第8話:灰霧の主と、おじさんの交渉術。――戦わずに勝つのも『効率』ですよ
灰色の帳が、物理的な圧力を持って俺たちの肌を刺す。
視界はもはや、自分の伸ばした指先すら怪しいほどに白く濁っていた。空気には湿り気と共に、鼻をつくような「焦げた魔力」の匂いが混じっている。
「……おい、サトウさん。……これ以上は、自殺志願者の領域だぜ」
ガーンの声が、霧に吸い込まれるように低く響く。歴戦の重戦士である彼の腕が、かすかに震えているのをデバイスの動体スキャンが見逃さなかった。
『警告。佐藤。……周辺の魔力濃度が、致死量の一歩手前まで上昇しています。心拍数:110。アドレナリン分泌量:過剰。……対象は、すぐそこにいます』
「……わかってるよ。……止まって」
俺が右手を掲げると、三人組は即座に円陣を組んだ。
霧の向こう。そこには、巨大な「影」がそびえ立っていた。樹木ではない。それは、意志を持った霧そのものが形を成したような、異形の存在だった。
全長10メートルはあろうかという、半透明の体を持つ巨狼。それが、この『灰霧の森』の王、灰霧主――フェンリル・ミストだ。
「……う、嘘だろ。……あんなの、ランクAパーティーが束になっても勝てるかどうかだぞ……!」
ライルの悲鳴に近い呟き。魔導師の女性も、杖を握る指を真っ白に染めている。
巨狼の瞳が、青白く発光した。次の瞬間、空気を切り裂くような咆哮が放たれる。
「――グルアアアアアオオオオンンッ!!」
鼓膜を直接揺さぶる衝撃。俺は思わず膝をつきそうになった。
『解析完了。……佐藤。この咆哮は単なる威嚇ではありません。対象は極度の「苦痛」と「不快感」に苛まれています。……原因を特定。背部、魔力器官付近に未知の「外部干渉オブジェクト」を確認。……端的に言えば、背中にトゲが刺さって、それが化膿している状態です』
(……トゲ? ……あんなデカい奴の背中に?)
俺は目を細め、デバイスの望遠ズームと熱感知を同期させた。霧を透過して映し出された巨狼の背中。そこには、赤黒く光る「黒い槍」のようなものが深く突き刺さっていた。
「……ガーンさん。……あいつを怒らせるな。……武器を収めてくれ」
「何を言ってるんだおっさん! あんなのが飛びかかってきたら、一瞬で全滅だぞ!」
「いいから! ……こいつは、怒ってるんじゃない。……痛くて泣いてるんだよ」
俺はガーンの制止を振り切り、一人で霧の向こうへと歩き出した。
「おい、サトウさん! 死ぬ気か!?」
背後の叫びを無視して、俺は一歩ずつ、死の王の前へと進む。巨狼がこちらに気づき、低く唸った。その牙一本が、俺の胴体ほどもある。
「……相棒。翻訳アプリ、出力最大。……思考波送信も併用しろ。……俺の『意図』を、直接こいつの脳内にねじ込むんだ」
『了解。……バイリンガル・ネゴシエーション・モード。起動。対象の言語(咆哮)をリアルタイム解読……。……「来るな」「消えろ」「痛い」「殺す」……ネガティブな語彙の嵐です』
「……よし、俺がやる。……スピーカー、オン」
俺は、足を止めた。巨狼の鼻先、わずか数メートルの距離だ。
「――静かにしてくれ。……俺は、お前を殺しに来たんじゃない。……その背中の『バグ』を、取り除きに来たんだ」
俺の言葉が、重層的な、まるで数千人の声が重なったような「神聖な響き」に変換されて森に響き渡る。フェンリルが、驚いたように動きを止めた。
「……お前の背中に刺さっているもの、それはお前の魔力を吸い取って、腐らせている。……そのままじゃ、お前はあと三日で死ぬぞ。……俺に、デバッグをさせてくれ」
「……グル……ウウ……?」
フェンリルの瞳に、わずかな知性の光が宿る。俺は左腕のデバイスを掲げ、空中に巨大なホログラムウィンドウを展開した。
映し出されたのは、フェンリルの全身の透過図。そして、背中に刺さった黒い槍の拡大図だ。
「……見てろ。……相棒、精密演算を開始。……対象を麻痺させる必要はない。……槍の周囲にある魔力結合を、逆位相の周波数で中和しろ。……痛みを消してやる」
『了解。……アクティブ・マナ・ノイズキャンセリング、実行。指向性スピーカーより、特定波長を出力します。……カウントダウン。3、2、1……射出』
