレスタの細長い指先が、暗紅色の封蝋を軽やかに弾いた。それはまるで、熟れきった果実の皮を剥くような手つき。 開封と共に溢れ出した晩香玉の芳香は、極限まで研ぎ澄まされた彼女の感覚の中で、血塗られた幻視へと姿を変えた。切り刻まれた皮肉、煮え滾る内臓、引き剥がされる魂の戦慄。

「ふふ……熱烈な歓迎ですこと」


取り出した便箋の質感は、植物の繊維というより、丁寧に鞣された人間の皮膚のような、不気味な温もりと弾力を備えていた。そこに躍る文字は優雅でありながら侵略的で、一筆一筆が空気さえも切り裂くナイフのようだった。


『烈火と月光の中で新生した、親愛なる我が姉妹へ:

オーベルドルフでの「驚き」は、さぞ貴女を揺さぶったことでしょう。粗野な男たちは、貴女という完璧な芸術品を獣性で汚すことしか知らない。 ですが私は信じています。あの「神恩」の中で貴女が感じた温もりこそ、私たちの魂が帰るべき場所であることを。

貴女はそれを飲み干した。そうでしょう? 私には分かります。 逆巻く血の海の中で、貴女の美しくも無残な魂が、飢えた産声を上げているのを。

—— 貴方の永遠なる友、アリア。』


「姉妹……? いいえ」 クレスタは便箋を火照った頬に押し当て、喉の奥で迷幻的かつ危険な嬌声を漏らした。 「貴女は、最高の……調味料スパイスだわ」


アリアの暗示によれば、葬儀は単なる公爵の権力奪取の舞台ではない。それは「姉妹」と呼び合う二人の魔女が、世界に向けて救済の芸術を披露する初舞台。便箋の末尾に刻まれた法陣のルーンに触れた瞬間、彼女の脳裏に数名の貴族の顔が浮かんだ。それは葬儀で捧げられるべき「供物」の名簿。


この空間を超えた病的な連動は、クレスタに未知の「同類意識」を抱かせた。だが彼女の愛は、アリアの慈悲とは違う。彼女の愛は独占だ。相手の血管を切り開き、その熱を一滴残らず飲み干すこと。


「これほど寛大なお誘いをいただいたのですもの……。相応の『贈り物』をお返ししなければ、失礼にあたりますわね」


鏡の中の自分を見つめる彼女の瞳には、標的を見定めた捕食者の狂気が沈殿していた。


【禁忌の誓約と血の温存】


冷徹な硝煙の気配と共に、ルートヴィヒ公爵が黒の喪服を纏い入室してきた。 重厚な靴音が、昂奮の淵にいるクレスタの神経を一段ずつ踏みしめる。 クレスタはアリアの手紙を頬に寄せたまま、白皙の肩に夜色の髪を散らし、妖異な紅い眼を父へと向けた。


「アリアの手紙は読んだな」 ルートヴィヒはベッドサイドで足を止め、娘を見下ろした。岩のように冷たいその瞳には今、父性、狂熱、そして剥き出しの占有欲が混濁していた。


「はい、お父様……」 クレスタは温もりを求める幼獣のように、公爵の腰に腕を回し、顔をその冷たく硬い喪服の布地に埋めた。父の纏う乾燥した煙草と腐朽の香りは、聖薬によって増幅され、魂を震わせる麻酔剤となった。


「葬儀の場では、アリアが信徒を利用して動乱を起こす。その隙に……」 公爵は身を屈め、唇をクレスタの耳元に寄せた。それは恋人同士の囁きよりも低く、重い。 「貴様は衆人環視の中、私の宰相への道を阻む腐肉どもを、優雅に切り刻め。クリフ家の『美学』がいかに彼らの命を凌駕しているか、全帝国の貴族に知らしめるのだ」


クレスタは甘く、狂おしい笑い声を上げた。彼女は顔を上げ、公爵の指に嵌められた冷たい家紋の指輪をそっと舐め、父の漆黒の瞳を射抜いた。


「もし、私が完璧にやり遂げられたなら……」 彼女は指先で父の襟を掴み、呼吸が触れ合う距離まで引き寄せた。「明日、戻ってきたとき、あのお薬よりも甘美で、徹底的な『褒美』をいただけますか? 欲しいのは、ただの称賛ではありませんわ、お父様……」


その眼は、目の前の男を徹底的に解体し、呑み込みたいという究極の渇望を映していた。 ルートヴィヒは、自らが育て上げ、今まさに開花した「魔女」を見つめた。氷封されていた彼の心臓が、娘の殺意に満ちた愛慕によって激しく鼓動する。倫理を超え、血と野心の上に築かれた共犯関係。


「貴様が私にとって最も鋭き死神となれるのなら……」 公爵は再び頭を下げ、その唇を、自らがつけた首筋の赤印へと重ねた。 「その後は、私の権力も、肉体も、この魂の欠片の一つ一つに至るまで……貴様に『収蔵』させてやろう。私という存在の全てが、お前の生贄だ、クレスタ」

クレスタは泣き声に近い満足の呻きを漏らした。自分自身を捧げると誓った男を強く抱きしめ、内の飢餓と殺意は完璧な均衡に達した。


「ええ……私の愛しい、お父様」


窓外、蒼白だった月光は妖異な真紅へと転じていた。 影の中で寄り添う父娘は、来たるべき血塗られた葬儀に向け、最期の死約を交わした。


お読みいただき、ありがとうございます。

クレスタは聖女アリアからの「招待状」を受け取り、自らの立ち位置を「孤高の捕食者」から「狂気の連動者」へと昇華させました。 父ルートヴィヒとの関係も、もはや主従や親子ではなく、互いを食らい尽くそうとする共犯者、あるいは互いを生贄とする「究極の愛憎」へと変質しています。

聖薬の覚醒、聖女の共鳴、そして父との血の誓約。 全てのピースが揃い、物語はいよいよ帝都全域を血の色に染めるクライマックスへと突入します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