幕間:賢者の休日と、ギルドの負債(テクニカルデット)
贅沢というのは、恐ろしい毒だ。
レアルトの街でも最高級の部類に入る宿、『三つの月亭』。
その最上階にある特別室で、俺は吸い込まれるような柔らかさの羽毛布団に包まれていた。
窓の外には二つの月が輝き、室内にはほんのりと魔導具による温度調整が効いている。
左腕のデバイス『Link』を確認する。
『おはようございます、佐藤。バイタルチェック完了。
現在の体力残量(HP):100%。筋肉の炎症は完全に消失しました。
……佐藤。本機があなたをテスターとして認識して以来、初めての「健康体」です』
「……ああ。俺も、自分の体がこんなに軽いのは20年ぶりだよ」
俺は、枕元に置いた高級な果実水を一口飲んだ。
フェンリルの件でもらった報酬――金貨1枚と、希少薬草の売却益。その合計額は、俺のような枯れたおじさんがこの街で数ヶ月、何もせずに食いつなぐには十分すぎる大金だった。
(……これだよ。これを求めていたんだ)
朝から晩までサーバーの監視に追われ、エラーログの通知に怯え、クライアントの無理難題に胃を痛める日々。そんなものは、もう別の世界の、別の誰かの人生だ。
俺はここで、誰にも邪魔されず、ただ「無」になるんだ。
だが、そんな俺のささやかな決意は、昼過ぎに部屋の扉を叩いた一人の女性によって、あっけなく打ち砕かれることになった。
「……サトウ、さん。……いらっしゃいますか……?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、冒険者ギルドの受付嬢、ミーナさんの声だった。
だが、その声には、いつもの事務的な快活さが微塵もなかった。
嫌な予感がする。こういう時の声には聞き覚えがある。
納期直前に「致命的なバグが見つかりました」と報告に来る、新人のSEの声だ。
俺は居留守を使おうか一瞬迷ったが、彼女にはフェンリルの件で恩がある。
溜息をつき、扉を開けると、そこには「死相」を浮かべたミーナさんが立っていた。
「……うわっ」
思わず、声が出た。
眼鏡は歪み、目は血走り、あんなに綺麗に整えられていた髪はボサボサだ。何より、彼女が抱えている山のような羊皮紙の束が、その異常事態を物語っていた。
「サトウさん……。お願いです、助けてください……。もう、私たちだけでは、どうにもならないんです……」
「……ミーナさん。とりあえず、落ち着いて。……それ、全部仕事ですか?」
「はい……。最近、街の近くで新しい『迷宮』が見つかった影響で、冒険者の流入が通常の三倍に跳ね上がりました。……登録、依頼の発行、報酬の計算、被害報告の処理……。ギルドの事務局は、もう三日間、誰も家に帰れていません……」
三日間、不眠不休。
俺の脳裏に、かつてのデスマーチの記憶がフラッシュバックする。
「……今のままでは、明日にはギルドの機能が完全に停止します。……サトウさん。あなたの、あの『精霊の計算術』で、この山を……この不条理を、処理してはいただけませんか……?」
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
……負けだ。俺はこの顔に弱い。
「……わかった。……ただし、一時間だけだ。……それ以上は、俺のライフプラン(隠居生活)に関わるからな」
ギルドの事務室は、まさに「戦場」だった。
そこかしこにインクの染みが飛び散り、職員たちは虚ろな目で羽ペンを動かしている。
部屋の隅には、分類もされずに積み上げられた羊皮紙の山。
(……ひどいな。これは『負債』だ。溜まりに溜まったアナログ作業の、テクニカルデット(技術的負債)だ)
俺は、事務机の一つを片付けさせ、そこに腰を下ろした。
「……ミーナさん。まず、一番のボトルネックはどこだ?」
「……ボト……? ええと、一番時間がかかっているのは、冒険者のランクと、依頼の難易度、それから達成率の照合です。……すべて過去の帳簿と突き合わせなければならず、人の手では限界が……」
「なるほど。……検索と、マスタデータの照合、か。……よし、相棒。出番だ。……事務室全体の羊皮紙をスキャンしろ。……OCR(文字認識)で全テキストを抽出、項目別にデータベース化だ。……それから、不整合がある箇所を赤くハイライトしろ」
『了解。……大規模バッチ処理を開始します。
周囲の光学的ノイズをカット。……スキャン実行……5%……20%……』
俺が左腕を上げると、事務室全体に青白い網目状の光――グリッドスキャンが走り抜けた。
「な、何だ!? 魔導師を呼んだのか!?」
