幕間:ログに残らない「不在」 ~単身赴任と異世界の静寂~
贅沢な夜というのは、時に毒よりも深く神経を蝕む。
宿『三つの月亭』のバルコニー。手元にあるのは、王都から取り寄せられたという最高級の白ワインだ。透き通った黄金色の液体が、二つの月の光を反射して怪しく揺れている。
前回での『虚数迷宮』攻略。その報酬として得た金貨は、俺のような中年が余生を遊んで暮らすには十分すぎる額だった。
だが、この静寂が、俺を現実に引き戻す。
「……相棒。……今の俺の資産価値を、元の世界の通貨に換算できるか?」
『了解。……現在の金貨の純度と購買力から算出。
……佐藤。日本円に換算して、およそ3億5000万円相当です。
……アドバイス:これ以上の資産形成は、あなたの「定時退社」というライフプランにおいて、オーバーフロー(過剰)の状態にあります』
「3億、か。……宝くじの1等にでも当たったようなもんだな」
俺は苦笑し、ワインを喉に流し込んだ。
かつての俺なら、この金額があれば、すぐにでも退職届を叩きつけて家族の元へ帰っていただろう。
単身赴任。……その言葉が、胸の奥をチクリと刺す。
あっちの世界での俺は、地方のシステムセンターに飛ばされ、狭い1Kのアパートでコンビニ弁当を啜る日々を送っていた。
妻もまた、大手企業のプロジェクトリーダーとして、俺以上に多忙なキャリアを歩んでいた。お互いに「家族を養う」という名目の下、別々の場所で戦い、気づけば会話はLINEの事務的な連絡か、子供の教育費の相談だけになっていた。
今年で18歳になる娘。そして15歳になる息子。
娘の高校の入学式も、息子の反抗期が始まった時期も、俺は画面越しにしか知らない。
単身赴任先からビデオ通話をつなげば、画面の向こうで少しずつ背が伸びていく彼らの姿。だが、その瞳に映る俺は「たまに帰ってくる、疲れたおじさん」でしかなかった。
「……あいつら、俺がいなくなって、泣いてくれたかな」
ふと、そんな青臭い疑問が口をついて出た。
バリバリのキャリアウーマンである妻のことだ。夫という「システム」が欠落したとしても、即座に代替のワークフローを組み上げ、家庭というプロジェクトを滞りなく回しているに違いない。
子供たちも、父親の不在に慣れすぎて、俺がいなくなったことを「長期の出張」程度にしか思っていないのではないか。
そんな不安を掻き消すように、俺は左腕のデバイス『Link』に問いかけた。
「……検索。……この世界から元の世界へ戻るための、通信経路、または物理的ゲートの存在確率を算出。……全ディレクトリ、隠蔽されたログを含めて再スキャンしろ」
デバイスが、これまで聞いたこともないような長い読み込み音を鳴らした。
視界に展開される、膨大なバイナリデータの羅列。
『スキャン完了。……対象の検索ワードに対する「該当データ」は存在しません。
……佐藤。……この世界の論理構造において、「元の世界」は定義されていない外部参照です。
……現時点での帰還確率は、$$0.000000\%$$ です』
ゼロ。
分かってはいたが、突きつけられた数字は冷徹だった。
迷宮の深層にある古代サーバーをハックし、神の如きガーディアンをデバッグした力をもってしても、自分の家族へ届く道筋一つ見つけることができない。
「……はは、無能だな。……俺も、この道具も」
『……訂正します。……本機は、あなたの現在の幸福度を最大化するために稼働しています。
……佐藤。……過去のログに囚われることは、CPUリソースの無駄遣い(メモリリーク)です。
……現在のあなたには、この世界での「迷宮監査役」としての責務と、それに見合う報酬、そして安眠が必要です』
「……効率主義が、牙を剥いてきたな」
俺はワインのボトルをテーブルに置いた。
相棒の言うことは正しい。
方法が不明な問題に対して悩むのは、エンジニアとして最も「非効率」な行為だ。
原因不明のバグに頭を抱えるより、今動いているシステムを維持すること。それが現場の鉄則だ。
だが、時折思い出してしまう。
単身赴任の部屋で、ふと寂しさに耐えられなくなってかけた電話。
妻の忙しそうな「今、取り込み中だから」という声。
娘の少しよそよそしい「パパ、お土産は何がいい?」という気遣い。
あの時、俺は「寂しい」の一言さえ、効率を考えて飲み込んでしまった。
感情を伝えることは、彼女たちの忙しい時間を奪う「エラー」だと思い込んでいたからだ。
「……次に会う時があれば、もう少し……バグの多い話し方をしてもいいかもしれないな」
俺は、夜風に吹かれながら、バルコニーの手すりを強く握った。
今は、考えない。
考えないことが、この世界で生きていくための「パッチ」だ。
明日には、また別の「デバッグ案件」が舞い込んでくる。
美少女の意匠がどうとか、古代の魔導回路がどうとか。……そっちの方が、俺にとっては扱いやすい、論理的な問題だ。
「……相棒。……思考プロセスをクローズ。……明日の朝6時まで、睡眠モードへの移行を承認する」
『了解。……おやすみなさい、佐藤。
……あなたの脳内の「家族」ディレクトリ、一時的にアーカイブ化しました。……必要になるその時まで、安全な場所に保管しておきます』
「……お節介な奴だよ、お前は」
俺は部屋に戻り、豪華すぎるベッドに身を沈めた。
異世界の静かな夜。
二つの月が照らすこの世界で、一人のエンジニアは、ログに残らない寂しさを胸の奥に封じ込め、深い眠りへと落ちていった。
――その夢の中にさえ、帰るべき場所へと続く道は、まだ描画されることはなかった。
幕間を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
おじさんの「効率主義」は、実は自分の寂しさを誤魔化すための盾でもあった……。
そんな彼の人間臭さが垣間見えるエピソードでした。
「今は考えない」と決めた佐藤さんですが、その胸に秘めた想いは、いつか世界を動かす大きな力になるのかもしれません。
これにて幕間はすべて終了!
次回より、いよいよ新展開【第3章】に突入します!
『第3章・第1話:女神の「彩度」が落ちる時』
おじさんが手がける、古代の美少女意匠の復元プロジェクトが始動します。
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