第1話:ギルドマスターの招集と、定時退社の危機
第2章、開幕です。
第1章で「現場」と「事務」のデバッグを完了した佐藤さんですが、ようやく手に入れた平和な隠居生活に、早くも暗雲が立ち込めます。
ギルドマスターから直々に指名された任務は、攻略不能の迷宮に対する「システム監査」。
おじさんのエンジニアとしての本領が、より大きな舞台で発揮される新章を、ぜひお楽しみください。
幸福の定義は人それぞれだが、今の俺にとってのそれは「何もしないこと」に集約されていた。
レアルトの街で最高級を誇る宿『三つの月亭』。その特別室のバルコニーで、俺は異世界の強い日差しをパラソルの下で避けながら、冷えた果実水を口に含んだ。
数日前、ギルドの事務局を襲った「書類の山」という名の怪物をデバッグした報酬は、俺の想像を遥かに超えていた。ギルド側はこれを正式な「鑑定および業務改善コンサルティング」として処理し、俺の革袋にはズッシリと重い金貨が追加された。
「……最高だ。これこそが、俺が五十年の苦行(社畜生活)の末に辿り着きたかった、約束の地だ」
左腕のデバイス『Link』が、視界の端で穏やかなグリーンのグラフを描いている。
『おはようございます、佐藤。バイタルチェック完了。全ステータス、良好です。
現在のストレス指数は……計測開始以来、最低値を更新。
アドバイス:このままの状態を維持すれば、あなたの推定寿命はさらに3年延びる可能性があります』
「3年もいらないよ。……このまま、あと一ヶ月くらい『虚無』として過ごせれば、それで満足だ」
俺は、ホログラムの画面を指先で弾いて消した。
もはや薬草を摘みに行く必要も、ガラの悪い冒険者に絡まれる掲示板の前に立つ必要もない。俺は今、この街で最も「自由」なランクG(最下級)だった。
だが、世の中というものは、一箇所の「不具合」が直ると、その影響で別の「呼び出し(コール)」が発生するようにできているらしい。
部屋の扉が、これまでにないほど重々しく、そして「礼儀正しく」ノックされた。
「……サトウ・ケンジ様。お寛ぎのところ恐縮ですが、お迎えに上がりました」
その声には、受付嬢のミーナさんのような親しみやすさも、ギュンターのような素朴さもなかった。訓練された兵士のような、硬質で、拒絶を許さない響き。
俺は嫌な予感を覚えながらも、重い腰を上げて扉を開けた。
そこに立っていたのは、銀の縁取りがなされた黒い外套を纏った、初老の男だった。背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、その眼光は鋭い。
「……どなたで? ……あいにく、今日はもう『閉店』したつもりなんですがね」
俺がそう言うと、男は深々と、非の打ち所のない礼をした。
「冒険者ギルド・レアルト支部、総務監理官のヘンドリックスと申します。……当支部のギルドマスター、ゾルダンが、あなたを緊急招集しております」
「……ギルドマスター?」
俺は、思わずデバイスの時計を確認した。
午後二時。社会人なら一番眠たくなる時間だ。そして、組織のトップが最下層の平社員……どころか、登録したばかりの派遣社員(ランクG)を名指しで呼び出すなど、トラブル以外の何物でもない。
「……すみませんが、俺はただのランクGですよ。……偉い人の話し相手になれるような身分じゃありません」
「『事務の賢者』殿。謙遜は不要です。……これは依頼ではなく、ギルド規約に基づく『特命招集』です。……拒否された場合、あなたの冒険者資格は即時剥奪、およびこれまでの報酬の差し押さえが発生する可能性があります」
「……っ。……そいつは、随分と強引な勧誘だな」
俺は、心の底から溜息をついた。
どうやら、幕間での「デバッグ作業」があまりにも鮮やかすぎたらしい。
効率化。それは時に、自分をさらに忙しくさせるための罠になる。
俺は、お気に入りの「何もしない時間」をバルコニーに残したまま、ヘンドリックスの後をついていくことにした。
案内されたのは、ギルド本部の最上階。
一般の冒険者が立ち入る酒場や受付カウンターとは、空気の密度さえ違う場所だった。厚手の絨毯が敷かれた廊下を進み、彫刻が施された巨大な黒檀の扉の前で、ヘンドリックスが足を止める。
「……入るがいい、賢者よ」
中から響いたのは、地鳴りのような重低音だった。
部屋の中は、無数の本棚と、壁一面に貼られた巨大な地図に占領されていた。
中央にある巨大な執務机。そこに座っていたのは、熊のような体躯をした、白髪混じりの大男だった。顔にはいくつもの傷跡があり、その眼光は、向けられただけで肌がチリつくようなプレッシャーを放っている。
彼こそが、レアルトの冒険者たちを束ねる頂点。ランクS冒険者上がりのギルドマスター、ゾルダンだった。
「……おじさんを呼び出して、何の用ですか。……見ての通り、俺には剣を振る筋肉も、呪文を唱える魔力もありませんよ」
俺はあえて、くたびれた中年のトーンを崩さずに椅子に座った。
ゾルダンは、俺の左腕で光る『Link』をジロリと一瞥すると、無造作に一枚の巨大な羊皮紙をテーブルに広げた。
「……御託はいい。……サトウと言ったな。……貴様の『精霊』に、これを見せてみろ」
それは、最近街の北側で発見されたという新迷宮『虚数迷宮』の暫定的な地図だった。
「……何だ、これは。……書き損じ(バグ)か?」
一目見ただけで、俺の直感がアラートを鳴らした。