「静かにしてください! 今、サトウさんが『精霊』に計算をさせているんです!」
ミーナさんの叫びに、職員たちが動きを止めた。
俺の視界(ARウィンドウ)には、目まぐるしくデータが流れ込んでくる。
『スキャン完了。……全1284件の未処理タスクを検知。
うち、重複記載が156件。計算ミスによる不整合が89件。……名前の誤記が42件。
……佐藤。このギルドの管理体制は、一世代前のOSよりも脆弱です』
「だろうな。……よし、そのままリレーショナル・データベースを構築しろ。……ミーナさん、こっちへ。……今から、この光る板に表示される数字を、あんたたちの帳簿に書き写すだけでいい。……それ以外の『考える作業』は、全部俺の相棒が終わらせた」
俺は、空中に巨大なスプレッドシートを投影した。
そこには、冒険者名、ランク、依頼内容、報酬額が、完璧に整理された状態で並んでいた。
「……こ、これは……。……一週間かかっても整理できなかった名簿が、一瞬で……?」
「……ほら、手が止まってるぞ。……次に、この『赤い行』を見てくれ。……こいつ、報酬を二重取りしようとしてる。……あと、この依頼は危険度の設定が間違ってる。……今の冒険者の平均レベルなら、全滅する確率が60%だ。……修正案を出したから、書き換えておけ」
そこからの俺は、自分でも驚くほど冷徹に、そして効率的に仕事をこなした。
誰が、どこで、何をすべきか。
どの依頼が、どれだけの利益を街にもたらすか。
俺のデバイスは、ギルドの溜まった「ゴミ」を次々とクレンジングし、最適な「ワークフロー」を構築していく。
一時間。
俺が宣言した時間は、あっという間に過ぎた。
だが、その一時間で、事務室を埋め尽くしていた羊皮紙の山は、すべて「処理済み」の棚へと移動していた。
「……お、終わった……。……本当に、終わったのか……?」
一人の職員が、ペンを落として泣き崩れた。
他の職員たちも、呆然とした顔で、自分たちの手元にある「完璧に整理されたデータ」を見つめている。
ミーナさんは、膝をつき、祈るように俺の手を握った。
「……サトウさん。あなたは……あなたは、事務の神様か何かですか……?」
「……ただの、元SEですよ。……それより、約束の一時間だ。……俺は帰る。……あ、それと。……これからは、この書式を使って記録するように。……そうすれば、次からは俺を呼ばなくても、あんたたちの頭だけで計算が合うはずだ」
俺は、デバイスで作成した「最適化された帳簿のフォーマット」を羊皮紙に出力して手渡した。
「……ありがとうございます。……本当に、ありがとうございます!……報酬は、正式な鑑定依頼として、ギルドの特別予算からお支払いします!」
「……金はいいよ。……代わりに、宿に帰ってから、邪魔をさせないでくれ。……今度こそ、俺は寝るんだ」
宿への帰り道。
俺は、自分の手のひらを眺めた。
不思議な感覚だった。
かつてあれほど嫌いだった「事務作業」や「管理業務」。
だが、この世界で、自分の知識を正しく使い、誰かの役に立ち、そして「定時」で終わらせる快感。
(……いかんな。……俺も、すっかり毒されているらしい)
『佐藤。……一つ、報告があります』
不意に、デバイスが冷静な声を上げた。
「……何だ? もう不具合は見つけなくていいぞ」
『……先ほどのギルドのデータを解析した結果。……現在、街の近郊で発見された「新しい迷宮」の攻略成功率が、日に日に低下しています。
……原因は、地形の流動性と、魔力分布の異常。……つまり、既存のマッピング技術では攻略不可能な「バグ」が発生しています』
「……見なかったことにしろ」
『……了解。……ですが、佐藤。ギルドの職員たちは、すでにあなたの「解析能力」を、唯一の解決策として認識し始めています。……あなたが望む「隠居生活」は、当分の間、遠のく可能性が極めて高いと推測されます』
「……クソッ。……やっぱり、異世界でもデスマーチからは逃げられないのか……」
俺は、豪華なはずの宿の入り口で、深いため息をついた。
明日。……明日の朝には、きっとまた誰かが俺の扉を叩くだろう。
「……よし、相棒。……寝る前に、その『迷宮』の予備解析だけ、走らせておけ。……仕事が舞い込んできてから慌てるのは、三流のエンジニアのやることだからな」
俺は、苦笑しながら部屋へと戻った。
魔法の世界でも、管理と効率は最強の武器になる。
けれど、その武器を使いすぎれば、平和な眠りさえも「ハック」されてしまう。
くたびれたおじさんの「効率的」な異世界生活は、どうやら本人の意図とは裏腹に、加速を続けていくようだった。