デバイスから、目に見えない光の波が放たれた。フェンリルが、一瞬だけビクッと体を震わせる。だが、その直後。彼は深く、心地よさそうに息を吐き出した。
「……痛みが消えたろ。……今だ。……抜くぞ」
俺は、背後のガーンたちに合図を送った。
「ガーンさん! ライル! ……あいつの背中に飛び乗って、あの黒い槍を抜いてくれ! ……今なら、こいつは暴れない!」
「……正気か!? あのフェンリルに、背中を許せってのか!?」
「俺を信じろ! ……それとも、何もせずにここで死ぬか!?」
俺の気迫に押されたのか、ガーンは大剣を背負い直し、覚悟を決めた顔で走り出した。ライルもまた、風のように木々を蹴って跳躍する。
二人の戦士が、巨狼の毛並みに取り付く。フェンリルは唸るのを止め、ただ静かに、その時を待っていた。
「……せい、のっ!!」
ガーンの咆哮と共に、黒い槍が引き抜かれた。霧を汚すような、どす黒い魔力が噴き出す。だが、それを魔導師の女性が放った浄化の魔法が、鮮やかにかき消した。
槍が地面に落ち、砕け散る。その瞬間、森を覆っていた不快な「重圧」が、霧散した。
数分後。霧が薄れ、木漏れ日が差し込む静かな空間で、俺たちは立ち尽くしていた。
フェンリルは、その巨大な頭を俺の目の前まで下げ、フン、と鼻息をかけた。
『……感謝する、小さき賢者よ。……我を蝕んでいたのは、北の「呪い」だった。……貴殿の放った不思議な光が、我を闇から救った』
翻訳アプリが、今度は落ち着いた、威厳ある老人の声でその意志を伝えてきた。
「……お礼なら、その足元にある薬草を分けてくれ。……俺たちは、それを探しに来たんだ」
『……「銀月草の王」か。……好きなだけ持っていくがいい。……この森は、今日より貴殿の友だ。……道に迷うことがあれば、我の名を呼ぶがいい』
フェンリルの体が、ゆっくりと霧の中に溶けていく。気づけば、俺たちの足元には、見たこともないほど美しく輝く、純銀色の薬草が群生していた。
「……は、はは……。……信じられねえ」
ガーンが、その場にへたり込んだ。ライルも、短剣を握る手が震え、情けない声を漏らしている。
「……おっさん。……あんた、一体何者だ。……戦いもしないで、あのフェンリルを説得しちまうなんて……」
「……説得じゃない。……ただの、デバッグですよ」
俺は、デバイスの画面に表示された『体力残量:20%』の警告を眺め、苦笑した。
「……さあ、急いで採取して帰ろう。……俺はもう、一歩も動きたくないんだ。……帰りは、あいつが道を空けてくれるらしいからな」
街への帰り道。『鋼の牙』の三人は、まるで伝説の英雄を見るような目で俺を見守っていた。
だが、俺の心にあるのは、そんな高尚な達成感ではない。
(……金貨1枚。……それに、王級の薬草の報酬。……これなら、一ヶ月は働かなくていいな)
おじさんの脳内計算は、すでに「最高の休日」のスケジュールで埋め尽くされていた。
「……相棒。帰ったら、一番高いワインと、あの宿で一番豪華なベッドを予約しろ。……これは、決定事項だ」
『了解。……佐藤、お疲れ様でした。本日の業務達成率は……120%です』
俺は、重い足取りで石畳の街へと向かった。
魔法も、スキルもない。けれど、この「仕事道具」一台あれば、異世界の神話だってハックできる。
くたびれたおじさんの「効率的」な成り上がりは、今、誰もが無視できないほど大きな波紋を広げ始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
伝説の巨狼・フェンリルを助け、最強の「コネ」を手に入れてしまった佐藤さん。
本人は「これで一ヶ月休める」と喜んでいますが、ギルドがそんな逸材を放っておくはずもありません。
これにて「第1章:生存戦略と『効率化』の第一歩」は完結となります!
次回、第9話より新章突入!
【第2章:新米冒険者はデータの夢を見るか?】
有名になったおじさんの元に舞い込む、さらなる厄介な「デバッグ案件」とは……。
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