地図に描かれた通路が、不自然にねじれ、重なり合い、空間的に矛盾している。
「その通りだ。……三日前、ランクAパーティー『銀翼の騎士団』が突入したが、わずか三階層で撤退してきた。……彼らの証言によれば、『さっきまであったはずの扉が、振り返ると壁になっている』。あるいは、『上り階段を上がったはずが、一つ下の階層に出てくる』……。空間そのものが、狂っている(エラーを起こしている)のだ」
ゾルダンの言葉に、俺は思わずデバイスを起動させた。
「……相棒。この地図データを読み込め。……既存の空間幾何学と照合。……可能性を算出しろ」
『了解。……地形データの解析を開始します。
……佐藤。この構造は、三次元的な建築物ではありません。
……あえて表現するなら「常に再構成され続ける動的データ」です。
……迷宮そのものが、外部からの入力……つまり魔力の乱れに反応して、構造を書き換えています』
「……書き換え(アップデート)……だと?」
俺は、思わず身を乗り出した。
ゾルダンは、俺の反応を見て満足げに頷いた。
「……普通の鑑定士は『呪いだ』とか『神の悪戯だ』とかぬかしおる。……だが、貴様はそれを『仕組み(システム)』として捉えているようだな。……サトウ。貴様に頼みたいのは、この迷宮の攻略ではない」
「……じゃあ、何を?」
「――システム・オーディット(監査)だ。……貴様のその光る魔導具で、迷宮の『狂い』の原因を突き止め、正常な攻略ルートを導き出せ。……このままでは、街の物流を支える北の街道が、迷宮から溢れ出した魔力で閉鎖されてしまう」
監査。
その言葉を聞いた瞬間、俺の胃のあたりがズキリと痛んだ。
かつて、システムがパンクし、誰も原因がわからなくなった現場に送り込まれ、数万行のコードを一行ずつ検証させられた、あの不毛な日々の記憶。
「……お断りだ。……俺は今、休暇中なんです。……そんな、全容もわからない大規模プロジェクトのデバッグなんて、五十歳の心臓に悪すぎる」
「――報酬は、金貨20枚。……成功すれば、貴様を正式なギルド役員『迷宮監査役』として登用し、生涯にわたる生活を保証しよう。……どうだ、悪くない話だろう?」
金貨20枚。
……日本円に換算すれば、おそらく一千万円を軽く超える額だ。しかも、生涯保証。
俺の理性が、全力でブレーキを踏もうとしている。
だが、俺の中の「エンジニアの性」が、その『虚数迷宮』という名の巨大なバグの正体を知りたがっていた。
「……一つ、確認です。……現場(迷宮)には、俺も行く必要があるんですよね?」
「当然だ。……だが、安心しろ。……貴様を守るために、街最強のパーティー『銀翼の騎士団』を全権同行させる。……貴様は、後ろでその板を叩いて指示を出すだけでいい」
「……指示を出すだけ、ね。……営業の奴らがよく言う台詞だ」
俺は、大きく、長く、この日一番の溜息をついた。
自由な隠居生活。定時退社の夢。
それらは、どうやらこの異世界でも「高難易度のレアアイテム」らしい。
「……わかりました。……ただし、残業はさせないでくださいよ。……夕食の時間には、必ずキャンプ(セーフエリア)に帰る。……それが条件です」
「はははっ! 迷宮で定時退社を望む冒険者か! ……面白い。……交渉成立だ」
ゾルダンの豪快な笑い声が、執務室に響き渡った。
ギルドを後にし、夕暮れの街を歩く。
俺の左腕のデバイスは、すでに『虚数迷宮』の暫定データを解析し始めていた。
『佐藤。……本件の推定工数は、あなたの現在のリソースに対して……過剰です。
……ですが、この迷宮の「非論理的構造」を解決できるのは、この世界で本機とあなただけです』
「……わかってるよ。……結局、どこに行っても仕事からは逃げられないってことだ」
俺は、宿の自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
明日。……明日の朝には、その『銀翼の騎士団』とかいうエリート連中とのキックオフ・ミーティングが待っている。
中年の身体には、すでに「月曜日(憂鬱)」の重圧がのしかかっていた。
「……よし、相棒。……寝る前に、騎士団のメンバーの情報を収集しておけ。……どんな『バグ』持ちのパーティーか、先に知っておきたいからな」
『了解。……「銀翼の騎士団」の戦績ログを取得します……。
……佐藤。一つ、警告を。……彼らは、極めて「プライドが高い」と記録されています。
……あなたの「効率主義」とは、衝突する確率が85%です』
「……最高に面倒だな。……ますます、胃が痛くなってきた」
俺は、二つの月が窓を照らす中、明日のための胃薬の準備を考えながら、泥のような眠りに落ちていった。
くたびれたおじさんの、本当の意味での「仕事」が、ここから始まろうとしていた。
第2章・第1話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
金貨20枚という「提示額」と「生涯保証」という甘い言葉に、ついに重い腰(と持病の腰痛)を上げた佐藤さん。
定時退社を条件に、前代未聞の「迷宮監査」が始まります。
次回、第2話「エリートパーティーとの『キックオフ』」。
街最強を自負するAランクパーティー『銀翼の騎士団』と対面しますが、魔力ゼロのおじさんに対する彼らの反応は……。
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